第3話 遅すぎた父親
フェルノア伯爵家の馬車が門を出てから、一刻もしないうちに、最初の手紙が届いた。
差出人は、茶会に同席していた子爵夫人だった。
封を開けば、流麗な文字で私の心労を案じたあとに、教育係を客前で解任するのはいかがなものかと続いている。最後には、リディアの今後を思えば穏便に収めるのが母の務めだと結ばれていた。
二通目は別の伯爵夫人から。
三通目は、今日の茶会にいなかった者から届いた。
「ずいぶん早いこと」
私は三通目を机へ置いた。
馬車で帰った貴婦人が着替えを済ませるより先に、出席してもいない者が事情を知り、私を諭す手紙を書いている。
「王都では、事実より噂のほうが軽いぶん、速く走りますから」
ベルタが新しい茶を注ぎながら答えた。
「どのような噂になっているの?」
「奥様が感情に任せて茶会を打ち切り、長年仕えた教育係を追い出したと。リディア様がアイリス様へ礼を失したため、奥様が先回りして騒ぎを起こしたという話もございます」
「あの子は、まだ何も言っていないわ」
「ですから、噂なのでございましょう」
ベルタの口調は変わらない。だが、ポットの蓋を戻す音だけが普段より硬かった。
机の上には、コルネリアから回収した革の帳面と、記録係が残した報告の写しがある。原本も預かろうとしたが、記録係はフェルノア伯爵家の所有物だと主張した。そこでベルタに立ち会わせ、その場で同じ文面を書き写させた。
もちろん、相手が素直に応じたわけではない。
茶会を終えた直後、記録係の女は帳面を胸元へ引き寄せ、フェルノア家の私物を侯爵夫人であっても検める権利はないと言い張った。
私は帳面の表紙を押さえたまま、ベルタへ筆記具を用意させた。
「ここはアルヴェイン侯爵邸です。我が家の娘について、我が家に無断で記したものを持ち出すというなら、原本を封じてお預かりします。フェルノア伯爵家へは、私から正式に抗議いたしましょう」
記録係はなおも帳面を離さなかった。
「それとも、記された内容をこの場の皆さまの前で、一頁目から読み上げたほうがよろしくて?」
その言葉で、ようやく指が緩んだ。
ベルタは私と家令の立ち会いのもと、一字も変えずに該当箇所を書き写した。記録係は写しが終わるまで椅子の横に立ち、唇を噛んでいた。
初見の席、予定の運びに至らず。
ローゼリア侯爵夫人の介入により中断。
リディア嬢への教え直しを急ぎ、次の席を設けること。
誰に提出する報告なのか尋ねても、女は答えなかった。
「旦那様は?」
「王宮から、こちらへ向かっておられます。先ほど使者が参りました」
噂がアルベリクの耳へ届くのも、早かったらしい。
「リディアはどうしているの?」
「隣室で休んでおられます。眠るのは嫌だと仰いましたので、絵本をお持ちしました」
応接間を出てからも、リディアは私の手を離さなかった。
部屋へ戻って着替えるときになって、ようやく指がほどけた。それでも一人で寝室にいるのを嫌がり、今は私の書斎に続く小部屋で、絵本を開いている。
頁をめくる音は、しばらく前から聞こえていない。
読んでいるのではなく、耳を澄ませているのかもしれなかった。
「扉を閉めましょうか」
ベルタが小声で尋ねる。
「……いいえ。このままで」
自分について大人が何を決めるのか、また閉じた扉の向こうで待たせることはしたくなかった。
◇
アルベリクが書斎へ入ってきたのは、空が夕暮れの色へ変わり始めたころだった。茶会が終わってから、すでに三刻近くが過ぎている。
濃紺の上着には、王宮から戻ったばかりだとわかる銀の飾緒がついている。いつもは乱れのない黒髪が、今日は額へ一筋落ちていた。
アルベリクは侯爵家の当主であると同時に、軍務院と法務院の共同執行権を預かる国政特裁侯爵でもある。裁判官の裁定を受けて彼が執行書へ署名すれば、王都の保全官から領境の関所まで動く。それほど多くの人間と書類を束ねる男が、自分の屋敷で娘へ渡された一冊の帳面を止められなかった。
「待たせた」
「いいえ」
私たちは机を挟んで向かい合った。
結婚して一年近くになるというのに、私たちが二人きりで話すのは、侯爵家の予算か招待客についてばかりだった。リディアのことも話した。ただし、教師の評価や学習の進み具合を確認するだけで、本人が何を感じているのか話したことはない。
アルベリクは椅子へ座らず、机の上の手紙へ目を落とした。
「王宮まで、ずいぶんな数の話が届いている。茶会を中断し、コルネリアをその場で解任したそうだな」
「ええ」
「事情を聞かせてくれ」
「噂を聞いて、政務を放り出していらしたのですか」
「放り出してはいない。今日の審議は副官へ引き継ぎ、明朝までの案件は王宮へ残してきた」
アルベリクは上着の内側から、二通の書状を取り出した。
一通は、コルネリアを侯爵家へ推薦した際の紹介状の写し。もう一通は、リディアが先月、父親へ送った手紙だった。
