第11話 失敗しても、悪い子ではない
「ここが傷薬の区画です」
リディアは箱庭の入口へ立てた木札を指した。
庭師小屋の作業台を囲んでいるのは、領内で暮らす四人の子どもたちだ。
厩番の息子。洗濯場で働く夫婦の姉妹。そして、管理人ナタンの娘であるミーナ。
いずれ本物の薬草園を領民へ開くなら、子どもが見ても危険な区画を理解できるようにしたい。そうオズワルドへ話したところ、まず屋敷で暮らす子どもたちに箱庭を見てもらうことになった。
ただし、これは試験ではない。
わからない場所があれば、わからないと言ってもらう。興味がなければ、途中で果樹園へ遊びに行っても構わない。
私は最初にそれだけを伝え、作業台から離れた壁際へ椅子を置いた。
子ども同士の会話へ大人の視線が多すぎれば、茶会と変わらなくなる。小屋に残ったのは私とベルタ、オズワルドだけだった。
「この赤い札は何ですか」
ミーナが尋ねた。
八歳の彼女は、父親と同じ濃い茶色の髪を二つに編んでいる。箱庭を見るため作業台へ顎がつきそうなほど身を乗り出していた。
「毒のある草です。触ってはいけないという印にしました」
「字が読めない子にもわかりますね」
「はい。でも、赤い花の札と間違えるかもしれません」
「では、角を尖らせたらどうでしょう。痛そうに見えます」
リディアは赤い札を見た。
「オズワルド、木札の上を三角に削れますか」
「できますとも」
老庭師が端材を手に取る。
洗濯場の姉妹は、香袋に使う草の場所が水場から遠いと不満を言った。厩番の息子は、薬草より箱庭の柵に使った枝の種類を気にしている。
リディアは誰かが意見を言うたび、すぐに直さなかった。
手帳へ書き、理由を尋ね、オズワルドと相談する。
ミーナが箱庭の奥を指した。
「この小さな井戸は、本当に水が出るのですか」
「模型ですから、出ません」
「持ち上げても?」
「枝を刺してあるだけなので――」
リディアが答え終わる前に、ミーナは井戸へ手を伸ばした。
袖口が柵の先へ引っかかる。
細い枝が二本続けて折れ、月鈴草の区画を囲っていた赤い糸が外れた。倒れた木札が砂を掻き、平らに並べていた小石まで崩れる。
ミーナは慌てて腕を引いた。
その動きで、もう一本の枝が折れた。
「ご、ごめんなさい」
小屋の中が静かになった。
リディアは壊れた柵を見ていた。
朝から何度も位置を直した木札。オズワルドに高さを尋ね、危険な区画へ人が入らないよう考えた赤い糸。
その視線が箱庭から私へ飛んだ。
叱責を待つときの目だった。頬から色が失せ、唇が何度か音もなく動く。
「失敗……」
かすかな声が漏れた。
「わたくしが、皆さまへお見せしたのに。壊れて……お義母様に、がっかりされる……」
私が名前を呼ぶより先に、リディアはオズワルドとほかの子どもたちの顔を見回した。
誰かが自分を責める前に、責められる者を決めなくてはならない。そうしなければ、また失敗した子として見放される。
その恐怖だけが、幼い顔からミーナの姿を押し流していた。
私が立ち上がるより先に、リディアの口が開いた。
「身の程を知りなさい」
高くも、大きくもない声だった。
けれど、その場にいた全員へ届いた。
ミーナの頬がこわばった。
「触ってよいか、聞こうと思って……」
「管理人の娘が、侯爵家の物へ勝手に触れるなんて――」
その言い回しには覚えがあった。
コルネリアの教材にあった、領地管理の訓戒。使用人やその家族が主人の物へ触れた際、侯爵令嬢が家格の境を示すための定型句だった。
そこでリディアの声が途切れた。
自分の口から出た言葉に、自分が追いついたようだった。
「ちが……」
ミーナが俯く。涙が一粒、崩れた砂の上へ落ちた。
「ごめんなさい。わたし、帰ります」
「待って」
リディアが作業台を回り込もうとする。
ミーナはその分だけ後ろへ下がった。
それを見たリディアの靴が床を擦り、その場で止まる。
「わたくしは……」
息が浅くなり、言葉の切れ目ごとに喉が鳴っている。
「わたくしは、本当に、悪い子になってしまいました」
◇
「ベルタ、ほかの子たちを果樹園へ。お菓子を用意して」
私は声を荒らげずに告げた。
「ミーナは、ここへ残りたい? 別の部屋で休みたい?」
突然尋ねられ、ミーナは涙を拭った。
「……お父様のところへ行きたいです」
「わかりました。オズワルド、ナタンを呼んであげて」
ミーナが父親のもとへ向かうまで、リディアは動かなかった。
追いかけることも、謝罪を押しつけることもできず、壊れた箱庭を見ている。
扉が閉まると、彼女は私へ向き直った。
「お義母様。わたくしを王都へ戻してください」
「なぜ?」
「コルネリア先生のところへ戻って、最初からやり直します。わたくしは、あのような言葉を言う子です。先生がおっしゃったとおりでした」
「コルネリアが正しかったと?」
「そうでなければ、どうして言ってしまったのですか」
リディアは両腕で自分の体を抱いた。
「お義母様が舞台を壊してくださっても、わたくしの中に悪い役が残っています」
