第4話 悪役令嬢、遠足に出る
出発は、三日後の朝と決まった。
侯爵家の移動としては異例の早さだが、それ以上延ばせば、今度は王都側から予定を埋められる。
茶会の翌朝だけで、リディア宛ての招待状が五通届いた。
うち二通は、同年代の令嬢を集めた昼食会。残る三通は、礼法の見直しや子ども同士の仲直りを名目にした集まりだった。
「昨日の今日で、もう仲直りですか」
封筒を仕分けていたベルタが、差出人を確かめる。
「仲違いをしていないのに、ずいぶん気の早いことね」
「アイリス様へ非礼を働いたという話は、すでに出来上がっておりますから」
私は招待状をすべて断るよう命じた。
リディアが言いかけた言葉も、アイリスが見せかけた悲しみも、実際には最後まで成立していない。それでも王都の人々にとっては、幼い二人が本当に何を思っていたかより、語りやすい形へ整った噂のほうが都合がよいらしい。
侯爵令嬢が、平民街から迎えられた伯爵令嬢を見下した。
継母は娘の無礼を隠すため、教育係を追い出した。
娘の教育をめぐり、侯爵夫妻は対立している。
どれも事実ではない。
だが、一度広がった噂を一つずつ追いかけて否定していれば、こちらが王都を発つ時間を失う。
「必要な相手へだけ、アルベリク様の名で領地滞在を知らせます。それ以外には、返事だけで結構です」
「承知いたしました」
ベルタが招待状を箱へ戻す。
「お荷物はいかがいたしますか」
「領地で揃えられるものは、向こうで。馬車は私とリディアが一台、ベルタたちが一台。荷物用を一台と、護衛を六人」
「侯爵夫人のご移動としては、ずいぶん控えめでございますね」
「ご静養に、大行列は要りません」
「ご静養のつもりで、国境を越えるほどの荷をお持ちになる方もいらっしゃいますが」
ベルタの声は真面目だった。
「それでは、引っ越しと変わらないわ」
ようやく、彼女の口元がわずかに緩んだ。
◇
リディアの部屋では、三人の侍女が開いた衣装箱を前に立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
私が入ると、年若い侍女が困ったように頭を下げた。
「領地へお持ちになる品を、リディア様にお選びいただいているのですが……」
寝台の上には、絵本が六冊並べられている。
窓辺の卓には、髪飾りが四つ。人形が二体。色違いの肩掛けが三枚。
その中央で、リディアは両手を膝に置いたまま座っていた。
「どれも、持っていってはいけない物ではありません」
侍女の一人が優しく促す。
「ですから、お好きなものをお選びくださいませ」
「……皆さまが、よいと思うもので結構です」
返ってきたのは、いつもの答えだった。
好きな物を選べと言われても、リディアには選ぶための基準がない。自分の好みより先に、周囲が正しいと思う答えを探してしまう。
「少し、二人にしてもらえる?」
侍女たちを下がらせ、私は娘の隣へ腰を下ろした。
「たくさん並べられると、困ってしまうわね」
「申し訳ございません」
「謝らせたかったのではないの」
気をつけていても、言葉を向けるたびに謝罪が返ってくる。
自由に選ばせることさえ、この子にとっては新しい試験になるのだ。
私は寝台に並んだ本を三冊だけ手に取り、残りを端へ寄せた。
「好きなものではなく、馬車の中で最初に開いてみたいものを一冊だけ教えて」
「最初に……」
「選んだあとで変えてもいいし、途中で読まなくなっても構いません」
リディアは三冊を見比べた。
一冊目は、王国の歴史を子ども向けにまとめた本。
二冊目は、礼法を物語仕立てで教える本。
三冊目は、森に住む動物たちが冬支度をする絵本だった。
彼女の視線は、一度目から三冊目で止まっていた。それでも手を伸ばすまでには時間がかかった。
「……こちらでも、よろしいでしょうか」
指先が、動物の絵本へ触れる。
「ええ。もちろん」
「王国の歴史ではなくても?」
「馬車の中で試験をする予定はありません」
「礼法のおさらいも?」
「必要ありません」
リディアは絵本を両手で持ち上げた。
表紙には、丸々とした栗鼠が、自分の体より大きな木の実を抱えている。
