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第7話 泥だらけの侯爵令嬢

 朝露に濡れた鉄の掛け金は、庭師長が両手で引いてもすぐには外れなかった。


「申し訳ございません。この表門を開けるのは、一年ぶりでして」


 庭師長のオズワルドは、錆を落とした鍵を何度か回した。傾いた木戸が、湿った土を削りながら内側へ開く。


 むっとする青い匂いが流れ出した。


 薬草園は、二階の窓から見るより深く荒れていた。


 蔓草が腰の高さまで木柵を覆い、石畳の隙間から細い葉が伸びている。区画を分けていたらしい丸石は半分ほど土へ沈み、木製の札は文字が読めないほど黒ずんでいた。


 護衛が先に入り、塀際や茂みの裏を確認する。ベルタはリディアの帽子を結び直し、女中頭のモニカは替えの手袋と水筒を籠へ詰めていた。


 ずいぶん大がかりな庭見物になった。


 けれど昨日、リディアは自分からここへ来たいと言った。その約束を、私の警戒不足で危険な思い出にはしたくない。


「オズワルド。この庭に、毒性のある植物は残っていますか」


「ございます」


 返答に迷いはなかった。


 私は木戸へかけた足を戻した。


「どこに?」


「おそらく、あちらの石壁沿いに月鈴草が。花は美しゅうございますが、根も葉も口にしてはなりません。こちらには痺れ草が残っているかもしれません」


「そんなものを、なぜ薬草園に植えるのです」


 尋ねたのはリディアだった。


 オズワルドは、子ども扱いして笑うことも、怖がらせるように声を低くすることもしなかった。


「毒になる草も、量と使い方によっては薬になります。月鈴草から採った薬は、弱った心の臓を助けます。扱いを誤れば、反対に止めてしまいますが」


 リディアが木戸の向こうへ目を凝らす。


「見ただけで、わかりますか」


「葉の形を覚えれば。触れずに見分けるところから始めましょう」


 学園の温室で起きる毒草事件が、頭をよぎった。


 断罪の場面では、リディアの植物図鑑が証拠台へ置かれ、毒草の頁が開かれた。なぜ知っていたのかを尋ねる者はいない。名前と形を知っている、その一点が彼女の悪意に数えられた。


「庭の植物をすべて調べ、名と性質を記録してください」


 私はオズワルドへ告げた。


「危険なものは囲いを作り、鍵をかけること。抜き捨てるかどうかは、用途を聞いてから決めます。それと、リディアへ教えた内容は、彼女の手帳だけに残してはなりません」


 オズワルドが顔を上げた。


「別に正本を作ります。題は『アルヴェイン領薬草園の手引き』。植物の名、薬効、毒性、採取と保管の決まりを記し、教えた日付と立ち会った者の名も添えること。あなたの監修署名に加え、領医にも内容を確認させます」


