第10話 好きなものがわからない
「お好きな曲を、一つお選びくださいませ」
音楽教師が差し出した楽譜を前に、リディアは椅子へ浅く腰かけていた。
窓辺の譜面台には、子ども向けの短い曲が何冊も並んでいる。
春の小川。森の小鳥。星降る夜。王都の祝祭。
どれも表紙に美しい挿絵があり、最初の数小節だけなら、教師がその場で弾いて聞かせてくれた。
「どちらでも結構です」
リディアの返事に、教師は困ったように微笑んだ。
「今日はお稽古ではございません。お嬢様が弾いてみたいと思われたものでよろしいのですよ」
「では、いちばん簡単なものを」
「難しさではなく、お好みで」
リディアはもう一度、楽譜を見た。
教師は辛抱強く待っている。私も口を挟まなかった。
待たれる時間が長くなるにつれ、リディアの膝の上で両手が固く組まれていく。
「……先生が、お教えになりやすい曲をお願いいたします」
最後に選ばれたのは、教師にとって都合のよい曲だった。
◇
新しい教育係を決める前に、リディアが何を学びたいのか知りたかった。
そこで領内に住む教師たちへ、正式な授業ではなく、一度ずつ短い手ほどきを頼んだ。
音楽のあとは、絵だった。
画家は庭から摘んだ花と果物を卓上へ置き、好きなものを描くよう勧めた。
リディアは最も手前にあった白い花を選んだ。
「こちらがお好きですか」
画家に尋ねられると、首を横へ振る。
「近くて、よく見えますので」
花弁の枚数も、葉脈の向きも丁寧に写している。線は七歳とは思えないほど正確だったが、用意された絵具には触れず、黒い鉛筆だけで描き終えた。
「色もつけてみませんか」
「見本と違う色になったら、失敗でしょうか」
「絵ですから、違っても構いませんよ」
その言葉を聞いたあとも、リディアは白い花を白いまま残した。
午後には厩舎へ行った。
乗馬教師が用意したのは、栗毛の小馬と、白い斑のある灰色の小馬だった。
栗毛はおとなしく、灰色は人の袖を噛もうとする癖がある。その代わり、灰色のほうが好奇心旺盛で、リディアの帽子に鼻先を寄せてきた。
リディアは驚いて一歩下がったが、灰色の馬から目を離さなかった。
「どちらへ乗ってみますか」
乗馬教師が尋ねる。
「栗毛のほうが、お稽古にはよいのでしょうか」
「初めてなら、扱いやすいでしょう」
「では、栗毛にいたします」
灰色の馬が鼻を鳴らした。
リディアは一度振り返ったものの、選び直したいとは言わなかった。
栗毛の小馬へ乗った彼女は、教えられたとおり背を伸ばし、手綱を持ち、厩舎の周囲を一周した。
何も失敗しなかった。
降りたあと、楽しかったかと尋ねると、「落ちませんでした」と答えた。
◇
遅い昼食を取るころには、私は朝より多くのことがわからなくなっていた。
音楽は、教師が教えやすい曲。
絵は、最も近くにあった花。
乗馬は、失敗しにくい馬。
嫌がってはいない。楽しんでいたかは、わからない。
食堂には、薄焼きの肉と豆の煮込み、茸のパイが並んでいた。
「午後は休みにしましょう」
私が告げると、リディアは安堵するより先に尋ねた。
「何か、上手にできなかったでしょうか」
「そうではないわ。いろいろ詰め込みすぎたの」
「わたくしは、疲れておりません」
「私が疲れたのよ」
半分は本当だった。
私は水を飲み、今日使った予定表を裏返した。
「夕食は何がいい?」
問いかけてから、しまったと思った。
リディアの視線が食卓の皿を回り、私の顔へ戻る。
「何でも結構です」
「では、厨房へ任せましょう」
「ですが、わたくしが選ぶ日なのではありませんか」
手元のスプーンが、皿の縁へ触れて乾いた音を立てた。
「選ばなければ、いけませんか」
「いいえ」
「でも、音楽も、絵も、お馬も、好きなものを選ぶようにと」
そこで声が細くなった。
「わたくし、何が好きなのかわかりません」
スプーンが皿へ触れた音に、前世の稽古場で鳴った合図の鐘が重なった。