「この栗鼠は、たくさん持っていくのですね」
「冬のあいだに食べるのでしょう」
「遠足には、お菓子も持っていってよいのですね」
昨日の話を覚えていたらしい。
「ええ。ただし、一度に食べる量はベルタと相談すること」
「はい」
今度の返事は、少しだけ速かった。
私は髪飾りや人形を示す。
「ほかの物は、今日決めなくてもいいわ。迷ったら箱ごと持っていきましょう」
「ですが、お荷物は少なくなさると仰っていませんでしたか」
先ほど廊下で聞いていたのだろう。
思いがけない反撃に、私は言葉を失った。
「……聞こえていたのね」
「はい。ごめんなさい」
「謝らなくていいの。そうね。では、箱は一つまでにしましょう」
リディアは絵本を抱えたまま、ほんの少し笑った。
作法どおりに整えた微笑みではない。私が困ったことを、少しだけ面白いと思った顔だった。
◇
出発までの三日間、アルベリクとは毎晩、短い報告を交わした。
初日の夜は、コルネリアの雇用記録を閲覧しようとしたところ、王妃付き女官の推薦を理由に、王宮内の確認が必要だと差し止められたという話だけだった。
二日目には、学園関係者から三件、リディアの教育を性急に変えないよう求める申し入れが届いた。どの申し入れも差出人は違うのに、「穏やかな導きへ戻す」という同じ言葉が使われていた。
そして出発前夜、アルベリクは日付が変わるころに私の部屋を訪れた。
手には、封蝋を施した二通の書面がある。
「一通は、領地の代官と別邸の家令への指示書だ。君とリディアの滞在に必要なものを、最優先で整えさせる」
「ありがとうございます」
「もう一通は、リディアの教育と身辺について、滞在中の判断を君へ委ねる書面だ」
私は二通目を受け取り、内容を確かめた。
新たな教師や侍女の選定。王都から届く招待への返答。学園準備に関する面会の許否。いずれもローゼリア・アルヴェインの承認なしには行えないと明記されている。
「ここまで必要だと思われたのですか」
「この三日間、王宮で私への圧力が日ごとに強くなった。初日は遠回しな確認だけだったが、今日は、君の判断が侯爵本人の意向に反するのではないかという問い合わせが七件だ」
アルベリクは疲れの滲んだ目で、書面を見た。
「紹介状の経路を調べようとしても、担当者が不在、保管庫の確認が必要、王妃付き女官の許可が要ると、行く先ごとに止められた。偶然とは思えない」
彼は封蝋へ目を落とした。
「私が曖昧にしてきたから、皆が侯爵家にはリディアのことで決定できる者がいないと思っている。まず、それを終わらせる」
前夜の約束を、彼は一つ行動へ変えた。
「コルネリアの紹介状については?」
「差出人の名は、王妃付きの上級女官だ。だが、その女官へ話を通した者が別にいる。紹介状の控えに、見慣れない花冠の印が押されていた」
「花冠……」
ゲームの題名が、頭をよぎる。
「王家の正式な印ではない。王妃が後援する慈善団体か、教育に関わる私的な集まりのものだろう。明日、王宮で確かめる」
だからアルベリクは領地へ同行できない。
王都に残り、こちらへ手を伸ばしている者の正体を調べなければならない。
「無理に急がないでください」
「君は、次に何をするかを見ると言ったではないか」
「急ぐことと、正しく調べることは別です。成果を急いで、また見たい答えだけを拾われては困ります」
アルベリクの顔から、わずかに残っていた弁解の色が消えた。
「……返す言葉もないな」
私は答えず、渡された書面の封印と署名をもう一度確かめた。
◇
出発の朝、空はよく晴れていた。
玄関前には三台の馬車と、護衛の騎馬が並んでいる。旅装に着替えたリディアは、小さな鞄を胸の前へ抱えていた。
「絵本は入りましたか」
ベルタに尋ねられ、リディアが鞄の留め具を確かめる。
「はい。ジャムクッキーも、ミルクの飴も入っています」
「飴は一日二つまででございます」
リディアは鞄の上へ指を二本立て、それから三本目をそっと添えた。
ベルタはその指を見て、鞄の留め具を整える。
「三つ目は、領地へ無事に着いた日のために取っておきましょう」
リディアは少し考え、三本目の指だけを折った。
アルベリクが玄関から出てくる。
