第9話 正しい継母の答案
朝の鐘が鳴る前に、ユリウスは王都へ発った。
雨上がりの道を走れるよう、蹄鉄を替えた馬が中庭で白い息を吐いている。私が昨夜作った反論書は、油紙と薄い金属板の間へ挟み、ユリウスの衣服の内側へ縫い留められた。
表向きの書状袋には、領地の収支報告しか入っていない。
「旦那様以外には渡さないで」
「承知しております」
「王都邸へ入る前に、尾行がないことを確かめること。宿からの急報を届けた若者二人が、その後どこへ配属されたかも調べて。不審な呼び出しや、見覚えのない者との接触がなかったか、本人たちから直接聞いてちょうだい」
「すでに口封じの手が伸びている場合は?」
「アルベリク様の執務室付きへ移し、外からの呼び出しを断って。それから王都邸の家令には、旅程印の保管庫と使用記録を、必ず二人以上で確認するよう伝えて」
偽造印を使った者が侯爵家の内側にいるなら、宿で使者を見た者も狙われるかもしれない。
ユリウスは鞍上から一礼し、護衛二騎とともに門を出た。
その姿が丘の下へ消えると、ベルタが脇に抱えていた封筒を差し出した。
「こちらは、本日が期限でございます」
王妃後援〈花冠の会〉から届いた照会状だった。
王都を発つ朝、馬車へ乗り込む時刻を狙って届けられたものだ。七日以内に、コルネリアを解任した理由と、アイリスとの今後の交流について答えるよう求められている。
「朝食のあと、応接室へナタンと書記を呼んで」
「リディア様には?」
「私から話します」
◇
照会状は、最初に読んだときより枚数が多かった。
表に折られていたのは、回答を求める三項目だけ。その下に、記入方法を示す別紙が二枚添えられている。
出立の朝は、足止めを狙った使者と門前の視線へ注意を取られ、そこまで広げていなかった。
応接室の長卓へすべてを並べる。
第一項。リディア・アルヴェイン嬢が、アイリス・フェルノア嬢との初見の席において、定められた振る舞いを行えなかった理由。
その下には、回答の参考として三つの例が記されていた。
身分を担う自覚の不足。
母親による過度な庇護。
教育係との信頼関係の不全。
並んだ文言を指先でなぞり、私は鼻で笑った。
ご丁寧なことに、どこへ印をつけても、最後には私かリディアが頭を下げる。
第二項。侯爵令嬢としての自覚を促すため、今後家庭で行う導き。
私的な慰めを控える期間。
社交上の失敗を省みるための静寂。
礼法を正しく再現した際に与える褒賞。
昨夜読んだ教育報告と、ほとんど同じ言葉だった。
第三項。アイリスとの再会に適した時期と、次回までに改善を保証する者の署名。
今日からひと月以内。次の季節の祝祭前。学園予備課程への登録前。
最後まで読んでも、日付を選ばないための欄は見つからなかった。
そもそも、七歳の子ども同士が菓子を食べるだけの席に、なぜ改善の保証が要るのか。
私は別紙を裏返した。
下部には、花冠の会の副代表として、エルミーヌ・グランヴェル公爵夫人の名があった。
「公爵夫人ご本人の筆跡ではございません」
ナタンが署名を見て言った。
「ご存じなの?」
「領地の救貧院へ、毎年ご寄付をいただいております。礼状を差し上げた際、ご本人の返書を拝見したことがございます。こちらは祐筆の文字かと」
「名を使う許可があったかは、まだわからないということね」
「はい」
敵を決めつけるには早い。
しかし、この回答例を作った者が、コルネリアの教育報告を読んでいることだけは確かだった。
「奥様、どのようにお答えになりますか」
別邸の書記が、新しい紙を前へ置く。
「答えません」
書記の羽根ペンが、インク壺の上で迷った。
「無視する、ということでしょうか」
「いいえ。こちらから照会します」
私は昨夜の報告書から、印をつけた箇所を抜き出した。
「まず、花冠の会がアルヴェイン侯爵家の教育方針へ回答を求める法的根拠。次に、茶会で『定められていた振る舞い』の内容と、それを決めた者全員の名。リディアとアイリス、双方の保護者から同意を得た記録」
書記が慌てて筆を走らせる。
「会が保管しているリディアの教育報告、その提出者、閲覧者、配布先。侯爵夫人が私的な慰めを断つよう望んだとする根拠書類の原本。コルネリアを侯爵家へ推薦した者と、その審査記録」
「すべてを一度にお求めになりますか」
「すべてよ。それから、回答を受け取るまで、リディアに関する新たな指導、記録の移送、廃棄、書き換えを禁じるよう通告します」
こちらが感情的に拒絶すれば、会は子どもの教育を案じただけだと言える。
だから、相手が書類にしたものを、書類の上で一つずつ明るみに出す。
「アイリス嬢との交流については、どういたしましょう」
私はすぐには答えなかった。
それだけは、リディアへ尋ねる必要がある。
◇
リディアは子ども部屋の窓辺にいた。
仕立て上がった緑のクッションへ座り、膝には薬草園の手帳を置いている。昨日の泥で波打った頁を、薄い紙へ書き写しているところだった。
