6-2 食事と睡眠の面倒事
ようやく本日の疲れと汚れと、できれば面倒くささを洗い流したリンディが、浴室から出てきたところ、ティアが見当たらない。食事の調達に難儀しているのだろうか……。まさか、デリバリーの時間が終わってたとか……。不安に駆られるリンディが時計を見ると、もはやデリバリーは受け付けていない時間――今からではどうすることもできない。助手がきっちり注文してくれたことを祈るのみ。管理人もいるし、ここには食料のストックもあるはずだから、何にもありつけないことはないにしても、心身を癒すためには、やはりそれなりのものを食べたい。
リンディは、以前、ここの管理人、奇しくも本日担当している彼女に、やむを得ず食事を出してもらったことがあったが、それはなかなかに残念な結果だった。出されたものは、魔法レトルト食品。まずくはなくても、うまくもない。単に魔法によってレトルト化しているだけで、魔法のようにおいしいという代物ではない。管理人によれば、それでも自分が作るよりはいいとのこと――それならば、お手上げである。今回、またもその事態に陥ったら、食べずにふて寝でもしてやろうか……などという考えが頭をよぎった食道楽だが、それでも結局は食べることになるだろう。残念でも、セデイト後の回復に必要なエネルギーである。
いまさらじたばたしても仕方がないので、バスローブのまま髪を乾かしつつゆったりしていると、助手がダイニングルームのほうからちらっと顔を出したのが、リンディの目に映った。
「なんだ、そっちにいたの?」
「は、はひっ」
あわてたティアが目をそらす。今日一日付き合ってリンディが認識したのは、彼女には二モードあるということ。すなわち、有能な助手モードと面倒なファンモード。そして、今のは、もちろん、後者。だんだん慣れてきたとはいえ、あわてる理由がわからない……が、深く追求しない。そう決めた。
「食事はどうなった? 届いた?」
「はい、もう届いて……」助手は、ダイニングルームの入り口に留まったまま。「こちらにあります」
「そう。よかった」彼女がなにを注文したかによるけど……いちおう、まともな料理にありつけそう。「少ししたら、そっちに行くよ。それで……」
料理の内容は……なんだか、知るのが怖い。有能な助手モードだったらいいけど、面倒なファンモードだったら、面倒な料理が……面倒な料理ってなんだ? 凝った料理ということ……? それだったら食べてみたい気も……。リンディは、口元に手を当てる。
「あの……マスター?」
助手の手前、食道楽は口の中をちょっと整理する。口の周りは……問題なさそうだ。
「……あー、なんでもない。気にしないで」
「はい。では、食事の準備をしておきます」
会釈をした助手は、奥へと引っ込む。
準備の間に、髪を乾かし終えて落ち着いたリンディは、部屋着に着替えようとバスローブを脱ぎ落とした。すると……。
「あっ」ダイニングルームの入り口で声を上げたのは、ティア。「ああ……」
そのまま脱力してひざまずき、胸の前に軽く手を合わせる。視線の向かう先は、なぜかそこにいる全裸の美女……。
ファン心理などというものを自身まったく持ち合わせておらず、理解の範囲外となっているリンディでも、さすがにこれはわかった。自身が風呂場などでよく経験する周囲からの不可解な反応、それを極端にしたもの……だろう。この完璧ボディは、そういうのをできるだけ気にしないようにしているとはいえ、それでもやはり、照れはある。えーと、部屋着は……。
「忘れた」
脱ぎ捨てたバスローブはそのままに、逃げるように寝室のほうへ急行。そこで、取り急ぎ部屋着に着替える。ここに着替えが置いてあるのだから、ここで脱げばよかった……少なくとも、あっちに持っていっておけば……という後悔も、後の祭り。すぐに戻るのも気が引ける……。でも……ティアはどうなっただろう……あの状態のままなら、放っておくわけにもいかない。めんどくさいけど……自分の責任……なのか? よくわからないが、とりあえず、リンディは戻ることにする。
