第6話
ヴェロニカは無人の礼拝堂に向かった。
朽ちた扉を押し開ければ、午前に訪れたときと同じ乾いた空気が満ちていた。割れたステンドグラスから強い西日が射しこんで、崩れかけの聖人像を朱に染めている。
「これだけ広ければ、大丈夫でしょう」
説教壇の引き出しを開いてみた。
中に白墨が入っていたので、いくつか拝借することにする。
広々とした床に膝をついたヴェロニカは、その白墨で紋様を描き始めた。
柱から柱までを直径とする巨大な円を外接円として、その内側に無数の多角形を配置していく。直線と弧が複雑怪奇に交わる紋様を、ヴェロニカは迷いなく描き続けた。
一本。また一本。石床でかりかりと音を立て、白墨が擦り減っていく。
今ヴェロニカが描いているのは、かつて古文書で得た図式。構成要素のひとつひとつに意味があり、わずかでも間違えればこの魔法陣は完成しない。
――どれほど時間が経っただろうか?
夕暮れ時はとうに過ぎ、闇に沈んだ礼拝堂を燭台の灯りが心許なく照らし続けた。
「……できましたわ」
汗で貼り付いた前髪を掻き上げ、ヴェロニカは唇を綻ばせた。
その魔法陣の前に立ち、朗々と声を響かせる。
「境界の狭間にて我は求める。闇夜に嗤う赤と黒――」
古語による詠唱が、暗がりの中に広がっていった。
ほんの一語でも過てば、魔術の反動で命が削られかねない。しかし、ヴェロニカの声はよどみなく続いた。
次の瞬間、魔法陣の中央に黒い光柱が噴き上がった。
漆黒でありながら鮮烈に光って見える、その異様な光景を見てヴェロニカは笑った。吹きすさぶ烈風に金髪を激しくなびかせながら、黒い光が収束するのを待っている。
やがて光は消え失せて、中心に一人の男が現れた。
漆黒の貴族服を纏う貴公子が。
腰まで流れる黒髪は、まるで鮮血でも浴びたように毛先が赤く滲んでいる。額の両側から湾曲して伸びる山羊の角は、それ自体が漆黒の冠のようにも見えた。
針のように細い瞳孔――爬虫類のそれに似た、人ならざる者の赤い瞳。けれどもその面立ちは、完成された美であった。
「顔を見るのは1年ぶりかしら。ご機嫌はいかが? マーキス・ド・モルス」
魔法陣の外側からヴェロニカの声が響くと、貴公子はぎろりとそちらに目を向けた。色香の漂うその美貌が、忌々しげに歪んでいる。
『貴様……』
「あらあら、悪魔侯爵閣下。そんなにしわを寄せては、せっかくのきれいなお顔が台無しよ?」
――悪魔侯爵マーキス・ド・モルス。
ヴェロニカが、前世を思い出すきっかけとなった存在だ。
『ヴェロニカ・ベルトラン……。この、契約不履行の卑怯者が!』
ヴェロニカは肩をすくめてフッと笑った。
「違うでしょう、モルス? そもそも、お前とはまだ契約すらしていないのだから」
1年前。
禁断の古文書を手に入れて解読し、ヴェロニカは悪魔召還を成し遂げた。
同時に前世の記憶が蘇ったため、「あ。これ契約したら死ぬやつ」と察して契約を断固回避した。
あのまま契約していたら、今頃こいつに魂を侵食されて『悪魔の苗床』にされていただろう――人格を失い、悪魔に体を明け渡すだけの器として。
モルスの切れ長の瞳が、ヴェロニカの腕に嵌った罪人の証を捉えた。
『……罪人の腕輪か。貴様、とうとう断罪されたと見える』
貴様のような卑怯者なら、当然か。と愉しげに呟いて、モルスは形の良い唇を吊り上げた。
『人間への復讐を所望して、今さら私に泣きつくか。実に滑稽な――』
「違うわ」
さらりと告げると、モルスはぴくりと眉を寄せた。
「こんな腕輪、ただのアクセサリーよ。身に着けているのは、まだ使い道を決めていないだけ。そのうち自分で外すわ」
モルスがことさら不愉快そうに顔を歪める。背中から、何か黒いものが沸々と湧きあがって見えた。
『……ならば、なぜ呼んだ』
「だってお前は、わたくしのペットなのだもの。ご主人様会えなさに、寂しくて死んでしまったらかわいそうだと思って」
過ぎた侮辱に、モルスの顔から表情が消えた。
『身のほどを弁えろ、人間風情が』
モルスが一歩を踏み出すと、周囲の空気が軋むように歪み、燭台の炎が横薙ぎに震えた。
『悪魔の恐ろしさ、身をもって知れ――』
石畳を這う冷気のように、黒い魔力が広がっていく。
ヴェロニカは、その場で悠然と身構えた。




