第8話 おやすみの前のお願い
雷鳴で、燭台の火が震えた。
窓硝子を雨が細かく叩いている。遠くで低く続いていた音が、今度は屋敷の屋根を割るような近さで鳴った。
私は卓上の書類から顔を上げた。
クラウディアが残した薬草園の記録。コルネリアの指示で改装された子ども部屋の支出明細。領政庁へ保管する手引きの草案。
別邸へ来て三日、昼間はリディアと庭へ出て、夜になると王都から持ち出した記録を調べている。
今日の薬草園では、月鈴草の葉を数えるだけで半日が終わった。
リディアは夕食の席でも、葉の裏に生えた細かな毛の話をしていた。途中で自分ばかり話していると気づき、口を閉ざしかけたが、オズワルドが続きを尋ねると、スープが冷めるまで説明を続けた。
あの勢いなら、今夜はよく眠れると思っていた。
廊下から、控えめなノックが三度聞こえた。
「どなた?」
「モニカでございます。リディア様がお越しです」
返事をする前に、また雷が鳴った。
「お入りなさい」
扉を開けた女中頭の後ろに、リディアが立っていた。
寝間着の上へ薄い部屋着を重ね、室内履きもきちんと履いている。昼間ほどかれた髪は一本の三つ編みにされ、胸には角の擦れた動物の絵本を抱えていた。
夜中に大人の部屋を訪ねたことを責められないよう、可能なかぎり礼儀を整えてきたらしい。
「どうしたの?」
「お休みのところ、申し訳ございません」
「まだ起きていたわ。こちらへいらっしゃい」
リディアは部屋へ入ったものの、扉から三歩ほどの位置で止まった。
「雷が怖い?」
「いいえ」
直後に窓が白く光った。
リディアは瞬きを忘れたような顔で、次の音が来るのを待っている。
腹へ響く雷鳴が轟くと、絵本の表紙が部屋着へ強く押しつけられた。
「そう。では、その本が雷を怖がっているのかしら」
リディアは腕の中の絵本を見下ろした。
「紙ですから、怖がらないと思います」
「ずいぶん勇敢な本ね」
「羊が狼から逃げるお話です」
「それなら、逃げることに詳しそうだわ」
リディアは何か言おうとして、やめた。
私は寝台脇の長椅子へ移り、隣を空けた。急かさず待っていると、リディアは絵本を抱えたまま近づいてきた。
「お義母様」
「なに?」
「一晩だけ、物語を読んでいただいてもよろしいですか」
読み聞かせを頼むだけの言葉が、ひどく慎重に運ばれてくる。
「一晩で本を全部読むのは難しいわね」
「全部でなくて結構です。一つだけで」
「では、雷が遠ざかるまで一つ」
リディアは長椅子へ腰を下ろし、絵本を私へ差し出した。
開いてみると、羊の挿絵の横に短い文章が並んでいる。宿で見た群れを思い出したのかもしれない。
最初の頁を読み始めたが、三頁目で雷がまた近づいた。
リディアの視線は本ではなく、カーテンの隙間へ向いている。
私は絵本を閉じた。
「別の話にしましょうか」
「別の?」
「本には書かれていない話よ。昔、ある魔法劇団で起きたこと」
前世で、地方公演の初日に経験した騒ぎを思い出す。
この世界の子どもへ聞かせるなら、照明器具は月光を集める魔法灯に、舞台装置は風を閉じ込めた城へ変えればいい。
「その劇団は、月のない夜にだけ現れるお城の物語を上演することになりました。ところが幕が開く直前、城を動かす風の魔法が壊れてしまったの」
「お城は、動くのですか」
「舞台の上ではね。本当の城ではなく、布と木で作った城よ。風の魔法で塔が回り、隠れていた月が現れる仕掛けだったの」
「壊れたら、お客様にわかってしまいます」
「ええ。騎士役は顔を青くし、月の姫役は台詞を全部忘れた。魔法使いは、直すには一刻かかると言いました。でも、お客様はもう席で待っている」
リディアは絵本を膝へ置いた。
「どうしたのですか」
「裏方の少女が、皆へ尋ねたの。このまま上演するか、事情を話して延期するか。どちらを選んでも、誰も責めないと」
「少女が決めなかったのですか」
「舞台へ出る人たちが決めることだから」
あの夜、最終判断を下したのは私だった。
けれど、出演者の体調と意思を一人ずつ確かめた。続行すると答えた者にも、途中で無理だと思ったら合図を送るよう念を押した。