「二月ほど前から、リディアの手紙に同じ言い回しが増えた。私への近況ではなく、教育の成果を報告する文ばかりになっていた。コルネリアへ尋ねても、令嬢として成長したためだとしか答えない」
「不審に思っていたのですか」
「先週、家令へ雇用時の書類を集めるよう命じた。だが、証拠もなく教師を疑えば、かえってリディアを不安にさせると考えた」
彼は自分の言葉を噛みしめるように、一度黙った。
「王宮へ茶会の噂が届いたとき、やはり何かあったのだとわかった。だから戻った。もっとも、不審に思いながら今日まで確かめなかったことに、言い訳はできない」
私は革の帳面を彼の前へ差し出した。
リディアに暗唱させていた言葉。アイリスの問いかけと仕草。記録係が残した文面。自分が見たことだけを順に伝える。
アルベリクは途中で口を挟まなかった。
帳面をめくる指が、ある頁で止まる。
「アイリス嬢の動きまで書かれているのか」
「実際の茶会でも、このとおりになりました」
「フェルノア家と示し合わせていた?」
「マティルダ夫人は、アイリス嬢が貴族社会へ馴染むためだと認めました。どこまで承知していたのかはわかりません」
アルベリクは記録の写しも読み、ようやく椅子へ腰を下ろした。
「異常だ」
「ええ」
「だが、だからこそ、先に私へ知らせてほしかった」
予想していた言葉だった。
「知らせる間に、リディアは教えられた台詞を口にしていました」
「茶会を止めることには異論はない。コルネリアをリディアから離したことにもだ」
彼は帳面を閉じた。
「だが、客の前で正式な解任まで告げれば、相手は自分たちが責められたと受け取る。証拠を隠し、先に王家や学園へ訴えるかもしれない。侯爵家が感情で教師を追い出したという形を作られれば、リディアの将来にも響く」
声を荒らげてはいない。
侯爵として考えれば、彼の懸念は間違っていなかった。すでに届いた手紙が、それを証明している。
「では、あの場でどうすべきだったと?」
「体調を理由に茶会を終え、コルネリアを内々に外す。そのうえで帳面の出所を調べるべきだった」
「子どもたちに何もなかった顔をさせて?」
「そうは言っていない」
「同じことです」
机の上の封書を指で押さえる。
「あの場にいた大人は皆、リディアがアイリス嬢を傷つける言葉を待っていました。私が体調を理由に終わらせれば、次の席が設けられます。現に、そう記録されているでしょう」
「だからといって、社交界すべてを敵へ回す必要はない」
「では、いつ止めるのですか」
アルベリクの眉が寄った。
「今日をやり過ごして、調査が終わるまで? そのあいだにも、リディアは立派な令嬢になるためだと信じて、誰かを傷つける言葉を覚え続けるのですよ」
「ローゼリア」
「あの子は、そうすれば私たちに嫌われないと思っていたのです」
隣室から、紙の擦れる音がした。
一度だけ。
それから何も聞こえない。
私は声を抑えた。
「あなたが忙しいことは知っています。侯爵として果たすべき役目があることも、先の奥様を亡くしてから、リディアとどう向き合えばよいのかわからなかったことも」
アルベリクの顎がわずかに硬くなる。
「でも、それはあの子が一人で耐えてよい理由にはなりません」
「私が、耐えさせたと言いたいのか」
「私たちが、です」
あえて複数にした。
「私は亡きお母様の場所を奪いたくないという言葉に逃げ、あなたは教師へ任せておけば安心だと思った。その間に、あの子は大人が喜ぶ答えを探すことばかり上手になりました」
「私とて、リディアの将来を考えていた!」
アルベリクの声が初めて大きくなった。
「王宮であの子の立場を守り、学園へ入るまでに不自由がないよう整えてきた。教師も侍女も、最良と評判の者を選んだ。それを、何もしていないと――」
最後まで言い切る前に、隣室の扉が動いた。
細い隙間から、淡い金髪が見える。
「リディア」
私が呼ぶと、扉がもう少し開いた。
リディアは絵本を胸の前へ固く抱き、室内靴をきちんと履いて立っていた。足元は揃っているのに、靴の先だけが床の上で細かく震えている。大きく開いた青灰色の目は、私たちの言葉を一つも聞き漏らすまいとしていた。
「起きていたのか」
アルベリクが椅子から立ち上がる。
その動きに、リディアの肩が跳ねた。
彼はすぐに足を止めた。
「こちらへ来られる?」
私が尋ねると、リディアは私と父親の顔を交互に見た。
一歩。
また一歩。
慎重に床を踏み、私の椅子の脇まで来る。
「お話を、聞いてしまいました」
「聞かせたくない話ではありません。ただ、怖かったでしょう」
リディアは返事の代わりに、絵本の角を撫でた。
アルベリクが娘の前へ膝をつく。
「今日のことを、私にも教えてくれるか」
リディアはすぐには答えなかった。
父親の顔を見て、私を見る。正しい答えを探す癖が、また現れている。
私は口を開きかけ、やめた。
