第6話 空っぽの子ども部屋
王都を発って四日目、石造りの客間は、火を焚いているのに足元が冷えた。
窓の隙間から風が入り、卓上の確認書をかすかに鳴らす。私は紙の端を銀の燭台で押さえ、砦の中庭へ目を戻した。
別邸へ先行させた護衛が、まだ戻らない。
宿を発った私たちは、領境の砦で足を止めていた。偽の侯爵家印を使う者に旅程を知られた以上、別邸だからというだけで娘を連れて入ることはできない。
やがて石壁の向こうから、速い蹄の音が近づいてきた。中庭で馬がいななき、兵士の呼ぶ声が続く。
私は冷めた茶を置いて立ち上がった。
戻ってきた護衛は、別邸の管理人が書いた使用人名簿と、倉庫、井戸、通用門の鍵の数まで記した確認書を持っていた。
封蝋は、出発前にアルベリクから見せられた領政府用のものと一致している。けれど今は、印だけでは信用できない。
「管理人は、指示書の最後に何と書き足しましたか」
私は護衛に尋ねた。
「『北の葡萄畑は、今年も雪害なし』と。奥様が意味をご存じだと申しておりました」
昨年の冬、北の畑は雪で半分潰れている。
だからこそ、それが合図になる。
人目を避けて返書を書けるなら、事実とは逆の「雪害なし」と記す。もし誰かに監視され、領地の現況を正確に報告するよう強いられているなら、ナタンは事実どおり「雪害あり」と書く。領地で不測の事態が起きた場合に備え、以前からアルベリクとナタンだけが共有していた規則だ。出立前の指示書は、その合図を求めていた。
嘘の報告だけが、今は安全を伝える。
「迎えに出た者は?」
「管理人のナタン、女中頭のモニカ、厩番頭のハロルドです。名簿の人相書きと相違ありません。昨夜から姿を消した者も、今のところはいないとのことです」
護衛隊長が確認書を受け取り、砦の隊長と二人で署名を照合する。
ようやく出発を命じた。
疑えば切りがない。それでも、子どもを乗せた馬車を「おそらく安全」という場所へ入れるわけにはいかなかった。
待たされているあいだ、リディアは一度も不満を口にしなかった。
砦の狭い客間で絵本を読み、運ばれた薄いスープを残さず飲み、出発を告げるとすぐ膝の上へ鞄を置いた。
「お待たせしたわね」
「いいえ。兵士の方が、塔の鐘を見せてくださいました」
「面白かった?」
「とても大きかったです」
そこで言葉を切り、リディアは鞄の留め具を確かめた。
私はそれ以上尋ねず、隣へ座った。結い上げた髪を崩さないよう、頭へそっと掌を置く。
リディアは目を丸くして私を見たあと、鞄から離した手で塔の方角を示した。
「鐘を鳴らす綱は、わたくしの背よりも太かったです」
「それは近くで見てみたかったわね」
リディアはわずかに頷いた。
◇
アルヴェイン領の別邸は、低い丘の上に建っていた。
王都の侯爵邸ほど大きくはない。淡い蜂蜜色の石壁に、深緑の屋根。正面には刈り込まれた木々が並び、その奥へ果樹園と庭園が広がっている。
馬車が鉄門をくぐる前に、護衛が門番の顔と名を確認した。
中庭へ入ってからも、リディアと私は馬車に残った。護衛隊長が玄関、客室、台所、裏口を見て回り、井戸水には先に銀の試験具を入れる。荷物はすべて封を確かめてから降ろされた。
出迎えた管理人ナタンは五十代半ばの、小柄で日に焼けた男だった。こちらが馬車を降りるまで、額に汗を浮かべたまま石段の下で待っていた。
「警戒が過ぎるとお思いかしら」
「いいえ、奥様。旅程が漏れたと伺っております。ご息女をお連れなら、当然のことでございましょう」
言葉にも顔にも、不快そうなところはない。
だからといって、すぐに信用する理由にもならない。
「滞在中、リディアへ近づく者は女中頭を通してください。王都から届く荷物は、差出人にかかわらず別室へ。私かベルタが確認するまで開けないこと」
「かしこまりました」
ナタンは質問せず、復唱してから女中頭へ指示を渡した。
少なくとも、命令を曖昧なまま飲み込む人間ではないらしい。
私たちは玄関広間を抜け、二階へ案内された。
「リディア様のお部屋は、東南の角にご用意しております。昨年、王都から細かなご指示をいただき、前任者が改装いたしました」
「王都の誰から?」
ナタンは廊下の途中で振り返った。
「教育係のコルネリア様を通じてございます。侯爵令嬢にふさわしい部屋にするように、と」
リディアが抱えた鞄の革が、きゅ、と鳴った。
私は歩調を変えなかった。
「当時の指示書と支出の記録を、あとで見せてちょうだい」
「すべて保管してございます」
廊下の突き当たりで、女中頭が両開きの扉を開けた。
最初に目へ入ったのは、白だった。
天蓋から垂れる薄布。毛足の長い絨毯。真珠色の壁紙。寝台を覆う刺繍布も、窓辺の長椅子も、わずかに色味を変えただけの白で統一されている。
銀の燭台。金箔を施した鏡台。硝子戸の飾り棚には、磁器の人形が三体、寸分違わず正面を向いて並んでいた。
高価なものばかりだ。
けれど、どれも七歳の子どもの手が届かない位置にある。
本棚には革装丁の本が十数冊並んでいた。背表紙を読むと、王家の系譜、礼式典範、古典詩集。絵本は一冊もない。
鏡台の抽斗を引く。中には何も入っていなかった。
小机にも紙や色鉛筆はなく、花瓶には水の代わりに絹の花が挿してある。玩具箱らしい箱を開けると、空の内側から樟脳の匂いだけが上がってきた。
