20 風邪
シャロンをロノヴァン王国に戻そう、なんて計画が水面下で始まりつつあるなんてことを知る由もなく、シャロン達はカラユイでの生活を始めようとしていた。
のだが。
「ゴホッ、ゴホッ……。ごめんね、シャロン。出鼻をくじくようなことになってしまって……コホッ!」
「良いのです。時間だってお金だってたっぷりありますし、それよりもお兄様の体調の方が重要ですわ!」
オルフェウスはほとんど外出したことがない。
それはつまり、環境が変わることや目が見えないことへのストレス、そして急な気候の変化に体がついていけないことにも繋がるのだ。
ジェシャートヴァの主都・カラユイに着いて3日目。
2日目はゆっくり休んだので今日は街の様子を見にいこうかとシャロンが思っていたところ、休んだことで気が緩んだオルフェウスが熱を出してしまった。
なのでシャロンは急きょ、外出の予定を全て取りやめて兄の看護をする事になったのだが。
(久しぶりに、お兄様とお部屋でずっと2人きり……。)
オルフェウスの体調が悪いので不謹慎ではあるのだが、シャロンは心の中に仄暗い喜びが確かに芽生えているのを感じていた。
思えばこの1週間は、街を歩き回ったり、馬車に乗り続けたりとひたすら動き続けていて、宿屋に帰っても疲れて寝るだけという日々を送っていた。
オルフェウスがダブルベッドのすぐ隣で寝ていても、なんの羞恥心も湧かないくらい疲れ切っていたのだ。
当然、兄の世話も十分に出来ていたとは言い難い。
(ごめんなさい、お兄様。今日はわたくしがちゃんとお世話しますから。)
解熱剤の副作用で眠っているオルフェウスの、熱でわずかに熱った頬を撫でながら、シャロンは笑みを浮かべた。
シャロンがオルフェウスのおでこに置いたタオルを取り替えたりと、甲斐甲斐しく世話をしていた時。
「そうだわ、リンゴとオートミールのお粥があれば……。」
昔の記憶がふと、思い出された。
あれはまだシャロンの母が生きていた頃、そしてシャロンやオルフェウスが冷遇されていなかった頃。
熱を出したシャロンのために母が用意していたのが、すりおろしたリンゴとお粥だった。
あの頃はまだ兄の視力は何の問題もなく、綺麗な紫の瞳がキラキラと光を反射していたのを思い出す。
『シェリ、リンゴだけでも食べよう?ほら、僕が食べさせてあげる』
リンゴは冷たいのに、お粥を食べさせてくれた名残りからか、スプーンですくったすりおろしリンゴをフーフー冷ましながらシャロンの口元に持ってきてくれたオルフェウス。
『オルフィ、リンゴは冷たいからフーフーしなくて大丈夫なのよ。でも、いいお兄ちゃんね。』
コロコロと鈴を転がすような笑い声を立てながら、兄のことを『オルフィ』と呼んでいたお母様。
シャロンの熱で潤んだ視界越しにも、お兄様が恥ずかしそうに笑っていて、それをお母様は優しく見ているのが分かって。
(ああ、あの頃は"幸せ"の具現だったわ。わたくしはただお兄様を兄として好きで、お母様のこともお父様のことも、家族として大好きだったあの頃。)
大事だと思っていたものを一気に失い、最後に残った兄を「好きな人」として見ないといけないくらい縋るようになる前。
もう戻らない幸せのカケラを、シャロンはふとどうしても取り戻したくなった。
「これで良し、と。」
シャロンはオルフェウスを起こさないように静かに外出の準備をする。
(本当はお兄様にメモを残していきたいけれど、お兄様は目が見えないから、メモを残しても意味が無いわ。起こすのも忍びないし、すぐに帰ってきますから!)
心の中でそう言い訳して、部屋のドアをそーっと閉じた。
「わぁ、やっぱり外は寒いのね……!ホテルから一歩外に出るだけでも全然違うなんて!」
白い息を吐きながら、シャロンは外を歩く。
寒いが、主都なだけあってそれなりに人は歩いているし、普通に活気のある場所だ。
「ねぇお兄さ……ぁ。」
今は隣に誰もいないのを忘れて、いつものようにオルフェウスを呼ぼうと振り返ってしまったシャロン。
(恥ずかしいっ……!虚空に向かって喋りかけてしまったわ!)
シャロンの横を通り過ぎようとしていた人々が、誰もいないところに話しかけたシャロンに怪訝な目を向けているのが居た堪れない。
でもそれ以上に、隣で笑顔を見せて「うん、どうしたんだいシャロン?」と言ってくれる人がいない寂しさを感じてしまった。
ロノヴァン王国にいた時も、社交界に出る時オルフェウスはいなくて1人で乗り越えていたはずなのに。
(ああ、わたくしお兄様が隣にいないとダメになっちゃった。よし、早く買い物をして帰りましょう。)
「お粥は売っていないの?」
しばらく歩いて発見した、リンゴを置いていた店で、シャロンはそう尋ねた。
「お粥?お粥はここじゃ売ってないよ。レストランに食べに行くか、材料買って自分で作ればいいんじゃ無いのかい?」
店主が不思議そうな顔をしながら答える。
(作る!そうだわ、料理って作って出てくるのだった!すっかり忘れていたわ!)
シャロンは完成した料理しか見たことがなかったから、小さい頃は「シチューの木」「パンの実」のように完成した料理が自然界にあるものだと思っていた。
大きくなってそれは流石にありえないことに気づいたが、彼女には「料理は作るもの」という認識が圧倒的に欠けていた。
使用人が全てやって出してくれる、貴族ならではのギャップである。
(わたくしは作れないから、ホテルの厨房に行けば用意してくれるかしら。というか、それなら最初からホテルにリンゴとお粥の用意をするよう頼めば良かったのではなくて……!?)
昔の記憶を思い出して懐かしんでいたせいで色々すっ飛ばすとか、そんなの恥ずかしすぎる。
これでは、『買い物を覚えたばかりの思い出に浸っていた令嬢が、ものを買うことに気を取られて他の選択肢を忘れていた図』の完成でしかない。
シャロンは真っ赤になって黙りこくってしまった。
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