第5話 遠足の作法
王都の外壁が見えなくなるころには、膝の上の旅程表へ最初の遅れが生じていた。
西門を抜ける商隊の荷車が一本の車軸を折り、道を塞いでいたのだ。私たちの馬車は予定より四半刻遅れて街道へ出た。
それだけなら、次の休憩をわずかに縮めれば取り戻せる。
昼食を取る宿駅。馬を替える場所。橋を渡る時刻。日暮れ前に到着する宿。
私は出発前、道程を細かく分け、安全な経路と雨天時の代替まで書き出していた。前世で舞台裏を預かったときも、予定どおりに進まなかった場合を先に考えておくのが習慣だった。
けれど今日、同じ馬車に乗っているのは、合図に合わせて動く役者でも使用人でもない。
窓辺に座ったリディアは、膝の上へ動物の絵本を開いている。先ほどから頁は一度もめくられていなかった。
視線だけが、窓の外を追っている。
街道の先に、羊の群れが見えた。
白や薄茶の塊が、春先の草地をゆっくり移動している。羊飼いの少年が杖を振り、牧羊犬が群れの外側を駆けていた。
リディアはそちらを見る。
それから私の膝にある旅程表を見て、絵本へ目を戻した。
「羊が気になるの?」
「いいえ」
返事が早すぎた。
「見ていたでしょう」
「馬車の窓に入りましたので」
「見たいなら、見たいと言っていいのよ」
リディアは口を閉じた。
馬車の揺れに合わせ、羊の群れが少しずつ後ろへ流れていく。
「……止まると、遅れますか」
しばらくして、ようやく尋ねた。
「少しは」
私は正直に答えた。
リディアの視線が、羊から旅程表へ戻る。ドレスの裾を握った指に、細かな皺が集まった。
「では……」
諦める言葉が続くのだと思った。
奥歯を噛む。
前世でも、予定の遅れを口にした途端、「大丈夫です」と痛みを隠した役者がいた。相手が口を閉ざす理由を先に並べておきながら、自分は希望を聞いたつもりになっていた。
窓の外で、羊の群れが後方へ流れていく。
リディアは一度唇を結び、それから顔を上げた。
「……それでも、見たいです」
消え入りそうな声だったが、馬車の軋む音に紛れず、私まで届いた。
馬車の天井を二度叩き、御者へ合図を送る。
「奥様?」
窓の外から、馬を寄せた護衛が声をかけてきた。
「護衛隊長に、近くで安全に停められる場所があるか確かめてもらって」
護衛は一礼し、前方へ馬を走らせた。
馬車はすぐには止まらなかった。
護衛の一人が先へ走り、見通しのよい草地と周囲を確認する。それから街道を外れ、低い石垣のそばへ三台の馬車を寄せた。
護衛隊長が扉を開ける。
「この先の橋は混雑しておりません。ここで四半刻休んでも、日暮れ前には宿へ着けます」
「ありがとう」
私はリディアへ向き直った。
「少し、外へ出ましょうか」
「はい」
リディアは絵本を閉じ、自分から扉のほうへ体を向けた。
草地へ降りると、風の中に土と乾いた草の匂いがした。
羊の群れは道の反対側にいる。触れられる距離ではないが、子羊の鳴き声や、首につけた鈴の音はよく聞こえた。
リディアは石垣の内側に立ち、じっと眺めている。
「近くで見ると、絵本より丸いのですね」
「毛が多いからでしょうね」
「あの小さい子は、何度も転んでいます」
坂を上ろうとする子羊が、短い脚を滑らせていた。
転んでは起き、また同じ場所へ挑んでいる。
リディアが声を立てて笑うことはなかった。ただ、羊を追う目から、王都にいたときの硬さが少しずつ消えていった。
四半刻が過ぎ、護衛隊長が戻る時刻を知らせに来る。
リディアは一度だけ名残惜しそうに草地を振り返り、自分から馬車へ向かった。
「お義母様」
「なに?」
「止まってくださって、ありがとうございました」
「あなたが見たいと言ったからよ」
「遅れてしまいませんでしたか」
私は旅程表を畳んだ。
「困るほどの遅れなら、私がそう伝えます。あなたが言う前から、諦める必要はありません」
「……はい」
馬車が街道へ戻ってから、リディアはようやく絵本の次の頁をめくった。
◇
日暮れ前、予定していた宿へ到着した。
王都と領地の中ほどにある、貴族や役人が利用するための宿泊所だ。周囲を石塀で囲まれ、馬車ごと中庭へ入れる。予約は二日前、侯爵家の家令を通して行っていた。
私たちの到着を待っていた宿の主人が、玄関前で深く頭を下げる。
「アルヴェイン侯爵夫人。お部屋のご用意は整っております。それから、リディア様へ王都からお届け物がございます」
護衛隊長の手が、腰の剣へ寄った。
「いつ届いたものですか」
「本日の第六鐘を少し回ったころでございます。お使いの方が馬でお持ちになりました」
私たちが王都を出てから、およそ二刻後。
騎馬であれば、休憩を挟む馬車より先に着くことはできる。
問題は、なぜこの宿を知っていたのかだ。
「届けた者の名は?」
「名乗りませんでした。王都のアルヴェイン侯爵邸からだと申して、こちらの印を」
主人が差し出した控えには、侯爵家の旅程連絡に使う印が写されていた。
本物によく似ているが、外周の一部がわずかに欠けている。蝋へ押した本物の印影から型を取り、複製したときに生じる欠け方だった。
旅程連絡印は、侯爵家の紋章印とは違う。王都邸の家令と執事、馬車の手配を担う者しか扱わず、季節ごとに意匠を替えている。外から紋章を見ただけで作れるものではない。
偽物だ。
しかも、最近使った本物を間近で見た者が作らせた偽物だった。
今朝の出立時刻だけではない。二日前に決めた宿泊先も、私たちが使う私印の形も漏れている。
王都邸の中に、情報を渡している者がいる。
アルベリクは、その内側に一人で残っている。これまで侯爵家の印を信用して開いた書状や、家令の名で回された記録の中にも、同じ偽物が混じっていたかもしれない。
そして、向かう先の別邸が安全だという保証も消えた。
「荷物には、誰も触れていないでしょうね」
「はい。お預かりしたまま、帳場の奥へ」
「部屋へ運ばず、まずここへ持ってきてください。包みに触れた者も知らせて」
宿の主人が慌てて指示を出す。
ほどなく、若い使用人が平たい木箱を運んできた。
宛名はリディア・アルヴェイン。
差出人の欄は空白だが、封には小さな花冠の印が押されている。
私はリディアをベルタとともに離れた場所へ下がらせ、護衛隊長へ箱を調べてもらった。針や粉、魔力の痕跡はない。
それでも部屋へは持ち込まず、人気のない談話室で開けることにした。
蓋の下には、薄い冊子が三冊と手紙が入っていた。
最初の頁を開き、すぐに筆跡へ見覚えがあると気づく。
コルネリアだ。
――身分に応じた言葉遣い。
――目下の者へ過度な親しみを見せないための心得。
――侯爵家の威厳を損なわない断り方。
題目だけなら、貴族の教師が扱うものに見える。
だが、例文は違った。
あなたのような方と、同じものを選ぶつもりはありませんわ。
親しくお呼びにならないで。立場をお忘れではなくて?