細かな立ち位置を何週間も叩き込まれた役者へ、演出家が突然「ここからは自由に動いて」と告げた日のことだ。
役者は舞台の中央で凍りついた。客席から苛立った声が飛んでも、片足さえ前へ出ない。衣装の袖口からのぞく拳だけが、血の気を失うほど強く握られていた。
あのとき、袖にいた私は声をかけられなかった。
目の前のリディアは、伏せた顔のままスプーンを握っている。
私は予定表を二つに折った。
「今日は、もう何も決めなくていいわ」
リディアが顔を上げる。
「音楽も、絵も、乗馬も、好きかどうか決めなくていい。明日になって、もう一度やってみたいものがあれば教えて。なければ、何も言わなくて結構よ」
「明日にも、わからなかったら?」
「その次の日に持ち越しましょう」
「ずっと、わからなかったら?」
「そのころには、今日の質問をした私のほうが忘れています」
リディアは私の顔を見て、本当に忘れるつもりなのか確かめているようだった。
私は給仕へ、夕食は料理長に任せると伝えた。
その日は二度と、好きなものを尋ねなかった。
◇
翌朝、私は寝室で髪を整えていた。
ベルタが髪飾りを選んでいると、廊下を小さく急ぐ足音が近づいてきた。すぐに速度が落ち、扉の前で止まる。
ノックは二度だった。
「お義母様、リディアです」
「どうぞ」
扉から顔を見せたリディアは、昨日の絵と薬草園の手帳を抱えていた。
「朝のお支度中に、申し訳ございません」
「構わないわ。どうしたの?」
リディアは手帳と絵を持ち替えた。
「昨日のことで、お話がございます」
音楽だろうか。絵か、それとも乗馬か。
私は口に出さず、続きを待った。
「庭の続きを、見たいです」
「薬草園?」
「はい。昨日はお稽古がありましたので、朝しか行けませんでした。オズワルドが、雨で崩れた畝を直すとおっしゃっていました」
「もう一度やりたいのは、植物ということ?」
尋ねた瞬間、リディアの眉が寄った。
また、好きかどうかを答える席へ戻しかけた。
私は小さく首を振った。
「今のは取り消すわ。あなたは庭の続きを見たい。それだけで十分でした」
リディアは私の顔をしばらく見てから、抱えていた手帳を持ち直した。
「庭へ行きましょう。ただし、朝食のあとで」
リディアは頷き、部屋を出ようとした。それから思い出したように戻ってくる。
「灰色のお馬にも、人参を差し上げたいです」
「乗るの?」
「まだ、わかりません」
「では、人参だけ持っていきましょう」
リディアは今度こそ廊下へ出た。
ベルタは左右の手に持っていた髪飾りを見比べた。私と目が合うと、どちらも箱へ戻して蓋を閉じる。
代わりに、飾りのない細いリボンを取り出した。
◇
朝食後、私たちは厩舎へ寄った。
灰色の小馬は、リディアの姿を見つけるなり、柵の間から鼻先を突き出した。白い斑のある額が上下し、湿った鼻が何度も空気を吸う。
リディアは籠から人参を一本出した。
「手のひらを平らにしてお見せください」
厩番に言われ、短く折った人参を掌へ載せる。
小馬は待たなかった。鼻を激しく鳴らし、リディアの手から人参をさらう。
「あっ」
リディアは一歩下がった。
灰色の小馬は太い音を立てて人参を噛み、もうないのかと柵を鳴らす。
リディアは自分の指を一本ずつ確かめた。それから籠を背中へ隠し、小馬へ言う。
「一度に食べると、喉につかえてしまいます」
「その馬は、食べ物を前にすると礼儀を忘れますので」
厩番が苦笑し、二本目を縦に割った。
今度は小馬が食べ終えるまで、リディアは手を引かなかった。唇と鼻先が掌をくすぐるたびに目を細め、空いた手で灰色の額へ触れる。
指は毛並みに逆らわず、白い斑の縁をゆっくり往復した。
「この子には、お名前がありますか」
「アルトでございます」
「アルト。明日は、もう少し細く切ってまいります」
私たちはそこで厩舎を離れた。
◇