「正本は、どちらへお納めいたしましょう」


「同じものを二部。領政庁と、この屋敷の書庫へ一部ずつ。閲覧を禁じる必要はありません」


 前世の舞台でも、危険を伴う道具ほど、扱った者と時刻を記録した。持ち主のわからない小道具が一つ紛れ込むだけで、事故の原因は追えなくなる。


 リディアから知識を遠ざけても、未来の誰かが図鑑を一冊忍ばせれば同じことだ。


 ならば、誰から何を学んだか、隠しようがないほど公にしてしまえばいい。秘密の毒草研究などという筋書きが入り込む隙を、先に塞ぐ。


「かしこまりました」


「リディアは、オズワルドか私が一緒のときだけ入ります。それでよい?」


「はい」


 娘の返事を聞いてから、私たちは木戸をくぐった。


     ◇


 荒れていても、薬草園にはかつての区画が残っていた。


 料理に使う草。傷薬にする草。乾燥させて香袋へ入れる草。石で囲まれた小さな畝が、目的ごとに分けられている。


 オズワルドが黒ずんだ札を一枚ずつ起こすたび、リディアはその文字を手帳へ書き取った。


「これは、レモン草でございます」


「葉がレモンの味なのですか」


「噛めば少し苦うございます。香りだけなら、よく似ておりますが」


「お茶にできますか」


「若い葉でしたら」


 昨日、部屋の品を前にしていたときとは違う。


 リディアの質問が、オズワルドの答えへ追いつく前に次々と出てくる。書き損じた文字を小さく塗り潰し、その隣へまた書く。手袋の縁へ土がついても、気づいていない。


 私は少し離れた石畳から、その様子を見ていた。


「奥様」


 ベルタが声を潜める。


「何かしら」


「昨日、緑の布を選ばれた理由がわかった気がいたします」


「本人へは言わないで」


「心得ております。せっかくのお嬢様の発見を、侍女頭の手柄にするほど無粋ではございません」


 ベルタはそう言って、籠から水筒を取り出した。


 庭の奥で、オズワルドが土に埋もれた木札を引き抜こうとしている。根元へ蔓が絡み、片手では動かせないらしい。


 リディアは手帳を閉じた。


「わたくしも、お手伝いします」


「お待ちください、リディア様。そこは土が――」


 オズワルドが止めるより先に、リディアは石畳から畝へ一歩踏み出した。


 朝露を含んだ土が、靴の下で深く沈む。


 もう片方の足を引こうとして、均衡を崩した。


「リディア!」


 短い声と、土を打つ鈍い音が重なった。


 リディアは畝の脇へ両膝をついていた。淡い色の外出着へ黒い泥が跳ね、手袋は手首まで濡れている。


 誰かが助け起こすより早く、彼女は立とうとした。


 けれど片足が泥に取られ、もう一度膝をつく。


「申し訳ございません」


 声がひどく平らだった。


「リディア、そのままでいて」


「ドレスを汚しました。お客様を迎えるためのお庭も、踏んでしまいました。すぐに着替えて、オズワルドへ弁償を――」


「足は痛む?」


「申し訳ございません」


「ドレスの話ではないわ。足首を動かせる?」


 返事がない。


 リディアは汚れた手袋を腹の前で重ね、まっすぐ前を見ていた。


 私は石畳を降りた。


 靴が泥へ沈み、裾へ冷たい飛沫が散る。ベルタが背後で「ああ」と低くこぼしたが、構わずリディアの前へしゃがんだ。


「失礼するわよ」


 靴の紐を緩め、泥からゆっくり足を抜く。足首を指で確かめても、腫れはない。膝にも擦り傷は見当たらなかった。


「痛いところは?」


「……ありません」


「では、立てそう?」


 差し出した腕を、リディアは見つめた。


「わたくしに触れると、お義母様まで汚れてしまいます」


「もう遅いわ」


 私は自分の裾を持ち上げて見せた。


 泥は膝近くまで跳ね、白い刺繍の一部をすっかり覆っている。片方の靴など、元の色もわからない。


 リディアの口から、息とも声ともつかない音が漏れた。


「それに、ドレスに骨はないでしょう。怪我をしていないなら、洗えば済みます」


 今度は、リディアが私の腕をつかんだ。


 オズワルドと護衛にも手を借り、石畳まで戻る。泥に残った靴を抜くとき、湿った土が大きな音を立てた。


 その音に驚いたのか、リディアが肩を跳ねさせる。


 私の靴からも、ほとんど同じ音がした。


 リディアは私の足元を見た。視線が裾の泥を上り、顔へ届く。


 口元がわずかに歪んだ。


「笑ってもよいのよ」


 そう言うと、かえって唇を結ばれてしまった。


 私は余計な許可を出したことを後悔しながら、井戸端へ向かった。


     ◇


 井戸水で泥を落とそうとすると、汚れは薄まるどころか広がった。


 ベルタが濡らした布で私の裾を叩くたび、白い生地に茶色い輪が増えていく。


「これは、洗濯場へ運ぶほかございません」