何を言えばよいかまで私が教えれば、コルネリアがしてきたことと変わらない。
絵本を抱く腕へ、さらに力が入った。
「わたくし……悪い子になりたかったわけでは、ありません」
「でも、コルネリア先生の言葉をきれいに言えると、先生は頷いてくださいました。皆さまに恥をかかせない令嬢になれると……」
言葉の途中で、リディアの視線が落ちる。
「お義母様にも、お父様にも、嫌われないと思って……」
最後の音が細くほどけた。
「最良の者を選んだ」と言いかけたアルベリクの口は、閉じたまま動かなかった。
喉が二度上下しても、言葉にはならない。議場では反対意見を即座に切り返す男が、七歳の娘の前に膝をついたまま、視線を落とした。
やがて彼は、右手の革手袋へ指をかけた。留め金を外す余裕もなく引いたため、手袋は皮が裏返るほど歪んだ。左も同じように脱ぎ、机の上へ置く。露わになった指には、爪の跡が赤く残っていた。
「リディア。すまなかった」
リディアが顔を上げる。
「おまえが何を教わり、どんな顔でそれを聞いているのか、私は見ようとしなかった」
アルベリクは一度言葉を切った。
「立派であることより先に、おまえには安心して笑っていてほしかった。本当はそう思っていたのに、何もしなかった」
「……怒って、いらっしゃいませんか」
「誰に?」
「わたくしに」
「怒っていない」
迷いのない返事だった。
「私が怒っているのは、知らなかった自分にだ」
リディアの睫毛に、涙が溜まる。
アルベリクは素手を膝の上へ伏せたまま、娘へ触れなかった。
リディアはしばらく動かなかった。
やがて絵本を片腕へ移し、空いた手で父親の上着の袖をつかんだ。
それだけだった。
抱擁にはならない。
けれど、今の二人には、その指先だけで十分だった。
◇
リディアを長椅子へ座らせ、ベルタに温かいミルクを持ってきてもらったあと、私は領地へ移る話を切り出した。
「しばらく、この子をアルヴェイン領の別邸で休ませたいと思います」
アルベリクはすぐには答えなかった。
「王都を離れれば、逃げたと見る者もいる」
「残れば、今日の続きを望む者が別の茶会を用意します」
「教育を止めるわけにはいかない」
「止めません。ただし、何を教わるかは一から確かめます。学園へ入るためではなく、まずこの子が安心して暮らすために」
アルベリクは娘を見る。
リディアは室内靴をきちんと揃え、膝の上の絵本へ両手を置いて話を聞いていた。
「リディアは、どうしたい?」
父親に尋ねられ、彼女は困ったように目を伏せた。
「わかりません……」
その答えを聞いても、誰も急かさなかった。
しばらくして、リディアが小さく続ける。
「領地へ行ったら、皆さまは、わたくしが逃げたとお思いになりますか」
「思う者はいるでしょうね」
私は嘘をつかなかった。
「でも、逃げることと、危険な場所から離れることは同じではありません。今は、あなたが何を好きで、何を嫌だと思うのか、それをゆっくり確かめる場所が必要です」
「好きなもの……」
「領地には広い庭も、川もあります。本を何冊持っていってもいいし、お菓子も選べます」
「ジャムクッキーも?」
「もちろん」
「ミルクの飴も、持っていけますか」
「ええ。遠足だと思えばいいわ」
口にしてから、この国では使われていない前世の言葉だったと思い出した。
「えんそく……? ご静養ではなく、ですか?」
「私が昔いたところでは、昼食やお菓子を持って、皆で景色を見に行く小さな旅をそう呼んだの。義務ではなく、楽しむための旅です」
「楽しむための……」
リディアは言葉の意味を確かめるように繰り返した。
それから父親を見た。
「お父様も、あとからいらっしゃいますか」
アルベリクは一瞬、答えに詰まった。
いつもの彼なら、政務が落ち着けばと答えただろう。
「行く」
今度は、はっきりと言った。
「仕事が終わるのを待つのではなく、終わらせる日を決めて行く」
リディアは、ほんの少し口元を緩めた。
「では、領地へ参ります」
それはまだ、自分の人生を選んだというほど強い言葉ではない。
けれど、誰かの顔色ではなく、庭と菓子と、あとから来る父親を思って出した答えだった。
アルベリクは立ち上がり、机の上の革の帳面を手に取った。
「コルネリアを侯爵家へ推薦した者を調べる。あの記録係が誰に報告するつもりだったのかもだ。雇用の書類と王都から届いた紹介状を、今夜中に確認する」
「ご自身で?」
「私が見落としたものだ。今度は私が見る」
「ありがとうとは、まだ申しません」
「わかっている」
「約束ではなく、次に何をなさるかを見ます」
アルベリクは机の上に裏返った手袋を見つめ、苦く息を吐いた。
「それでいい」
窓の外では、王都の灯りが一つずつ点り始めていた。
明日の朝には、今日より多くの噂が広がっているだろう。
アルベリクは出発の予定を書きかけ、娘へ紙を向けた。リディアは絵本を脇へ置き、父親の指す行を覗き込んだ。




