八咫烏 2
1
恵介が櫛名田 刹那として清桜女学院に入学して早数日。人生初の女子高生としての生活は、まったく馴染むことができないままであった。
一番問題になるのが、周りの女子生徒の会話についていくことができないこと。ファッションの話題になっても何もわからない。普段着は近所のショッピングモールで売っている安物だし、アクセサリーなど買うわけもない。
そして、当然のことながらコスメのことも無知。ネイルも気にしたことがないし、化粧水も使ったことがない。強いて言えば、髭を剃る時のシェーバーなら分かるが、これといって拘りがあるわけでもなく、薬局に売ってる安物を使っているのみ。当たり前だが、女子高生に髭剃りの話は通じない。
ただ、これでもなんとなっている。その理由は見た目が綺麗だから。顔もスタイルも完璧であるが故に、そういったケアもする必要がない超人だと思われている。実際は、ただのおっさんなのだが。
そういった理由により、まだ入学して日が浅いにも関わらず、恵介は女子高生生活に疲れ始めていた。
恵介が疲れていようが、学校のスケジュールは進んでいく。本格的な授業も始まり、今日は体育の授業の初日だ。
予定では体力測定をすることになっている。アマテラス因子のおかげで、恵介の身体能力は飛躍的に増強されているため、体育の授業は何ら問題はない。むしろ、本気を出したら世界記録を更新してしまうため、適度に手を抜かないといけない。逆に言えば、手を抜いて授業を受けても評価されるということだ。これほど楽なことない――と、恵介は体育の授業の直前まで思っていた。
「刹那ー。次、体育の授業だよ。一緒に行こ」
声をかけてきたのは恵美だ。体操服の入った手提げバッグを持っている。周りを見ると、他の生徒たちもぞろぞろと教室から出ていくところだった。
「あっ、ああ、今行く――」
と返事をして恵介は一瞬固まった。これからどこに行くのか、ということが頭を過る。
「どうしたの?」
恵美は、急に固まった刹那(恵介)を不思議そうな顔で見た。
「い、いや……。なんでもない……」
「そう。じゃ、行こっか」
そう言うと恵美は刹那(恵介)の手を引いて教室を出た。
「なんか、今日は体力測定らしいよー。受験で運動してないからさー、中学の時より落ちてるかもしれないよね」
「うん……。ああ……」
「でも、刹那はすっごい運動神経良いからさ、みんなびっくりするんじゃない?」
「うん……。ああ……」
「それでさ――
恵美は雑談を続けているが、恵介の耳にはほとんど入っていなかった。恵介はこれから訪れる問題をどのように対処するかで頭が一杯だった。
(ど、どうする? どうするんだ? いいのか? いや、いいのか……。いや、よくない。よくはない。でも、理屈上は大丈夫なのか? いや、倫理上よくないだろ。女子更衣室で着替えをするって、俺だけじゃないんだろ? 全員同じ更衣室で着替えるんだよな? クラスメイト全員がそこで着替えるんだよな? でも、俺は今女子高生なんだから、合法ということになるのか……。いや、合法か違法かとかそんな問題じゃない。もし、俺が中年のおっさんだということがバレたらどうなる? 女子高生の更衣室に堂々と入り込んだ変質者になるってことだぞ? でも、今の俺なら入って問題はないのか。女子高生なんだから、女子高生が使う女子更衣室に入るのは当たり前のことであって、おかしいことではないはずだ。だが、本当は中年のおっさんだった場合はどうなる? 中年のおっさんは、というか、そもそも男が女子更衣室に入ることはできない。しかし、体は完全に女子高生なわけだ。生徒手帳だって持ってる。だったら、この学校の生徒であり、更衣室を使うことが可能だ。そして、この高校は女子高である以上、生徒であれば必ず女子高生ということになる。