第1話:主電源、切断さる
地下三百メートル。帝国中央宮廷魔導研究所の最奥に位置する『中央魔力制御室』は、昼夜を問わず巨大な獣の胎内のような熱気と重低音に包まれていた。
ズゥゥゥン……ズゥゥゥン……。
分厚い耐圧ミスリル板で覆われた炉壁の向こう側で、大陸の深部を流れる荒れ狂う龍脈の奔流が脈動している。
それは言わば、大地が放つ数千万ボルトの制御不能な雷撃の渦だ。触れた者を一瞬で炭化させ、並の魔導金属すらプラズマ蒸発させる神話級の暴威。
その巨大な熱源炉の直前に、一人の青年が立っていた。
「……第十六分流の整流弁、開度四十二パーセント。パルス同調周波数、三千二百ヘルツからズレなし。バイパス管の接地圧、〇・八五メガパスカルで安定」
エドガー・アルトマンは、手にした真鍮製の魔力測定レンチを軽く締め直し、作業着の袖で額の汗を拭った。
彼の外套は、何年もの激務で染み付いた魔力オイルの煤と、オゾン臭が混ざり合った独特の匂いを放っている。
耳には遮音イヤーマフ、手には絶縁レザーグローブ。指先は無骨なタコで固くなり、ミリ単位の振動を感知するために研ぎ澄まされていた。
エドガーの役職は【筆頭宮廷魔力循環士】。
しかし、その実態は「大陸全土の送電網を一人で維持する生体変圧器」だった。
龍脈から汲み上げられた生の魔力は、そのままでは都市の配管に流せない。過電流で魔導具が破裂し、大爆発を起こすからだ。
エドガーは自らの体内に宿る特異体質――《無尽蔵の生体リアクター》を触媒として、荒れ狂う龍脈の奔流を一身に受け止め、波形を平滑化し、安全なクリーン魔力へと降圧して大陸全土のグリッドへと送り出していた。
二十四時間三百六十五日、常に神経をすり減らす過密労働。
ここ五年、まとまった睡眠すら取れず、有給休暇など書類の上でしか見たことがなかった。
だが、エドガーはこの仕事を誇りに思っていた。
自分がバルブを回し、電圧を調整しているからこそ、帝都の何十万もの市民が安全に魔導灯を灯し、温かい風呂に入り、パンを焼き、病院の命が繋がれているのだと信じていたからだ。
――だが。
その矜持を、冷笑と共に踏みにじる足音が近づいてきた。
コツ、コツ、コツ……。
防音隔壁が重々しい音を立ててスライドし、制御室の蒸気の中に数名の人影が現れた。
先頭に立つのは、豪奢な白銀のミスリル甲冑に金糸のマントを羽織った偉丈夫――帝国宮廷魔導師団長であり、皇帝から『聖剣の勇者』の称号を賜った男、ギルバート・フォン・レムニウスだった。
その後ろには、鼻をつまんで眉をひそめる貴族魔導士たちが付き従っている。
「うぇっ……相変わらず油臭いドブネズミの巣だな。息をするだけで肺が汚れそうだ」
ギルバートは白い絹の手袋を嵌めた手で鼻口を覆い、軽蔑に満ちた目をエドガーに向けた。
「ギルバート師団長。ここは立ち入り制限区域です。現在は龍脈の定期変圧サイクルの最中ですので、退去を――」
「黙れ、平民風情が」
ギルバートは傲慢にエドガーの言葉を遮ると、懐から金箔の押された一枚の羊皮紙を取り出し、ペラリと指先で弄んだ。
「エドガー・アルトマン。皇帝陛下の勅令と、我が宮廷魔導師団の満場一致の決定を通達する。――貴様を、本日この瞬間をもって宮廷魔導師団および研究所から解雇、国外追放とする」
シュウウウウ……。
配管から漏れ出た蒸気の音だけが、静寂に落ちた制御室に響いた。
「……解雇、ですか」
エドガーはレンチを握る手を止めず、静かに問い返した。
「理由をお聞かせ願えますか」
「ハッ、理由だと? そんなもの、貴様自身が一番よく分かっているはずだ!」
ギルバートはあざ笑い、羊皮紙をエドガーの足元へ投げ捨てた。