分を越えた望みは、身を滅ぼしますわよ。
ゲームの中でリディアがアイリスへ向けた言葉が、形を少しずつ変えながら並んでいる。
手紙には、茶会で十分に力を発揮できなかったリディアのため、領地でも学びを止めぬよう教材を送るとあった。
解任されたはずのコルネリアが、花冠の印を使い、偽の侯爵家印まで用意して宿へ先回りさせた。
彼女一人にできることではない。
「王都の旦那様へ、すぐに知らせますか」
ベルタが尋ねる。
「ええ。ただし、急報は二通に分けます。一通は侯爵家の早馬で、もう一通は護衛を一人、直接王都邸へ戻して届けさせて」
私は自分の筆記箱を開いた。
「どちらも私が書き、私個人の指輪で封じます。昨夜アルベリク様から受け取った委任状の末尾を合言葉として添えましょう。今後、旅程印だけで届いた知らせは信用しないようにと」
「承知いたしました」
「届けた者の人相、馬、出ていった方角を宿の者から聞き取ってください。明日以降の宿は変更します。行き先は出発直前まで、私と護衛隊長、ベルタ以外へ知らせないこと」
ベルタの顔から表情が消える。
「別邸へも、先触れを出しますか」
「アルベリク様の指示書を持つ護衛を一人だけ先行させます。私たちは別邸へ直接入らず、領境の砦で返答を待ちます。家令を含め、迎えに出る者の名をすべて確認してから動きます」
「冊子はいかがいたしましょう」
「すべて封じます。リディアの目には触れさせないで」
差出人が望んでいるのは、これまでと同じ言葉を娘へ繰り返させることだ。
この場で燃やせば、リディアへ届くことはない。
けれど、教材がこの宿まで追ってきた事実も、誰かが偽の印を使った事実も残らなくなる。
私は三冊を木箱へ戻し、侯爵家の封印を施した。
◇
夕食のあと、リディアは寝室の卓で絵本を開いていた。
教材のことは、王都から不審な荷物が届いたため調べているとだけ伝えてある。コルネリアの名を聞いたとき、抱えていた絵本が、かさりと小さな音を立てて震えた。リディアの視線は部屋の隅の暗がりへ逃げたが、何も尋ねなかった。
「今日は疲れたでしょう」
「いいえ。馬車の中で座っていただけですから」
また反射的な返事だ。
私は疲れていないと言い直させず、寝台脇の椅子へ座った。
「羊は、どうだった?」
リディアが顔を上げる。
「子羊が、何度も転んでいました」
「ええ」
「でも、何度も起きていました。あのあとは、坂を上れたでしょうか」
「きっと、上れたと思うわ」
寝室の卓には、宿が用意した便箋が一枚置かれていた。飾り罫だけが入った、何の言葉も書かれていない紙だ。
「使ってもよろしいですか」
リディアが尋ねた。
「何に?」
「今日のことを、書いてみたいです」
私は筆記具を用意した。
リディアは椅子へ座り直し、何度か筆先を紙へ近づけては離した。整った文章を考えているのかもしれない。
やがて、ゆっくりと一行を書く。
――今日は、羊を見たいと言えました。
文字は途中で少し曲がり、最後の点だけが濃くなっていた。
「おかしくありませんか」
「私に尋ねるの?」
リディアは紙と私を見比べる。
私は採点する教師ではない。けれど、今すぐそう言ってしまえば、それもまた私が与える正解になる気がした。
「あなたは、書き直したい?」
リディアは自分の文字を見つめた。
「……いいえ。このままがよいです」
言い切ったあと、リディアは自分の文字をもう一度見た。頬へ淡く色が差し、唇の端がほんの少し上がる。褒められるのを待つ顔ではなかった。曲がった一行ごと、自分のものとして抱えている顔だった。
「では、このままにしましょう」
紙を二つに折り、リディアが選んだ動物の絵本へ挟む。
閉じた絵本から、便箋の端だけが不器用にはみ出している。
私はその白い端を、指の腹でそっとなぞった。まだ乾ききらない最後の点が、灯りを受けてかすかに光っていた。