私が入ると、鉛筆を置いて立ち上がる。
「お話ししておきたいことがあるの」
「はい」
「長くなるかもしれないから、座ったままでいいわ」
私は向かいの椅子を引いた。
「王都には、貴族の子どもたちの教育を助ける〈花冠の会〉という集まりがあります」
「コルネリア先生のところですか」
「先生をここへ推薦したのは、その会よ」
リディアは手帳の上へ両手を置いた。
「会の人たちは、あの茶会が予定どおりに進まなかった理由を尋ねています。あなたに、侯爵令嬢らしい振る舞いをもう一度教えるべきだとも考えている」
「身の程を、教えるのですか」
報告書と同じ言葉だった。
それが七歳の子どもの口から出るまで、何度聞かされたのだろう。
「会は、そう書いている。でも私は、その必要はないと思っています」
「お義母様は、何とお答えになるのですか」
「まず、大人たちへ、誰の許しを得てそんなことを決めたのか尋ねます。あなたに罰を与えるつもりもない」
「アイリス様とは?」
「また会う時期を書けと言われているわ」
リディアの視線が、膝の手帳へ落ちた。
「わたくしも、嫌だと言ってよいのですか」
「もちろん」
リディアは返事をせず、室内着のひだを指先でつまんだ。布を寄せては離し、また同じところをつまむ。
「……本当に、会いたくないと言っても、お義母様は怒りませんか」
「怒らないわ。会いたいと言っても怒らない。今すぐどちらかに決めなくてもいい」
窓の外では、雨粒を落とす木の葉が朝日に光っている。
「アイリス様が、お元気かは知りたいです」
やがて、リディアが言った。
「あのとき、アイリス様はお菓子をご覧になるふりをして、ずっと伯爵夫人の扇の音を聞いていらっしゃいました」
「扇の音?」
「はい。音が鳴るたびに、目だけがそちらへ動いていました。わたくしがコルネリア先生に叱られる前と、同じ目でした」
リディアは膝の上で、つまんでいた布を放した。
「わたくしも、教わった言葉を言いかけました」
「ええ」
「でも、大勢の方が見ているお部屋では、お会いしたくありません」
手帳の端を押さえていた指が、紙の反りに沿って動く。
「次に何を言うのか、皆さまが待っている場所も嫌です。アイリス様が悲しい顔をするのも、わたくしが立派な言葉を言うのも」
「二人とも、言葉を教えられない場所なら?」
「……今は、まだ少し怖いです」
リディアはそこで私を見た。
「でも、二度と会わないと、会の方に決められるのも嫌です」
「わかったわ」
「これは、正しい答えでしょうか」
「返書に書くのは私の仕事よ。あなたの言葉を、会の採点に出すつもりはありません」
リディアはまだ不安そうだった。
「ただ、私が書き間違えないように教えて。再会を拒むのではなく、大人が日時や台詞を決めることを拒む。今のあなたの気持ちは、それで近い?」
リディアは一度だけ、ゆっくり頷いた。
「はい」
「ありがとう。あとは私が引き受けます」
立ち上がりかけると、リディアが手帳の頁をめくった。
「お義母様」
「なに?」
「もし、いつかアイリス様とお話しできたら、羊と薬草と、どちらがよいでしょうか」
「それは、アイリス嬢にも選んでもらいましょう」
リディアは二つの題を書き留め、その間を空けたまま鉛筆を置いた。
◇
返書には、リディアの言葉をそのまま引用しなかった。
侯爵家の方針として、子ども同士の交流は、双方の安全と意思を保護者が確認したうえで決める。第三者が期限、台詞、振る舞いを指定することは認めない、とだけ記した。
別邸の書記に新しく起草させたのは、指定された回答方式を拒み、説明を求める三枚の通告書だけだった。
その後ろへ、昨夜ユリウスが運んできた書類の抄本を添える。署名のない雇用契約書、王宮側の受領簿、私の意向を騙った教育報告。アルベリクは反論が複数の提出先へ及ぶことを見越し、王宮書記局の割印がある同じ抄本を三組用意していた。
一組につき、通告書三枚と証拠八枚。
花冠の会へ送る正本。王宮書記局へ受領記録を残す副本。アルベリクへ返す控えには、それぞれ異なる番号を振った。途中で一通が消えても、どこで失われたか追えるよう、運ぶ者と経路も分ける。
会が用意した回答用紙は使わなかった。
第一項から第三項まで、指定された記入欄にはインクの染み一つない。白紙の回答用紙を証拠の束の底へ入れ、三枚の通告書をいちばん上へ重ねた。
「ずいぶん厚いご回答になりました」
ベルタが封筒の紐を結ぶ。
「質問が多かったものですから」
「先方の質問は三つだったと記憶しております」
「前提が間違っている問いへ、短く答えるほうが難しいのよ」
正午前、三人の使者が別々の門から出発した。
正門から出た一騎は王都街道へ、残る二騎は葡萄畑と河沿いの道へ分かれる。
丘を下る蹄の音が遠ざかっても、封を閉じた蝋には、まだわずかに熱が残っていた。