私は作業台の向こうへ回った。
「まず、座りましょう」
「でも、ミーナが」
「今追えば、ミーナに、あなたを許す返事まで急がせることになるわ。待ちなさい」
リディアは唇を噛み、椅子へ座った。
私は隣へ膝をつき、布を傷めるほど強く握られた腕へ触れた。指を一本ずつ解くと、爪の跡が袖の上からでもわかるほど残っていた。
壊れた柵が、二人の間に見えていた。
「言った言葉は、なかったことにはできません」
「……はい」
「ミーナは傷ついた。謝っても、すぐ許してもらえるとは限らないわ」
リディアの睫毛に涙がたまる。
「私はあの言葉を庇いません。でも、言葉を誤ったあなたを、丸ごとコルネリアへ引き渡すつもりもない」
「わたくしの口から出ました」
「ええ。だから、誰に教わった言葉であっても、あなたが責任を持って謝るの」
リディアの腕から力が抜けた。私はそのまま、細い体を自分の肩へ引き寄せる。
最初は背を固くしていたが、やがて額が私の首元へ触れた。
「柵が折れたとき、あなたはミーナではなく、私を見たわね」
「……がっかりされると、思いました」
「捨てられるとも思った?」
首元で、小さく頷く気配がした。
「それで、先生が褒めてくれた言葉を使ったの?」
「はい。間違えずに言えたら、立派な令嬢だと……」
「私に叱られると思って、先にミーナを叱ったのね」
リディアの額が、私の肩へ深く沈んだ。
「次に怖くなったときは、私に言って。すぐにできなければ、あとからでもいい。ミーナに言ったことは、あなたから謝りましょう」
「何と申し上げれば……」
「それは私が決めません」
私は抱く腕を緩め、リディアの顔を見た。
「まず、何を謝りたいのか考えてみて。言葉が出てくるまで、ここにいます」
リディアは崩れた砂へ目を落とした。
「謝っても、許していただけなかったら?」
「許しを乞うことはできても、その痛みをどう収めるかは、ミーナが決めることよ」
「わたくしには、できることがありません」
「言葉を選んで謝ること。壊れたものをどうするか、彼女へ尋ねること。できるのは、その二つね」
リディアは長いあいだ黙っていた。
やがて涙を袖で拭こうとして、途中でやめる。卓上に置かれた布を取り、目元へ押し当てた。
「ミーナが戻ってくださったら、お話しします」
◇
ミーナが父親と一緒に庭師小屋へ戻ったのは、半刻ほどあとだった。
泣いたあとの目は赤い。ナタンの上着の裾を握り、小屋へ入るかどうか迷っていた。
「無理に戻らなくてもよいのよ」
私が言うと、ミーナは首を振った。
「お父様が、帰るかどうかは自分で決めなさいと」
ナタンは娘の後ろで一礼した。
リディアは作業台の脇に立っていた。
いつものように美しい謝罪を言おうとしているのか、何度か唇が動く。けれど、覚えた定型句は出てこなかった。
「ミーナ」
ようやく名前を呼ぶ。
「柵が壊れたとき、わたくしは、自分が失敗したと思って怖くなりました」
ミーナはナタンの裾を握ったまま聞いている。
「あなたの身分のことは、考えていませんでした。でも、身分で人を下にする言葉を使いました。あなたを傷つけました。ごめんなさい」
リディアは頭を下げた。
返事はすぐにはなかった。
「……まだ、少し怒っています」
ミーナが言った。
リディアの顔が上がる。
「はい」
「わたしも、触っていいと言われる前に手を出しました。でも、管理人の娘だから触るなと言われたのが、嫌でした」
「はい。言ってはいけないことでした」
「すぐには、仲良くできないかもしれません」
リディアは一度息を吸った。
「それでも、柵を直す方法を、一緒に考えていただけますか」
ミーナが壊れた箱庭を見る。
「同じ細い枝では、また袖が引っかかると思います」
「では、違う枝を探しましょう」
「柳の枝なら、曲がっても折れにくいです。川の近くにあります」
オズワルドが口を挟まず、道具箱を作業台へ置いた。
◇
新しい柵は、最初のものほどまっすぐにはならなかった。
柳の枝はよく曲がる。二人で端を押さえ、赤い糸を巻きつけても、結び目からすぐ逃げてしまう。
ミーナが糸を引き、リディアが枝を押さえる。
「強く引きすぎると、また折れます」
「柳は、それくらいでは折れません」
「でも、箱の砂から抜けてしまいます」
「では、そちらをもっと深く刺してください」
二人の声はまだ硬かった。
笑い声もない。
それでもリディアは、ミーナの手から糸を取り上げなかった。ミーナも、作業台から離れなかった。
「ここを持っていてください」
リディアに言われ、ミーナが枝の中央を押さえる。
赤い糸が一周し、二周目で緩んだ。
「もう一度です」
リディアは柳の硬い節を指先で押さえ直した。
ミーナはまだ彼女の顔を見ず、緩んだ糸を下から通す。
「上から巻くと、また逃げます。ここからです」
「……はい」
結び目は傾いたままだったが、今度は引いてもほどけなかった。
ミーナは指で柵を二度押し、隣の赤い糸を示した。
「そちらも緩んでいます」
リディアは糸巻きを取り、返事の代わりに新しい糸を引き出した。