「こちらで、お気に召さないところがございましたか」
女中頭が不安そうに尋ねた。
「いいえ。整えた方は、指示されたとおりになさったのでしょう」
汚すことも、動かすことも、続きを増やすことも想定されていない。
これは子どもの部屋ではない。
侯爵令嬢というものを飾っておくための部屋だ。
「リディア」
窓のそばに立つ娘を呼んだ。
「はい」
「あなたは、ここをどうしたい?」
リディアは一度、部屋全体を見回した。
「とても立派なお部屋です」
「立派かどうかではなくて、あなたが使うなら――」
「わたくしは、どれでも結構です」
きれいに揃った返事だった。
女中頭も、扉の外の侍女たちも待っている。ここで好きな色を尋ねれば、リディアは全員の顔を読み、いちばん困らせない答えを探すだろう。
私は部屋の模様替えを命じかけ、口を閉じた。
白を取り払い、明るい色に替えるのは簡単だ。だが、それではコルネリアの選択を私の選択で塗り潰すだけになる。
「ベルタ。荷物の中に、見本用の布があったわね」
「応接間の椅子を張り替えるためのものでしたら」
「使えそうなものを持ってきて。それから、この屋敷に子ども向けの本や小物があるか、女中頭に聞いてちょうだい。数も種類も揃えなくていいわ」
ベルタは私の顔を見て、小さく頷いた。
◇
半刻後、ベルタと女中頭が大きな盆と籠を抱えて戻ってきた。
「急ぎ、倉庫や使用人の部屋から集めてまいりました。少々、不揃いではございますが」
女中頭が気まずそうに盆を置く。
深い緑に草花を織り込んだ厚手の端切れ。端の色が褪せた薔薇模様の布。刺繍をほどいた跡が残る紺のリボン。
角の擦れた動物の絵本には、前の持ち主が描いたらしい小さな丸が鉛筆で残っていた。木彫りの小鳥は片方の翼だけ妙につやがあり、銅の水差しには落としてできたへこみがある。鍵をなくした銀色の小箱は、蓋を押さえていないと勝手に開いた。
屋敷で暮らす者が触り、使い、しまっていた物の匂いがした。
リディアは小机の前に座り、盆から籠へ、籠から端切れへと視線を移した。
「好きなものを決めなくていいわ」
「決めなくて、よいのですか」
「ええ。明日になれば嫌になるかもしれないし、全部違うと思うかもしれない。今日は、最初に試してみたいものを一つだけ選びましょう」
「試す……」
「布ならクッションを一つ作る。本なら今夜読む。小物なら、置く場所を一緒に考える。それだけよ」
リディアは卓上の品へ目を戻した。
薔薇の布を見て、扉のそばに立つ女中頭を見る。
銀色の小箱を見て、私を見る。
それから、緑の布に織り込まれた小さな葉へ顔を寄せた。
「これは、何の花でしょうか」
「私は布には詳しくないわ。庭師なら知っているかもしれない」
「庭師に尋ねても、よろしいのですか」
「もちろん」
リディアはしばらく葉の形を目でたどっていた。
「では……この布を、最初に試してみたいです」
「クッションでいい?」
「はい。窓の近くへ置けるものがよいです」
女中頭がすぐ布を持ち上げようとしたので、私は目で制した。
「リディア。あなたが渡してあげて」
リディアは椅子から降り、両手で緑の布を抱えた。
「お願いいたします」
「夕食までには仕立てさせます」
「いいえ、急がなくて結構です。明日で構いません」
女中頭が私ではなく、リディアへ返事をする。
「かしこまりました、リディア様」
リディアは布を渡したあとも、窓辺に残った。
重いカーテンの隙間から、午後の光が細く差している。
「開けてもよろしいですか」
「ええ」
リディアが紐を引くと、白い部屋へ一気に光が広がった。
窓の外には、幾何学模様に刈り込まれた庭園が見える。その向こう、石垣に近い一角だけ、低木と蔓草が好き勝手に伸びていた。
傾いた木柵の内側に、丸い石がいくつも並んでいる。荒れてはいるが、ただの空き地には見えない。
リディアは窓硝子へ触れそうなほど近づいた。
「お義母様。あそこだけ、庭の形が違います」
「そうね」
「何があった場所でしょうか」
問いかける声は、さきほどより少し速かった。
私は扉の外にいるナタンを振り返った。
管理人は窓の先を確かめ、日に焼けた顔へかすかな驚きを浮かべた。
「あちらは、長く使われていない薬草園でございます」
「薬草園……」
リディアの唇が、今度は誰の顔も確かめずにその言葉を繰り返した。
その名に、ゲームの記憶が引っかかった。
学園編の中盤、アイリスが温室で毒草の汁に触れ、倒れる事件がある。リディアの机から同じ葉を挟んだ植物図鑑が見つかり、彼女は幼いころから毒草を弄んでいた陰険な令嬢として糾弾された。
ゲームでは、リディアがその知識をどこで得たのかまでは語られない。
もし、この打ち捨てられた薬草園が始まりだとしたら。
荒れた柵の内側へ目を凝らす。毒草が今も残っているのか。それとも将来、誰かがあの場所を利用して、リディアの罪を作るのか。
隣で、リディアが窓から身を離した。
私やナタンの顔色を見比べることはしなかった。庭へ向けていた目をそのままに、少し早い声で尋ねる。
「明日、庭師の方に、あそこを見せていただいてもよろしいですか」
「何が生えているのか、自分で確かめたいです」




