第29話:推しカプと不届き者
――奈落を出てゆく『兄』の背を、ダルタニアンは密かに追った。
夜更けの工房街は、ひっそりと静まり返っている。
身を引きずるようにして、シグルドは足を運んでいた。何度もよろめき、それでも決して止まらない。
(何が起きているんだ……)
どんな窮地でも揺るがなかった兄が。その背中が、今にも消えてしまいそうだ。
(どこへ行くつもりだ?)
あの背中を見ればわかる――兄は、この街を去ろうとしている。
兄の様子は今朝から急におかしくなった。街の老人まで暴れ出して、何が何だか分からない。
あのときの、ヴェロニカの呟きが耳に残っている――『これは、悪魔の瘴気?』
なんだそれは。
分からないことだらけだ。
ダルタニアンの知らない所で、何かがどんどん崩れてゆく――。
工房街を抜けた先、資材置き場に差し掛かったそのとき。
シグルドがぐらりと身をふらつかせた。
踏みとどまることも叶わず、そのまま地面にくずおれる。
「――兄貴!!」
ダルタニアンは駆け寄った。
「しっかりしろ!!」
抱き起そうとするダルタニアンを、焦点の定まらない目でシグルドが見返す。浅い呼吸の合間に、苦しげに唇が震える。
「どうしたんだ、兄貴。一体何が――」
「……離れろ」
ダルタニアンは、ぴくりと顔をこわばらせた。
「俺から、離れてくれ。……お前まで、瘴気に」
「なんなんだよ、それは!!」
シグルドは何も答えない。
答えようとはしないのに、力のこもらぬ腕でダルタニアンを押しのけようとしてくる。
「答えろ! ……――命令だ、《《シグルド》》!!」
ダルタニアンが鋭く命じると、シグルドの瞳がわずかに焦点を結んだ。
「私に隠し事をするな! 燃え落ちる城を前に、あの日誓い合ったはずだ!」
ダルタニアンの叫びに、シグルドも掠れる声を重ねた。
「「……互いを、決して偽らぬと」」
シグルドの顔には、いつもの威圧感はない。
「不忠を、お許しください、ダルタニアン殿下。……俺は、」
その美貌には、深い苦悶が刻まれている。
「許されざる罪に、手を染めました」
「……悪魔か」
ダルタニアンの腕の中で、シグルドは弱くうなずいた。
――悪魔について、ダルタニアンはほとんど無知だ。
知っているのは、契約した者に凄まじい力を与える代わりに魂を喰らうこと。
それが、今なのか……?
「どうすれば助かる!?」
「……術はありません」
諦めきった静かな声で、シグルドは言った。
「俺を……街の外へ。…………遠くへ。ここで死ねば、災厄が……」
「ダメだ!」
自分にはシグルドが全部なのだ。父母や祖国の記憶は遠く、この『兄』だけが温もりだった。
しかし。
「う、――ぁあっ!」
シグルドは苦鳴を上げた。
瞬間、シグルドの腕がダルタニアンの胸を突く。
「……っ!?」
瀕死と思えぬ異様な強さで突き飛ばされて、ダルタニアンは地に転がった。
シグルドがうずくまっている。
その背から、漆黒の気が噴き上がる。
――ずるり。
羽化する蛹が殻を割るように、漆黒の腕が背中から生えた。
「……なに、が」
黒い甲冑の上半身が、シグルドの背から這い出してくる。首から上はない。首の代わりに、黒い炎が燃えている。
ぎ、ぎぎ――。
甲冑から軋んだ音が響いた直後、悪魔はシグルドの身体に沈んだ。
「シグルド!!」
立ち上がったシグルドは、地をしっかりと踏みしめた。先ほどまでの弱った様子はまるでない。こちらをまっすぐに見つめる、シグルドの瞳――けれどそれは、すでに兄の目ではなかった。
シグルドが片手をゆらりとかざすと、周囲の地面から漆黒の槍が沸き上がった。それらの穂先が一斉にダルタニアンを狙う。
「――っ」
横飛びに飛んで危うく躱せば、さらに追撃が放たれた。
「おのれ……悪魔め」
ダルタニアンは腰鞘の剣を引き抜いた。
無数の槍をくぐり抜け、一足飛びにシグルドへ迫る。
眼前のシグルドに剣を振り上げる。だが――
(――ダメだ)
その一瞬の躊躇を悪魔は見逃さなかった。地面から伸びた漆黒の槍が、鞭のごとくしなる。
「――!?」
横殴りの一撃に、容赦なく弾き飛ばされていた。
叩き付けられた資材置き場の壁が、轟音とともに崩れていく。
「か、はっ」
ダルタニアンの顔に絶望が浮かんだ。震えて剣が握れない。
一方のシグルドは、感情のない瞳でダルタニアンを見つめていた。
やがてニタリと唇が吊り上がる。
そして周囲に、再び漆黒の槍が湧き上がってゆく。
一本。また一本。
数えることすらできない無数の穂先が、瓦礫の中のダルタニアンを向いた。
すべてが一斉に襲い掛かる。ダルタニアンはきつく目を閉じた――。
その瞬間。
ごう、と一陣の風が吹き荒れた。
軌道を乱された無数の槍が、散り散りになって地面に刺さる。
「…………!?」
「――わたくしの推しカプを引き裂こうとする不届き者は、こちらですか?」
頭上から、大胆不敵な女の声が降ってきた。
「そのような暴挙、認めるわけには参りません」
見上げれば、倉庫の屋根に一人の女が立っている。赤い月を背負い、金の巻き毛を夜風になびかせている。
彼女は屋根を蹴り、すたりと地上に降り立った。
ダルタニアンが呆然と問う。
「……お前。なぜ」
「当然でございましょう」
金の巻き毛をなびかせて、ヴェロニカ・ベルトランはそう言った。
「ご兄弟のどちらが欠けても、解釈不一致でしてよ」
ダルタニアンを背に庇い、ヴェロニカはシグルドを侵す悪魔と対峙した。