「騎士と姫は、上演すると決めました。ただし、壊れた城を動かそうとはしなかった。月が現れないなら、騎士が自分で月を探しに行く話へ変えたの」
「台詞も変えたのですか」
「ほとんど全部」
「その場で?」
「その場で。月の姫は台詞を忘れていたから、かえって都合がよかったわ」
リディアの口元が少しゆるんだ。
「お客様は怒りませんでしたか」
「最後には立ち上がって拍手をした。翌日の公演では城の魔法が直ったけれど、騎士が月を探す場面だけは、そのまま残ったのよ」
「壊れたのに、前よりよくなったのですか」
「そういうこともあるわ」
雨音が少し弱くなっていた。
雷はまだ鳴っているが、屋敷を揺らすほどではない。
リディアは閉じた絵本の羊を指でなぞった。
「……お城が直って、騎士様が月を見つけられて、よかったです」
「ええ」
「わたくしの茶会も、その……壊れたお城と似ていたのでしょうか」
言いながら、羊の背を何度も同じ向きへ撫でている。
「少しだけ似ているわ。でも、あの茶会はあなたが直すものではなかった」
「では、もう開けないのですか」
「開くなら、別の茶会にしましょう。誰かを困らせる台詞も、悲しい顔の練習もないものに」
「羊のお話をしても?」
「もちろん」
「薬草のお話は、長くなってしまいます」
「お茶が冷める前に、続きを尋ねるようにするわ」
リディアは絵本へ顔を伏せた。羊の挿絵の上で、頬だけが少し持ち上がっている。
やがて、長椅子の背へ体を預ける。眠気が勝ち始めたらしく、瞬きがゆっくりになっていた。
「今日は、ここで休む?」
「よろしいのですか」
「雷が本を怖がらせているのでしょう。離すのはかわいそうだわ」
リディアは真面目に絵本を見たあと、ようやく小さく笑った。
モニカへ予備の寝具を頼み、寝台の片側を空ける。
リディアは横になっても絵本を離さなかった。私は燭台を一つ消し、残った明かりで羊の話の続きを読む。
四頁ほど進んだところで、頁をめくる音に返事がなくなった。
眠ったのだと思い、本を閉じようとした。
そのとき、掛布の上を探るように伸びた指が、私の手へ触れた。
小さな指が、私の人差し指と中指をまとめて握る。布を一枚も挟まない熱が、指の腹へ直接伝わった。
私は体勢を変えず、呼吸が深くなるまでそこにいた。
◇
雷が東へ遠ざかったころ、廊下に人の気配がした。
今度のノックは、短く二度、間を置いて一度。
ベルタが急報を知らせる合図だ。
リディアの指を起こさないようゆっくり抜き、掛布の端を整える。隣室へ移ると、ベルタが旅装の男を伴って待っていた。
男はアルベリクの側近、書記官のユリウスだった。
王都邸で何度も顔を見ている。それでもベルタは、彼の身分証とアルベリク個人の指輪で封じられた通行証を卓上へ並べていた。
ユリウスは濡れた外套の襟を正した。
「旦那様から、書状をお渡しする前に一言お伝えするよう命じられております。『西棟の時計は、七分遅れていた』と」
私は苦く笑った。
「それでも鐘は正しかったわ。……だけど、あなたに私を責める気はなかったのでしょう?」
ユリウスの顔から、張りつめていたものがわずかに解けた。
「間違いなく、奥様でいらっしゃいます」
一年前、結婚後初めて二人で夕食を取る約束をした日。
私は西棟の時計を信じて遅刻し、アルベリクは料理の冷めた食堂で待っていた。私が謝ると、彼は時計と鐘のどちらが正しいかを長々と説明した末、最後にその言葉を付け加えた。
仲のよい思い出ではない。使用人にさえ聞かせなかった、ひどく気まずい夜の記憶だ。
出発前に新しい暗号を決める余裕などなかったアルベリクが、本人にしか選べない出来事を封の代わりにしたのだ。
ユリウスが内衣の下から、油紙で包んだ封書を取り出した。
「旦那様より、奥様ご自身へ。王都邸の者にも内容は知らせておりません」
「この調査を、出発してから始めたの?」
「いいえ」
ユリウスは声を落とした。
「旦那様は数か月前から、リディア様の教育報告が侯爵家を通さず学園準備局へ提出されていることを不審に思っておられました。私へ命じ、雇用記録と王宮側の受領簿を密かに照合させていたのです」