つまり、清桜女学院の生徒である俺は、必然的に女子高生ということになるわけだが、果たしてそれが全てなのかという問題がある。俺は恵美の父親であるということも、また事実なわけで……。ということは、つまり、俺は、娘と同じ更衣室で着替えをするだけでなく、他の女子生徒がいる中にも入っていくということになり、それは、恵美からしてみれば、お父さんが女子更衣室に入ってきたということに他ならないわけであり、もしも、俺が――櫛名田 刹那が柳 恵介であるということが恵美に知られた場合、お父さんが女子更衣室で、恵美だけでなく他の女子生徒の着替えの中に入ってきたという事実が発覚してしまうわけで、その事実は、恵美にとってどういう感情を引き起こすものなのかを想像すると、想像もしたくないような感情を恵美が抱くということになるということで、女子高生の更衣室に入ることができるという見返りと、バレた時に恵美からゴミを見るような目で見られることのリスクを天秤にかけた時、果たして、リスクリターンは――)
「どこ行くの? ここだよ?」
恵美が通り過ぎようとしている刹那(恵介)に声をかける。
「えっ? あッ!?」
恵介が考え事をしていると、既に目的の更衣室にたどり着いていた。これから体育の授業なので、体操服に着替えないといけない。恵介は今、櫛名田 刹那という女子高生なので、女子更衣室で。
「入るよ」
恵美はそう言って、刹那(恵介)の手を引いて、女子更衣室の中に入っていった。
「ッ!?」
当たり前のことであるが、他のクラスメイトは全員が着替え中だ。その中を恵美と恵介が進んでいく。
もう後戻りはできない。中年のおっさんが着替え中の女子高生の更衣室に入ったという事象が確定してしまった。そして、この事象は不可変のものとしてこの世界に固定化されてしまう。
恵介は動揺を隠しきれないまま、何とか平静を装うとする。今できることは、兎に角、あまり周りを見ないようにすること。
そんな恵介の様子を特に気にすることもなく、恵美は隣で着替えを始める。
(今から出るか? いや、もう遅いだろう……。早く着替えて出ないと)
恵介は、できるだけ周りを見ないようにして、とっとと着替えて更衣室を出るという方向へと舵を切った。
周りで着替えている女子高生達の姿が視界の端に入るが、今は自分の着替えに集中する。
上着を脱ぎ、スカートを脱ぎ、ブラウスを脱いで――
「うっわぁ、刹那の腰、細~!」
半分下着姿になった刹那(恵介)の腰を恵美がさわさわとしてきた。恵美の柔らかい手が、括れた腰をなぞるとゾワゾワとした感覚が襲ってくる。
「ひゃっッ!?」
恵介は思わず声を上げてしまう。父親が娘に聞かせていい声ではない。
「あっ、ごめん。びっくりしちゃった?」
恵美は悪びれた様子もなく、笑いないながら言った。
「だ、ダイジョウブ……」
恵介は何とか答えるが、全然大丈夫ではなかった。びっくりして声を上げた拍子に顔を上げてしまい、着替え中の周りの女子高生達の姿をガッツリ見てしまっていた。
「あっ、ホントだ! 櫛名田さん、スタイル良いよね~」
恵美の言葉を聞いた他の生徒も恵介に近づいて、下着姿をまじまじと見る。
「肌もすっごく綺麗じゃない? 色白だしさ」
そうすると他の女子生徒もやってくる。
「てかさ、胸も大きくない? これだけ腰細くて、その胸のサイズってヤバくない?」
そして、別の女子生徒も興味を持つ。そうなると、周りの女子生徒達が興味津々に集まってきた。まだ着替えの途中の姿で。
「ちょッ!? いや、そのッ!?」
できるだけ周りの着替えを見ないようにしていた恵介だったが、囲まれてしまってはどうしよもない。どこを向いても、着替え中の女子高生がいる。
「ちょっとー、みんな見すぎだよ! 刹那が困ってるじゃん」
そこに恵美が助け舟を出してきた。
(いや、お前が最初だろッ!)