「貴様は五年もの間、この地下室に引きこもり、メーターを眺めてバルブをひねる以外の何をしてきた? 魔獣を一匹でも討伐したか? 神話級の大魔法を儀式で披露したか? 帝国軍の先頭に立って敵国を殲滅したか? 何一つしていない! ただ座っていただけだ!」
「俺の仕事はインフラの維持管理です。龍脈の荒れ狂う生の魔力を整流し、帝都中の魔導具に安定供給するための――」
「言い訳は見苦しいぞ、土管野郎!」
ギルバートの取り巻きの貴族魔導士たちが、一斉に嘲笑を浴びせてくる。
「まったくだ、魔力など大気中にも大地にも無限に満ちている天然資源ではないか」
「それを右から左へ流すだけの配管工に、年間三千万エルもの国費を支払っていたなど、帝国の恥辱だ」
「明日からはその自慢のスパナを持って、下水道のヘドロでもさらっているがいい!」
エドガーは、床に落ちた解雇通知書を見つめた。
そこには皇帝の印璽が確かに捺されていた。
上層部が現場の技術を何も理解していないことは百も承知だったが、ここまで決定的な無知と傲慢に支配されていたとは、もはや失笑を通り越して哀れですらあった。
(大気中の魔力をそのまま使えばどうなるか……試したこともないのか)
彼らは、蛇口をひねれば水が出るのは、水源から浄水場を経て配管を引いた人間がいるからだという、あまりにも当たり前の事実を忘れている。
電気も魔力も、誰かが命がけで電圧を抑え、安全に届けているからこそ使えるのだ。
「……分かりました。解雇通知、確かに受領いたします」
「フン、聞き分けのいいゴミ箱だ。命乞いでもするかと思ったが、己の無能さを自覚しているようで何よりだ」
ギルバートは満足そうに鼻を鳴らした。
「手切れ金として、今月の給与だけはくれてやる。身の回りのガラクタをまとめて、今すぐ帝都から消え失せろ。二度とその汚いツラを余らの前に見せるな」
ギルバートたちは嘲笑いながら、踵を返して去っていった。
重厚な隔壁が閉まり、制御室には再び、エドガーと唸りを上げる炉心だけが残された。
「……やれやれ」
エドガーは深く息を吐き、イヤーマフを外した。
怒りや絶望は不思議と湧いてこなかった。
むしろ、肩の上にのしかかっていた何千トンもの重圧が、ふっと消え去ったような圧倒的な身軽さを感じていた。
「これで……ようやく、寝られるな」
有給休暇の申請書を何十回破り捨てられたことか。
残業代の未払いを訴えても「名誉ある宮廷勤務に感謝しろ」と握りつぶされたことか。
契約書にサインをしたのは向こうだ。正式な解雇通知が出た以上、エドガーにこのインフラを守る法的な義務は一ミリたりとも残されていない。
「さて、私物を片付けよう」
エドガーは愛用の工具を丁寧に磨き、革のツールロールに一本ずつ収めていった。
そして最後に――中央魔力炉の背面に設置された、白銀の接続コンソールへと向かった。
そこには、直径三十センチメートルを超える、極太のミスリル被覆ケーブルが鎮座していた。
エドガーの体内の《生体リアクター》と、帝国全土の魔力グリッドを直結している、世界でただ一つの接点。
文字通りの――《主電源コネクタ(マスター・プラグ)》。
カチリ。
エドガーは安全ロックのレバーを引き下げた。
ズチュウウウウウウン……ッ!!
空気が破裂するような重い金属音が響き、プラグがコンソールから完全に引き抜かれた。
その瞬間、炉心の中で唸りを上げていた黄金の光の奔流が、ぷつりと途切れた。
炉内のメーターの針が、カタカタと音を立ててゼロへと落ちていく。
現在、帝都全土の魔導具や防壁に流れている魔力は、各地の蓄電魔石に残された、わずかな余剰分だけだ。
日没を過ぎれば、それは完全に干上がる。
「五年間の勤務、お疲れ様でした、俺」
エドガーは工具袋を肩に担ぐと、一度も振り返ることなく、静寂に包まれた制御室を後にした。