「では、なぜ今まで止めなかったの」
「相手が王妃殿下の後援を受ける会です。証拠なしに動けば、教育へ関心を持たなかった事実を逆に利用されます。旦那様は、提出者と命令系統が確定するまで泳がせるおつもりでした」
食堂で娘へどう話しかければよいかもわからなかった父親が、その裏で書類の流れだけは追っていた。
十分だったとは思わない。彼がもっと早く娘の部屋へ足を運んでいれば、防げたこともある。
それでも、今日になって突然すべてを調べ上げたわけではなかった。
「茶会でコルネリアを解任したことで、旦那様は保護者として教育記録の正式な開示を要求されました。しかし学園準備局は、会の内規と王妃殿下の後援を盾に応じなかったのです」
ユリウスはそこで一度言葉を切った。
「そこへ、奥様から二経路で急報が届きました。旅程を知る者が偽の侯爵家印を使い、コルネリアの教材をリディア様の宿へ先回りさせた――宿主の証言と、偽造印の印影を添えて」
あの宿で、私は同じ内容の急報を二通作った。一通は侯爵家の早馬へ、もう一通は護衛へ持たせ、別々の道で王都へ送っていた。
「一通だけなら偽報として退けられたでしょう。ですが、異なる経路から同じ報告が届き、印影まで一致した。侯爵令嬢の教育という名目を越え、印章偽造と家中への潜入による実害が生じた以上、準備局も記録を伏せ続けられません。一昨日の夕刻、ようやく写しを提出いたしました。私はその夜に王都を発ち、駅馬を乗り継いでおります」
封にはアルベリクの私印と、王宮書記局の割印が並んでいる。
私は二つを確かめてから開封した。
最初の一枚は、コルネリアの雇用記録に関する報告だった。
――コルネリア・ヴァイスを、アルヴェイン侯爵家が独自に雇い入れた事実はない。
彼女をリディア付き教育係として推薦したのは〈花冠の会〉。採用を求める書状には王妃付き女官長の名があり、当時の家令は、王家からの要請に等しいと判断して受け入れていた。
契約書には侯爵家の印が押されているが、アルベリクの署名はない。
私の署名もなかった。
次の紙には、コルネリアが王宮の学園準備局へ提出していた教育報告の写しが綴じられていた。
リディア嬢は情に流されやすく、下位の者へ身分を越えた親愛を示す悪癖あり。
侯爵夫人ローゼリアはこれを深く憂慮し、母娘の私的な交わりを減じ、令嬢の甘えを断つことを望まれた。
未熟なる令嬢には、己の分を悟らせる静寂を処方すべし。侯爵夫人の厳格なる意向に従い、私的な慰めを退け、定められた礼法を寸分違わず再現した折にのみ、賞を与えるものとする。
私は報告書を卓上へ置き、燭台を引き寄せた。
怒りに任せて読み違えないよう、一行目からもう一度追う。提出日、宛先、コルネリアの署名。私の意向だと記された箇所には、細い紙片を挟んだ。
読み返すほど、頭の芯が冷えていった。
私が距離を置いたことも、口を出さなかったことも、褒められた行いではない。だが、あいつらはその沈黙を拾い上げ、娘から慰めを奪う命令へ書き換えた。
舞台の裏で他人の名を使い、本人の知らない合図を出す。事故ではない。意図して進行を奪う者の手口だった。
私は、こんな方針を命じていない。
最終頁には、アルベリクの筆跡で短く記されていた。
――彼らが役を与えたのは、リディアだけではなかった。
隣室から、寝返りを打つ小さな音が聞こえた。
私は報告書を伏せた。
「ユリウス。夜が明けたら、アルベリク様へ返書を持って戻ってください」
「承知いたしました」
「ベルタは、王都邸と別邸に残る過去一年分の書状を集めて。私の署名がある教育関係の文書は、一枚も漏らさずに」
ベルタが一礼する。
命令を否定し、署名と印章、提出経路の調査を求める反論書を作った。私に続いてベルタとユリウスが立会人として署名し、三人の名をまたぐ位置へ私印を押す。
燭台の下で、書き終えたばかりの文字が鈍く光っていた。
隣室からは、雷を忘れたリディアの寝息が聞こえる。窓の外の雨は細くなり、雨樋から落ちる滴の間隔も長くなっていた。
夜明けと同時に、この一枚はユリウスとともに王都へ戻る。