恐る恐るもとの部屋に足を踏み入れ、今度は着衣している美女が視線を向ける先、そこでティアは固まっていた――その場で、同じ体勢のまま……。心配したとおりというか……困ったやつ。どうしたらいいんだろ……あー、なんかもう……ほんと面倒。……やっぱり、ほっとこう。
放置という決断の下、リンディはいったん寝室へ忍び足で戻る。別にこそこそと移動する必要がなかったことには、戻ってから気づいた。こういうのは、なんとなく雰囲気でそうしてしまうものだ。ティアに気づかれてもそれでよかったのに……というか、そのほうがよかった。でも、まぁ……ちょっと待てば動き出すだろう。
「お腹すいた……」
その「待つ」というワードが食道楽の頭に浮かんだ途端、忘れていた空腹感が頭をもたげてきた。……あのままダイニングルームの入り口でずっと固まってたら、どうしよう。そしたら、ずっとご飯が食べられないの? もう、なんであたしがこんな目に……。みんなティアが悪いんだ……それとも、放置してるあたしが悪いわけ? だったら、これは天罰とか? 放置してるあたしの罪だっていうなら……あたしは、天を……。
空腹に任せて、ヒステリックかつ、やけっぱちな思考に没入し始めたとき、寝室の入り口に救いの人影が……。
「マスター、お食事の用意ができました」
元凶が助手モードで稼動していた。
「あ、ティア……」
「お待たせしました」
「待ったよ、もう」
物理時間ではそれほど待ってはいなくても、心理的にはそう。
「す、すみません……なんか、ちょっと……眠ってしまって……」
「そうなの?」
あれを眠るという?
「はい、その間……なんだか、とてつもない夢を見たような……」
どういう「夢」なのか、すぐにリンディは悟った――そこに触れてはいけない。これは、本能の叫びだ。人は空腹だと、頭の回転がよくなる――それは、食料を確保するための本能。
「まぁ、その話は後にして……」後にも先にもする気はないけど。「先に、食事にしようよ」
「あ、はい。そうですね」
刹那の「夢」から覚めて、有能な助手に戻ったティアとともに、リンディはダイニングルームへ向かい、遅くなった夕食にようやくお目にかかることができた。用意された食事は、リンディの好物……。なぜそれを知っている? こいつ、やっぱりストーカーか……? と、疑いたくなるところだが、何のことはない、ここの管理人に聞いたという。以前、ここで出された料理に不満だった食道楽がキレ気味に自分の好みの食材を告げた、その内容を彼女は覚えていたらしい。そのときの態度はすでに謝罪したとはいえ、黒歴史はしぶとく付いて回るものなのだろう……ただし、今回は珍しく良い方に。
何かと余計な手間がかかったものの、食事の調達には有能さの片鱗を発揮したティアのおかげで、リンディは満足感に浸り、助手の面倒な部分はすべて帳消しという気分。こういう点では、この食道楽は扱いやすい人である。
夕食を済ませた後、生物にとって不可欠な活動は、睡眠である。知的生命体である人類にとっては、体を休めるのみならず、特に、脳を休めるという点において。しかし、ティアは確信していた。それは、無理……と。
「じゃ、おやすみ」
隣のベッドから届いたマスターの声に、助手は答える。
「おやすみなさい……」そして、ここは重要事項だ。「灯り……消しますよね?」
「うん。消して」
答えがそれでよかった……。
「はい」
消灯する助手。部屋は闇に包まれる……。
これが、もしも、少し灯りをつけていてほしいなどと要求された暁には、眠れないどころの騒ぎではない。隣の敬愛する美女の寝姿を目にすることによって、自分の中に湧き上がる何かに、抗わなければならなくなる。それを一晩中……地獄だ。いや、天国なのか? いずれにせよ、昇天したら、現実に地獄が訪れるだろう。信用を失う……という形で……。そんな状態に陥るのを恐れればこそ、就寝前にリンディが着替えようとしたときには、席を外していた。そのときに目にしてしまうものは、理性のたがを外しかねないものであっただろうから……。
