第20話:奈落候の悪夢
――守らなければならない。腕の中の、この命だけは絶対に。
奈落候シグルド・ドゥは、しばしば同じ悪夢を見る。
10年前に起こった、あの日の悲劇をそのままに。
夢だと理解しているのに、自分では決して目覚めることができない――奴と契約を結ぶ、あの瞬間までは。
*
燃え落ちる城。剣戟と悲鳴。
シグルドは走った。
王も王妃も、すでに討たれた。
シグルドの腕の中で気を失っているのは、返り血に染まる幼い王太子。齢5つにも満たない彼だけが、我が国に遺された最後の希望だ。
走る。
ただ走る。
『いたぞ! あの子どもを殺せ!!』
――殺させるものか。
絶対に守らなければ。
書庫へ逃げ込んだが、時間稼ぎに過ぎない。
逃げなければ。
生かさなければ。
歯を食いしばって思考をまとめようとしていた、そのとき。
ばさり、と。一冊の本が落ちてきた。
『……悪魔、召喚?』
禁術指定の魔導書か?
なぜこんなところに――。考える暇はない。
『……力をくれ。このお方を守る力を、俺に』
魔導書の中の魔法陣を、シグルドは必死に描いた。傷口から溢れる血が、インクの代わりだ。
記されていた呪文を唱える。瞬間、魔法陣から黒い光柱が噴き上がる。
やがて光は消え失せて、魔法陣の中央に現れたのは――首のない騎士。
首の代わりに、黒い炎がゆらりゆらりと燃えている。
シグルドは、息を呑んだ。
首なしの悪魔は一言も発さず、甲冑の右手をこちらに差し出してきた。
契約を。
と、誘われているのが分かった。
――この命など、くれてやる!
シグルドは、迷わず悪魔の手を取った。
***
「――――っ、ぁ……!」
呻きを上げて、シグルドは目覚めた。
ここは奈落の最奥部、ワルプルギスの『王』の寝室だ。
心臓がドッ、ドクリ、と不規則な早鐘を打ち鳴らす。今にも破裂しそうだった。
この異変は悪魔と契約をして以来、何度も経験していた。
だがそれにしても、ここ数日はあまりにも多い。
全身がひどく重く、息をするにも苦労する――それでも周囲の者には決して気取られぬよう振る舞ってきたが。
……いよいよ、無視できなくなってきた。
「3か月は、もたないかもしれんな」
組織の長を引退すると告げたのは、つい先日のことである。3か月程度の猶予はあると思っていたのだが……。
「なあ、悪魔。俺の命は、そろそろ終わりか?」
胸に手を当てて問いかけても、悪魔は何も答えない。
契約を交わしたあの日から一度も姿を見せず、意志の疎通も叶わなかった。
そもそも悪魔との契約とは、そういうものだと思っていた。
尋常ならざる力を手に入れる代償に、いつか悪魔に殺されるのだと。
それでかまわないと思っていた。
――《《あの女》》を見るまでは。
「ヴェロニカは悪魔を従わせていた。なぜ、そんなことができる?」
悪魔と会話し、下僕扱いしていたヴェロニカ。彼女のように、自分も悪魔を御せないだろうか。
……本当はもっと早く教えを乞うべきだった。
組織の引継ぎを優先して、「3か月もある」と高をくくってしまった。
だが、もはや一刻の猶予もないようだ。
「もし生き長らえる道があるなら。たとえ浅ましくても、俺はそれにすがりたい」
自分の命は惜しくない。
だが、許されるならまだ生きたい――あの方はまだ若いのだ。すべての過去を知りながら、守れる者が必要だ。
シグルドは、クローゼットから私服を取り出した。私用で外に出るときは、マフィアの軍装ではなく私服を着用することにしている。
寝衣を脱いだ。
胸や腹には、無数の傷跡。そして左の胸元に刻まれているのは、異質な痣。
薔薇の花弁に似た痣は、この数日で急に赤黒く変色し始めた――まるで、命の終わりを予告するかのように。
「鍵を握るのはあの女――ヴェロニカ・ベルトラン」
***
奈落から出たシグルドは、ヴェロニカの住まう俗界へ向かった。動悸がひどく身体も重いが、まったく顔には出さない。
だが目的地にほど近い区画に足を踏み入れるや、シグルドは微かに首をかしげた。
(……なんだ、この違和感は)
何かが違う。
だが、何が――?
やがてシグルドは気が付いた。ヴェロニカの住み家に近くなるほどに、町内がきれいに片づいている。
つい先日まで、ゴミや壊れた壁材が打ち捨てられていたはずなのに。なぜか今では、塵ひとつない。
それに子どもが走り回ったり、老人たちが雑談をしたりしている。
(……人通りも増えたな。閑散とした区画だったはずだが)
ふと見やれば、住人たちが街路に野草を植えていた。別の者はゴミを拾い、また別の者は掃き掃除をしている。
こんな光景を見るのは初めてだった。
――そのとき。
『きゃんきゃんきゃんきゃん!!!』
向こうから、けたたましい鳴き声が聞こえてきた。
(なんだ、あの毛玉は)
ちっぽけな黒い獣が、吠えながら猛スピードで近付いてくる。
『ぐるるるる! きゃん!!』
あと数メートルの距離に迫ると、毛玉は猛然とジャンプした。
なかなかの跳躍力だ。
空中で、それはカパッと口を開けた。小さな牙を剥き、シグルドに噛みつこうとしている。
噛まれる寸前、シグルドはその首根っこを摘まんだ。
『きゃう――!!?』
「犬か」
『ぐるるるるぅぅ!!!』
そのとき、聞き覚えのある女の声が響いた。
「お待ちなさい、モルス!」
通りの向こうから、ヴェロニカが近づいてくる。その手には、ペット用と思しき引き綱が握られていた。
(犬の散歩でもするつもりだったのか)
どうやら首輪をつけ損ねて、犬に逃げられたらしい。
「あら、シグルド様ではありませんか」
シグルドの目の前に来て、悠然とカーテシーをしてみせるヴェロニカ。
すると周囲の住民たちが一斉に集まり、緊張の面持ちで頭を垂れた。
「魔女様!」
「魔女様、おはようございます!」
まるで領主にひれ伏す民のように、緊張感がみなぎっている。
一方のヴェロニカは煩わしげに見やると、「面倒な挨拶は結構よ」と素っ気なく言い放った。
「……お前。街の連中に『魔女様』と呼ばせているのか」
「この者たちが勝手に呼び始めたのですわ。実は先日、このあたりで人攫いが起こりまして」
「それで?」
「潰しました。お使いを頼んだ子たちも攫われたので」
今日の献立でも話すような口調で、ヴェロニカは言ってのける。
「それを見ていた者たちが、勝手に集まり出したのです。べつにわたくし、面倒を見る気はございませんのよ」
シグルドは閉口した。
(掃除も花も、魔女のご機嫌取りということか。……相変わらず、理解の及ばない女だ)
頭の中がまるで読めない。
だが――。
(俺は、この女に賭ける)
自分が生き延びる術を知る者がいるとすれば、きっとヴェロニカしかいない。








