4.父の存在が、怖かった
その日の午後、家の中はとても静かだった。
エリナの腕に抱かれながら、私はぼんやりと天井の木目を眺めていた。
そのとき、外から足音がした。
重い靴音。
近づいてくる気配。
扉の取っ手が回る音。
(……っ)
理由なんて分からない。
でも小さな身体がびくりと固まった。
父が帰ってくる音だ。
玄関の鍵が開く音がした瞬間、
私は思わず息を止めていた。
「ただいま、エリナ」
低くて、落ち着いた声だった。
怒鳴り声ではない。
乱暴でもない。
ただ仕事に疲れた男の人が、帰宅を告げただけ。
なのに——
心臓が、ぎゅっと締めつけられる。
(…父の声……?)
エリナが顔を上げて微笑む。
「おかえりなさい、ライル」
ライル。
それが私の父でありエリナの夫の名前らしい。
ライルは土の匂いのついた外套を脱ぎながら、
ふっと優しい目でこちらに視線を向けた。
「ニア、今日も元気にしてたか?」
穏やかで、柔らかくて、前の世界の父とはまるで正反対の声。
けれど——
(……こわい……)
胸の奥で、小さな鐘のように、警報が鳴り続けているようだった。
ライルがゆっくり近づくと、私は条件反射でエリナの服をつかんだ。
(近づかないで……)
言葉にならない、赤ちゃんの小さな抵抗。
「あぁ…ニア、びっくりさせたかな」
ライルは立ち止まった。
無理に抱こうとせずに距離を保ったまま微笑んだ。
「ごめんな、ニア。大きな声を出したわけじゃないんだが…驚かせちゃったな?」
やさしい……
私が泣きそうでも…怒鳴らない…
だがなぜだかその“普通”が、むしろ怖かった。
ドン、と記憶がよみがえる。
——なんだその顔は
——泣くな、うるさい
——しみったれた顔をするな
——お前が甘やかすからだ
——はやく泣き止ませろ
前世の父の声。
怒鳴っていないときの父ですら、眉間にシワを寄せ、いつ雷が落ちるかわからなくて、常に顔色をうかがっていた。
母と父は、常に冷たい空気をまとっていた。
あぁ…そうだ…
私はいつも息を潜めて…
父が帰ると…母はもっとピリピリするから
でも私が泣いたら…母が怒られるから我慢して…
胸が苦しくなり、息が浅くなる。
「ニア、大丈夫よ」
エリナが気づいて、そっと抱きしめてくれた。
「ライルは、ニアを怖がらせたりしないわ。ね、ライル?」
「ああ、もちろんだ」
ライルは笑っている。
手を伸ばさず、“あくまでニアの視界に見える安全な距離”にとどまった。
まるで、怯えた小動物を驚かせないようにする人のように。
「ニア、俺は、ニアの味方だぞ」
…味方…父親が、味方?
そんなこと、考えたこともなかった…
理解が追いつかない。
けれど、その言葉の響きが胸に刺さる。
「ほら、ニア。俺はここに手を置いておくからニアが触れたくなったら触れればいい。嫌がることは絶対しないから安心しなさい」
ライルはそっと、ニアから数センチ離れた場所に手を置いた。
掴もうとしない。
急かさない。
ただ“そこにいる”。
怖いのに。
怖いはずなのに。
涙が込み上げてきた。
…なんで?
なんで…こわいのに…こんなにあったかいの…?
「泣いているのか?」
ライルの声は驚いていたけれど、困ってはいなかった。
「泣いて良いんだぞ、ニア。子供は泣くのが仕事だ」
エリナも優しく背中をさする。
「ずいぶん仕事熱心ねぇ、ニア?」
「ああ。元気な証拠だ」
泣いても怒られない…
父親に…怒られない…
そんな世界が——
存在していいのだろうか。
胸の奥に、冷たく固まっていた何かが
コトリと音を立てて崩れた気がした。
私は、泣いた。
声にならない声で、赤ちゃんの小さな泣き声で、止まらない涙を流した。
「ニアもな、きっといろいろびっくりしてるんだよな。でも大丈夫だ。俺もエリナも、ニアを守る。だから…安心して泣いていいんだぞ」
前の世界の父の怒鳴り声がエリナとライルの優しい声に上書きされていく。
過去と現在がゆっくり溶けていく。
まだ怖い。
まだ分からない。
でも……
父親って、もしかしたら
怖い存在なんかじゃないのかも…
涙で滲む視界の中で、ライルの手がそっと、静かにそこにあった。
私はその手に触れなかった。
でも——逃げもしなかった。
それだけで、今は十分だった。