幸いにも、部屋は暗闇。マスターの御姿はおぼろげにしか見えない……今のところは。しかしながら……不幸なことに、人間の目には、しばらくすると暗がりに慣れるという能力がある。……そうなる前に目を閉じて眠ってしまおう。今日はいろいろあって、本当に疲れた……。ティアは静かに目蓋を下ろす。すると、その裏に浮かび上がってきたのは……一糸まとわぬ美しき女神。
「ふぇ」
あわてて目を開ける。つい声が漏れてしまった。なんで……あんな……? そういえば、何かを忘れているような……? ティアは、しばし考える。……そうだ、夢。さっき、夢の中で見たんだ……気を失ったときに。それにしても、なんで気を失ったんだろう。マスターには眠っていたなんて、誤魔化したけど……。あのとき、確か……マスターを呼びにリビングのほうへ行って……。
「あ!」
ついつい声を上げてしまった。あわてて口を押さえる。あれは、リンディさま……マスターだったんだ……。布団の中で、ひとり顔を赤らめる……。思い出すと、もう……こう……どうしようもない。
その張本人、隣の女神――からは、さきほどのティアの声への反応はなかった。眠ってしまったのだろうか? ……そう、隣は女神。あれが夢の中の出来事でないことを思い出した今、もはや、平静ではいられない。時に美は毒薬となる。そして、すぐそこ……体を起こせば手の届く範囲内に、その化身が存在する……。視線をリンディへ向ける。心臓が高鳴る。手を伸ばす……。寝たままでは、隣のベッドまで届かないのは、幸いだ。もしも、触りでもしたらアウト……変態認定された助手は、間違いなくクビ。今後、口もきいてもらえないかも……。必至で腕を戻し、目を閉じるティア。すると、現れるのは……。
「あぁ」
目を開けても、閉じてもどうにもならない。こうなったらもう、打つ手は一つ――撤退だ。体を起こし、掛け布団を折って肩から背中に抱え、ベッドから降りる。後ろを向いてはだめ……見てはいけない。見たらもう……抑えられないかも……自分の中にあるものを。そして、ティアは一歩を踏み出す。
振り返ってはいけない……目にしたら、もう進めない……戻るしかなくなる……。背負いしものの重みを感じつつ、ティアは一歩ずつ歩みを進める。この道しかない……そう自分に言い聞かせながら……。
やがて、暗がりの中に……出口を捉えた。ゆっくりたどり着くと、じわじわノブを回し、静かにその扉を開く。音を立てぬよう、抜き足で脱出し、最後の難関……ドアの閉鎖へ。扉の後ろに回りこみ、静かに……ゆっくりと……慎重に……。
カチャ。ノブを回してから閉めれば、この通り。バタンなどという音はしない。ティアは大きく一息つく。ここからはもう楽だ……目指す場所はもう視界の中。まっすぐに歩みを進め、ようやくその地へとたどり着いた。しかし、その代償は大きかった。
「枕……」
でも、もう戻れない……このまま留まるのみ。なくてもなんとかなる……ここは……ソファなのだから。ティアはその上に横たわり、肘掛に頭を乗せて位置を決めると、布団を疲れた体にかける。しばらく目を開けたまま気を静め、落ち着いてから目を閉じる……。
どうやら、問題はなさそう。すぐ隣にイメージを喚起する存在……というか、ずばり、本人がいないから。もちろん、本当は隣にいたい……でも、いきなり天国へ放り込まれても、その地ですぐに安住できるというものではない――慣れが必要だ。それに、今日一日、憧れのリンディで一杯になったティアには、これ以上の刺激が入る余地はない。これを越えたら、フォアグラ状態。心身を壊しかねない。
あとは、今後の楽しみということにして、今晩はゆっくり休もう。あまりにいろいろなことがありすぎて、頭の中が整理できないけど……そんなことは明日に回して、マスターと一緒にいられた充実感を噛み締めよう……。
多幸感に浸りつつソファに横たわったティアは、しばらくの間、まんじりともできずにいたものの、あまりにも特別だった一日の疲れが、ついにそれに打ち勝ち、やがて眠りへと落ちていった……。