昨夜よりも早く王宮へ向かう支度を整えていたが、私たちを見送るために時間を空けたらしい。
「道中、何かあれば領内の騎士を使え。二つ目の宿場までは、王都の護衛も同行させる」
「わかりました」
彼はリディアの前へ立った。
「気をつけて行っておいで」
「はい、お父様」
「約束した日までには、私も行く」
リディアは鞄を持ち直し、父親へ尋ねた。
「お仕事を、終わらせる日ですか」
「そうだ」
「忘れないでくださいませ」
「忘れない」
彼女は父親の袖をつかまなかった。
代わりに、小さく礼をする。その動作にはまだ、父娘の距離が残っていた。それでもアルベリクは寂しさを隠し、同じように頷いた。
私は先に馬車へ乗り、リディアへ手を差し出した。
「おいで」
「はい」
小さな手が重なる。
昨日よりも、ためらう時間が短くなっていた。
リディアが座席へ収まり、私も向かいへ座ろうとしたとき、門の外から馬の蹄が響いた。
一騎の使者が、護衛に止められている。
「アルヴェイン侯爵夫人へ、王宮から至急の書状です!」
アルベリクと視線が合った。
彼が使者へ近づき、身分証と封印を確認する。書状を受け取る前に、外包みの隅へ記された発出時刻を見て、表情を険しくした。
「どうなさいました」
「今朝、第四鐘のあとに王宮を出ている」
その時刻には、三台の馬車がすでに玄関前へ並び、荷物の積み込みが始まっていた。
三日間、正式な照会を送る時間はいくらでもあったはずだ。それをせず、こちらが出発できる状態になるまで待ってから、至急便を走らせた。
「遅れたのではないわ」
私は門の外へ視線を移した。通りの向かいには商家の荷車と、朝の往来を眺める何人かの姿がある。誰がこちらを見張っていたとしても、見分けはつかない。
「私たちが馬車へ乗る時刻を、確かめていたのね」
侯爵邸の中から漏れたのか。門前を見張る者がいたのか。どちらにせよ、こちらの動きは相手へ筒抜けだった。
アルベリクが声を落とす。
「ここで受け取れば、出立前に正式な照会を承知したことになる。返答するまで王都に残れと迫るための口実だ」
「受け取らなければ、王妃陛下の後援団体を無視したと言い立てられます」
拒絶しても、従っても、こちらを責める理由が残るように作られている。
アルベリクは使者の身分をもう一度確認したうえで書状を受け取り、自ら私へ差し出した。
厚い封筒の表には、私の名と、もう一つ見覚えのない名称が記されていた。
王妃陛下後援――花冠の会。
封蝋には、昨夜アルベリクが話したものと同じ、花を編んだ冠の印がある。
私はその場で封を切った。
書状は、丁寧な挨拶から始まっていた。
リディア・アルヴェイン嬢のお導きについて、事前の相談なく方針が改められたこと。
アイリス・フェルノア嬢との初見の席が、申し合わせた運びに至らなかったこと。
教育係コルネリアを解任した理由と、今後の両令嬢の交流について、七日以内に回答を求めること。
読み終えた私を、アルベリクが見つめている。
「どうする?」
私は書状を元の折り目に戻した。
「出発します」
「回答は」
「領地へ着いてから考えます。七日の猶予をくださったのでしょう?」
誰かが用意した予定を守るために、こちらの出発を遅らせるつもりはない。
「使者には、書状を受領したうえで予定どおり領地へ向かったと返答しておく」
「お願いします」
アルベリクが馬車の扉を閉めた。
車輪が動き、侯爵邸の門がゆっくりと後ろへ流れていく。
窓の外では、王都の屋根が朝の光を反していた。
隣に座ったリディアが、鞄の上から私の袖をそっとつまむ。
私はその手へ自分の手を重ね、膝の上の封筒を見た。
花を編んだ冠の印は、ゲームの題名を飾っていた紋様によく似ていた。九年後の学園でリディアを追い詰めるはずだった印が、今は七歳の彼女を王都へ引き戻そうとしている。
馬車が門を越えると、先ほどの使者がすぐに馬へ乗った。私たちの出発を報告するため、王宮の方角へ駆け戻っていく。
こちらが何時に荷を積み、誰を伴い、どの門から発つのかまで、相手は知っていた。
花冠の封蝋は、ただの警告ではない。
王都を離れても見失わないという、最初の通告だった。