恵介は心の中でツッコミを入れる。だが、周りの女子生徒達はそんなことを気にする様子もなく、『ごめんねー』と言いながら着替えを再開させ、体育の授業へと向かって行った。
「……本当にスタイル良いよね、刹那って」
「もういいからッ! さっさと行くぞ!」
まだ、まじまじと見ている恵美に一言言って、恵介はさっさと着替えを済ませた。
2
その日の放課後、傾き始めた太陽を背に、恵介は護衛を兼ねて恵美と一緒に下校していた。
恵美が暮らしているのは、防衛相特殊自然災害対策室の職員寮。ただの職員寮ではない。恵美が暮らす部屋の周りを術者で固め、強力な対魔障用結界が張られている特別な住居だ。
四六時中、恵介が護衛するわけにもいかず、そもそも、恵介は0時から夜明けまでの間は中年のおっさんに戻るので、護衛もできないため、恵美が暮す住居は周りを結界で固めるという方針になっている。
当の恵美にも、この結界のことは説明してあり、特に夜中は外に出ないようにと伝えてある。恵美本人としては、不満があるところだが、疑似的なものとはいえ、魔障の恐ろしさを体験しているため、素直に従っている。
「今日の体力測定、刹那は凄かったよねー」
夕焼けの日差しの中、恵美は嬉しそうに授業のことを話していた。そんな恵美とは逆に恵介は午前の心労を引きずっている状態だった。
「ちょっとやり過ぎた感はあるんだけど……」
「ああ、やっぱり本気は出してない感じ?」
「一応、本気を出すと色々とまずいだろうから」
恵介は苦笑いをしながら返事をした。アマテラス因子の影響で、本気を出したら世界記録を更新してしまうため、力をセーブしないといけない。ただ、力の加減というものがまだ上手くできない状態にあった。
「刹那と一緒に入った子さ、中学の時に全国大会に出場したことがあるんだって」
「らしいな……。最初から言っておいてほしかった……」
体力測定で50mを走ることになった時、恵介は緒に走ることになった子をペースメーカーにしようとした。その子より少し早いくらいの速度で走ればいいと思っていたのだが、実は凄く速い陸上選手だったため、周りをざわつかせてしまったのだ。ついでに、一緒に走った子からは、爽やかにライバル扱いされることとなった。
「午後にはもう運動系の部活の間で噂になってたよ」
「勘弁してほしい……」
「そうなの? 刹那なら、全国行けるのに」
「全国に行くのは、真面目に頑張ってる奴が行くべきなんだ。私のは、ちょっと違うし。それに、恵美の護衛が優先だ」
アマテラス因子の力を実力とは言えない。恵介もそこは分かっているし、恵美が部活に入らない限り、啓介も部活には入れない。
「そうだったね……。私を守ってくれてるんだもんね。ありがとうね……」
恵美はぎゅっと抱き着いてきた。自分を守ることを最優先にしてくれていることが嬉しいという気持ちが溢れている。
「うん。だから、何も心配ない」
恵介も優しく抱きしめ返す。娘をこんな風に抱きしめたのはいつぶりだろうか。もうかなり前のような気がする。
恵美は刹那(恵介)の胸に顔を埋めながら、スーッと大きく息を吸い込んだ。
「刹那ってさぁ、良い匂いするね~」
デュフッという小さな笑い声を漏らしながら、恵美は恍惚の表情を浮かべた。
(お前、いつだったか、俺のこと臭いって言ったの覚えてるからなァーッ!)
そんな中――
プルルルルー、プルルルルー
恵介のスマホに着信が入った。着信音は初期設定のまま。
「はい、櫛名田です」
恵介は恵から離れて電話に出ると、片手をあげて、“すまない”というジェスチャーをする。
『どうも、防衛相特殊自然災害対策室の山祇です。お世話になっています』
「ああ、どうも、こんにちは。お世話になっております」
どうやら、電話の相手は山祇のようだ。恵介がビジネスライクな電話応対をしている。
『ええとですね、今日の訓練の件でご連絡させていただきました。今、お時間はよろしいですか?』
「あ、はい。大丈夫です」
『ありがとうございます。実はですね、今日の訓練なんですが、急遽予定が変更になりまして、これから迎えに行かせていただきたいのですが、よろしいですか?』
「それは、大丈夫ですけども……。どこかに行くんですか?」
『はい。少しばかり移動に時間がかかる場所でして、詳しい話は後でさせていただきます』
「分かりました。迎えはいつ頃到着予定――」
恵介が訪ねている最中、黒塗りの高級車が目の前に止まった。
「今、着きました」
山祇が車のドアを開けながら答える。
「…………」
恵介は呆気にとれた顔をした。まず、今、自分がどこにいるのかも教えていないはずなのに、山祇が目の前に迎えに来ている。
「では、参りましょうか。天津さん、櫛名田さんをお借りしていきますね」
山祇は作られた笑顔でそう言うと、恵介を車に乗せて走り出した。




