第7話
モルスの瞳が灼熱に燃えた。
ヴェロニカの足元に、黒い魔力が鞭となって噴き上がる。
ドレスの裾を翻して飛びのく。その空中で、ヴェロニカは呪文詠唱を済ませていた。着地と同時にほとばしった迅雷が、石床を破いてモルスへと迫る。
「くだらん」
わずらわしい羽虫を払うように、モルスは軽く右手を振るった。迅雷を消し去ると同時、黒い斬撃でヴェロニカの背を薙ごうとする。
彼女が紙一重で身を捻れば、さらに追撃。
黒炎に黒槍に黒鞭、人間には不可能な量と密度で容赦なく叩き込んでくる。
(……さすがは悪魔。早いわね)
悪魔は呪文を必要としない。
生物や鉱石、魔獣や悪魔などあらゆるものに宿る魔力――悪魔は自身の魔力を、念じるだけで魔法という超常現象へと変換できる。
だが、人間は違う。
魔力をそのまま魔法に変えることはできず、呪文を介してようやく超常の力に届く――それが魔術だ。
威力と再現性を高めた人類独自の技術だが、魔術には致命的な弱点がある。
それは遅さだ。
呪文詠唱による術式構築から発動までの待機時間ゆえに、悪魔にスピードで勝てるはずがない。
――本来ならば。
けれどヴェロニカは、モルスと互角に渡り合っていた。
多方向からの猛攻をさばき続けるその足取りは、さながらダンスのようでもある。一拍先の相手の動きを読むように、器用に躱し続けていく。
「……ちっ」
モルスが小さく舌を打ったのを、ヴェロニカは見逃さなかった。
(そろそろ、削れてきたみたいね)
口の中で呪文を唱え終わると同時、モルスの足元の石床がさらりと崩れて砂になる。
「!?」
その砂に足を取られ、モルスが体をよろめかせた。すかさず背後に回り込み、ヴェロニカは至近距離から雷撃を食らわせる。
『――っ』
直撃を受けたモルスは、声にならない苦鳴を上げて砂地に崩れ落ちた。
「ダンスの時間は終わりでよろしいかしら。悪魔侯爵閣下?」
ヴェロニカは、嘲るように嗤ってモルスを見下ろしている。
『き……さま……』
モルスの喉から、低いうめき声がこぼれる。
「お前は勝てないわ。だって、わたくしに命を握られているんだもの」
『……許さん。私に……この私に、このような扱いを』
「うふふ」
――悪魔は人間に契約を迫る。それは、契約できないと悪魔自身が死ぬからだ。
悪魔は本来『異界』に住まう存在で、この人界では契約者の魂と結びつかなければ自らを維持できない。
契約を得た悪魔は人界に災厄をもたらすが、未契約のままだと自身の魔力を使い果たした瞬間に消滅してしまう。そして、モルスはヴェロニカとまだ契約できていない。
「一度呼ばれたら自力では異界に戻れないなんて……悪魔って意外と難儀な生き物ね」
『くっ』
誘惑しても脅しても拒まれ続け、今やモルスは消滅を待つばかりの身……しかしヴェロニカは、自分の魔力をちょっぴり分け与えてモルスを生かしてやっている。
(魔力分与って、実はそこまで難しい魔術じゃないのよね。学生時代に習ったくらいだし)
悪魔に分け与えるなど聞いたことがなかったが、試してみたら案外上手くいった。
悪魔侯爵モルスの本来の力はこんなものではないのだが、とろ火で飼いならせるならむしろ都合がいい。便利な手駒は、キープしておいて損はないのだ。
(そう。私は悪魔侯爵を従わせる悪役令嬢! イイ! あまりにも絵面がイイ)
ぎりぎりと、奥歯を噛みしめるモルスを眺めて、ヴェロニカはご満悦だった。原作ではこの男に殺されているのだから、少しくらい仕返ししても罰は当たるまい。
「現実を受け入れなさい、モルス。お前は負け犬で、飼い犬なの。生き長らえたければ、わたくしの役に立つことね」
『何だと?』
モルスの美貌が屈辱に歪む。
『未契約の分際で、悪魔侯爵たるこの私を使役するつもりか……!』
「ええ。そうよ」
その顔を眺めていたら、頭の中が透けて見えた。――『ヴェロニカめ、人間どもへの復讐に私を使うつもりだな?』とでも言いたげだ。
でも、ヴェロニカの目的はそんなくだらないことじゃない。
モルスの前にしゃがみこみ、ヴェロニカは山羊のような黒角をツンツンと突いた。
「その角は目立つから、消してちょうだい。それと、目と髪の色は人間らしく」
『――は?』
要領を得ない様子の悪魔侯爵に、ヴェロニカはにんまりとしながら言った。
「人間に化けろと言っているの」
美貌の悪魔侯爵が、豆鉄砲をくらった鳩みたいな顔をしている。
「行きたい場所があるのだけれど、女だけでは入れないんですって。だから、わたくしの男を演じなさい」
ヴェロニカは声を弾ませた。いざ、奈落へ――。





