第9話
マフィア組織『ワルプルギス』の頂点に立つ男――シグルド・ドゥ。
ヴェロニカは、シグルドの出ていった扉をじっと見つめて微動だにしない。表情こそ変わっていないが、仮面の奥の瞳が爛々と輝いているのをモルスは見逃さなかった。
(――なんだ? 今度はどうした、ヴェロニカ・ベルトラン……?)
マーキス・ド・モルスにとって、ヴェロニカは理解不能な生き物だ。
悪魔を、それも気高き侯爵位を持つ上級悪魔を、未契約で飼いならそうとする傲岸不遜な人間の女……。
そもそも、契約を拒む時点で意味が分からない。
モルスが異界に生を受けておよそ三百年。そんな事例は生まれてから一度も、いや異界史上一例たりとも聞いたことがない。
召喚された日の屈辱を、モルスは生涯忘れまい。
あの女は、開口一番に言ったのだ。――『手違いでしたの。お引き取りくださる?』
だったら呼ぶな、と叫びたかった。
そして誘惑しても脅しても、ヴェロニカは絶対に屈しなかった。
……人界に召喚されたのは、生まれて初めてだったのに。
たとえ爵位持ちと言えど、契約未経験の悪魔は『一流』とはみなされない。契約者の魂を喰らって人界に災いをもたらす――それが悪魔の本懐だというのに!
いつか必ず弱みを突いて、この女のほうから「契約してくれ」と泣きつかせてみせる。それが、悪魔侯爵マーキス・ド・モルスの野心だ。
そんなモルスはヴェロニカを見つめ、小さく首をかしげていた。
(この女、やけに落ち着きがなくなったな……?)
いつでも腹を読ませない、奇怪な生き物ヴェロニカ・ベルトラン。そんな彼女が、今はやたらとソワソワしている。
(何を考えている? ワルプルギスの頭領とやらを、やたらと熱く見つめていたのは――?)
ヴェロニカの表情には、とくに変化はない。しかし魔力を共有しているためか、彼女の浮かれた波動がじわじわと伝わってきた。言語化しにくいのだが、流れ込んでくる魔力の質が、なんというかピンク色っぽく濁っている。
(……ん? つまりは――もしや)
無言で考え込んでいたモルスは、はた、と閃いた。
(そうだ。ヴェロニカは、あの男に劣情を抱いているに違いない!)
そう考えると、すべて合点が行った。
この街に追放されたくて、いわれなき罪を受け入れたとヴェロニカは言っていた。
今日の闇市に参加したのも、きっとシグルド・ドゥを手に入れるためだったに違いない。
(すばらしい。これは、契約に持ち込む好機だ!)
色欲は、人間を堕落に導く最たるものだ。かつて悪魔と契約をした人間の中にも、醜い劣情で身を滅ぼした者が大勢いたと聞く。
――この好機、逃すものか。
(……ふっ、ヴェロニカ。存分に愛に溺れるがいい。貴様のように歪んだ女は、いつか必ず力を求める。この私の力を、な)
笑い出したいのをこらえ、モルスは微かに唇を歪ませた。ヴェロニカが本当は今何を考えているか、彼には知る由もない。
そう。ヴェロニカが心の中で今、
(来た来た来たキタぁああ――――! 待ってました、推しカプの攻め担当ぉおおお!! それで!? 受けのダルタニアンも只今こちらにご在宅ですかぁ――――!?)
などと早口で捲し立て、鼻血を噴き散らかさんばかりに大喜びしていたことなど、決して。
*
目をぎらぎらと輝かせ、ヴェロニカは密かに興奮しまくっていた。
(キター、マフィア来たぁああ! ご尊顔、拝謁したく存じましたシグルド殿ぉぉおお!!)
前世の彼女――吉田にこが、この乙女ゲーの中で悪役令嬢の次に推していた男たち。
そのうちのひとりが、先ほどの奈落候シグルド・ドゥであった。
もうひとりは、シグルドの弟ダルタニアン・ドゥ。ふたりとも、原作ゲームの攻略対象だ。
吉田はこの二人を激烈に推していたが、彼らそれぞれとの恋愛シナリオを楽しんでいた訳ではない。兄弟間の関係性が尊いがゆえに、『推しカプ』――つまり男性カップルとして二人一組で愛でていたのだ。
(シグルド解像度やばい、面が良すぎて無理無理無理! てことは絶対ダルターにゃんも可愛いっしょ! 私ったら今日こそ召される死因は尊死!)
尊い。
妄想しただけで脳がとろける。これほどの感動は、ヴェロニカに転生したと気づいたとき以来だ。
(ああもう、転生……最高……! この街ならいつか会えそうって思ってたけど、まさかまさかの今日ですか? 前世で善行詰んでよかったぁ!)
吉田が他の攻略対象に萌えず、この二人には魅了された理由――それはつまり、匂い立つような『悪の色香』だ。
まず、ビジュが良い。
野性味たっぷり狼顔の兄。高貴なネコ感満載のツンデレ弟。
マフィアであるがゆえの業を背負った暗さが刺さる。
貴族服をベースとしつつ、マフィア味のある衣装デザイン。服自体が魔導具になっていて、ほんのりスチームパンクの香りがするのも良き良きだ。
そして何より、性格が尊い。
極悪非道の皮を被っていながらも、兄は弟を弟は兄を敬い互いに守り抜こうとする。エモエモのエモで既に語彙力は全損である。
(くっはぁ……あああ)
ヴェロニカは今、幸せの絶頂にいた。
――しかしふと、横から生ぬるい視線を注がれていたことに気付いた。
愚かな生き物でも眺めるような眼差しで、モルスが失笑している。
「(なによ、その顔。感じ悪い……)あら、何かしらモルス」
「いや? (ふふん、お前の劣情はお見通しだ)」
お互いに、思ったことは口に出さない。
「「…………」」
微妙な沈黙を挟んだ後、先に口を開いたのはモルスであった。
「追わないのか?」
「何を?」
「恥ずかしがるな、追えばよかろう。人間は欲に溺れて生きるべきだ」
などと言いながら、モルスは腕を差し出してくる。
「?」
よく分からないまま、ヴェロニカはその腕にそっと手を添えた。エスコートを受ける形で、モルスと並んで歩きだした。