「そのようね」


「申し上げにくいのですが、触らないほうがまだましでした」


「それを今言うの?」


 ベルタは答えず、泥水の入った桶を遠ざけた。


 隣では、モニカがリディアの手袋を外している。外出着は裾を拭いただけで、着替えは部屋へ戻ってからになった。


 私が立ち上がると、濡れたスカートが足へ張りついた。歩きにくくて裾を振った拍子に、小さな泥の粒がベルタの靴へ飛ぶ。


 ベルタは磨かれた革靴についた泥を冷ややかに見下ろし、布を持ったまま息を吐いた。


「……よほどリディア様をお助けになりたかったのですね。ご自分のお衣装だけでは足りず、私の靴まで洗濯物へ加えられるほど」


「不可抗力よ」


「洗濯場では、そのように申し伝えます。追加の費用は今月の奥様付き予算へ計上いたしますので、ご承知おきくださいませ」


 声はいつもと同じ平坦さだった。けれどベルタは私の裾を放り出さず、泥の少ない箇所へ布を当て直した。


 リディアは目を丸くして、私とベルタを見比べた。


 両手で口を塞いだものの、こらえきれなかった空気が、ぷっと鼻から漏れる。本人は慌てて眉を寄せ、口元へさらに力を入れた。


 だが、泥まみれの私の靴と、何事もなかったように裾を拭き続けるベルタを見るうち、唇の端がほどけた。


「ふ……っ」


 一度こぼれた声を呑み込もうとして、今度は息がしゃくり上がる。リディアは腹を押さえ、前屈みになって笑い始めた。目尻へ浮かんだ涙を拭おうにも、外したばかりの手袋をどこへ置いたかわからず、両手を忙しなくさまよわせている。


 モニカが黙って布を差し出した。そのあいだにも笑いは収まらず、私まで喉の奥から声が漏れた。


 ベルタは私たちを見回し、汚れた靴を井戸水から遠ざけただけだった。


 オズワルドが少し離れたところで、眩しそうに目を細めている。


「何か?」


 私が尋ねると、老庭師は帽子を脱いだ。


「先ほどの転び方が、クラウディア様によく似ておりました」


 リディアの笑い声が途切れた。


「お母様も、ここで転んだのですか」


「何度も。あの方は薬草を見つけると、靴が泥へ沈んでいることをお忘れになりましたので」


「この庭は、お母様のものだったのですか」


 オズワルドは帽子を胸へ当てた。


「はい。クラウディア様がお輿入れになった直後、王都の社交に馴染めず、しばらくこの別邸で過ごされたことがございました。その折にご自分で区画を引かれたのです。領民に使う傷薬や、熱冷ましの草を育てておられました」


 リディアは泥のついた自分の裾を見下ろした。


「わたくし、何も知りませんでした」


「見学用の表門を閉じたのは、奥方様がお亡くなりになったあとでございます。施療所へ苗を出す区画だけは、裏口から通って世話を続けましたが、旦那様は王都へ移られ、人手も減りました。リディア様がお聞きにならなかったのではなく、私どもがお話しする機会を作らなかったのでございます」


 オズワルドの言葉に、言い逃れはなかった。


 リディアはしばらく黙り、やがて私を見た。


「お義母様」


「なに?」


「お母様のお庭を直したいと言ったら……お嫌ですか」


 汚れた袖の下で、指が布をつまんでいる。


 亡き妻が作った庭を、後妻である私が娘と直す。


 この屋敷の者がどんな目で見るか。王都へ戻れば、どんな美談や悪評に仕立てられるか。考えようと思えば、いくらでも考えられた。


「嫌ではないわ」


 私は濡れた裾を絞りながら答えた。


「ここを作ったのはクラウディア様。これから手入れするのは、あなたと私。庭はそれで困らないでしょう」


 リディアはすぐには笑わなかった。


 私の言葉を確かめるように見つめ、それからオズワルドへ向き直る。


「教えていただけますか。お母様が、どの草を育てていたのか」


「私の覚えているかぎり、すべて」


「毒になる草も?」


「それも含めてでございます」


 リディアは泥のついた手帳を開いた。濡れて貼りついた頁を慎重にはがし、鉛筆を握り直す。


「では、月鈴草からお願いします」


 オズワルドが木戸の向こうを示す。


 リディアは手帳を胸元へ寄せ、オズワルドの横へ急いだ。


「葉は何枚ずつつきますか。花がない季節にも見分けられますか。薬にするときは、根と葉のどちらを使うのですか」


「順にお答えいたしますから、まずは葉を――」


「触れずに形を書くには、どちらから見ればよいでしょう」


 オズワルドが最初の答えを言い終える前に、鉛筆が紙の上を走り出した。泥で波打った頁を掌で押さえ、聞き取れなかった言葉には空白を残し、すぐ次の行へ移る。


 私は水を吸って重くなった裾を持ち上げ、二人のあとを追って薬草園へ入った。

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