雨上がりの薬草園は、足を入れられる状態ではなかった。
オズワルドと庭師たちが排水溝を掘り直し、崩れた畝へ土を戻している。リディアは木戸の外から作業を眺め、持ってきた手帳へ何かを書き込んでいた。
「中へ入れるのは、明日以降でございます」
オズワルドに言われても、リディアは落胆した様子を見せなかった。
「水が、こちらからあちらへ流れるのですね」
「はい。けれど以前の溝は浅く、途中で詰まっております」
「畝の場所を動かしたら、だめでしょうか」
「日当たりの要る草もございますので、すぐには何とも」
私は二人の会話を聞き、前世で使っていた舞台模型を思い出した。
平面図だけではわかりにくい装置の高さや、人が通る幅を確かめるため、箱の中へ小さな壁や階段を置いていた。
「実物を動かす前に、小さな庭を作ってみましょうか」
「小さな庭?」
◇
昼前、庭師小屋の作業台へ、浅い木箱が置かれた。
底には乾いた砂を敷き、細い枝を木柵に、平たい小石を通路に見立てる。薬草の区画は、色の違う端切れで分けた。
オズワルドが昔の見取り図を広げ、リディアが手帳を開く。
「月鈴草は、子どもが通る道から離してください」
「石壁沿いへ戻しますか」
「いいえ。あそこは雨のあと、水が集まっていました。根が腐ってしまいませんか」
オズワルドが地図を確認する。
「確かに。では南の高い区画へ」
「鍵のある柵も必要です。手引きを読む方が、外から葉を見られるようにできますか」
リディアは端切れを動かし、通路から見える角度を確かめた。
「傷薬の草は、入口の近くがよいと思います。領民の方がお急ぎのとき、奥まで歩かなくて済みます」
「乾燥小屋へ運ぶ道も、こちらのほうが短くなりますな」
「リディア。いつの間に、乾燥小屋や洗濯場の位置まで覚えたの?」
リディアは箱庭から顔を上げた。
「コルネリア先生に、別邸の見取り図を暗記するよう申しつけられました。立派な令嬢は、使用人が無駄に歩いていても見落としてはならないと」
「この屋敷へ来る前から?」
「はい。各階のお部屋と階段、厨房から食堂までの歩数も覚えました。間違えると、最初から数え直しでした」
オズワルドの顔から笑みが消えた。
リディアはそれに気づかず、見取り図の上へ指を滑らせる。
「洗濯場の方は香袋の草を取りに来ます。厨房の方はレモン草を使います。同じ道では、籠がぶつかるかもしれません」
人の動きを見張り、怠りを探すために覚えさせられた知識だった。
「なら、その見取り図を、働く人がぶつからないために使いましょう」
私が言うと、リディアは箱庭と古い図面を見比べた。
「使い方を、変えてもよいのですか」
「知識はコルネリアの持ち物ではないわ。もう、あなたが使っていいものよ」
リディアは図面を自分の側へ少し引き寄せた。
私は小石を一つずつ置き、人がすれ違える幅を残した。前世で役者と大道具がぶつからない道を考えていた経験が、庭の通路でも役に立つ。
「ここは狭いわ。水差しを持った人と、籠を持った人が同時に通れない」
「では、石を一つ外します」
リディアが小石をつまみ、通路を広げる。
リディアは朝食で汚さなかった袖を砂だらけにし、鉛筆と端切れを何度も持ち替えた。
「木札には、名前だけでなく葉の形も描きたいです。月鈴草は、花がない季節にも見分けられるように、昨日描いた葉を――」
昼食を知らせる鐘が鳴った。
リディアは顔を上げず、箱庭の隅へ新しい木札を差し込んだ。
「あと一つだけです。オズワルド、月鈴草は夏にどれくらい背が高くなりますか」
老庭師が答え始める。
答えの途中で、リディアの鉛筆が動く。草丈を書き込み、月鈴草を示す端切れを南へずらし、その横へ日陰を作る小さな枝を立てた。
「夏に影がこちらへ伸びるなら、柵はもう少し離したほうがよいでしょうか」
昼食の鐘が二度目を鳴らす。
リディアは聞こえないふりさえせず、次の木札を砂へ押し込んだ。




