第2話 配役確認の茶会
東の応接間へ入った瞬間、目に入ったのは薔薇だった。
淡い紅色の花が、子ども用の小さな卓の中央へ飾られている。リディアの椅子から見れば、花瓶越しに向かいの客の顔を眺めることになる位置だ。対して、窓から差し込む光は客席へまっすぐ当たり、座る者の表情を明るく見せる。
主客の席を考えれば、不自然な配置だった。
菓子皿も同じだ。リディアの前には、侯爵家の紋章をかたどった硬い焼き菓子。向かい側には、花びらを砂糖で飾った薔薇の菓子が置かれている。
片方は家格を示し、もう片方は愛らしさを引き立てる。
リディアの部屋を出た直後、私はコルネリアから回収した革の帳面をベルタへ渡していた。茶会が終わるまで誰にも触れさせず、私が求めたときだけ差し出すよう命じてある。コルネリアは帳面を取り戻そうとはしなかったが、応接間へ向かうあいだ、一度も私の顔から目を離さなかった。
私は室内を見渡した。
招かれた貴婦人は三人。いずれも子どもの教育や慈善活動に熱心だと知られた者たちだが、今日は自分の娘を連れてきていない。壁際にはフェルノア伯爵家の侍女が二人、その少し離れた場所には見慣れない若い女が、小机へ帳面を広げて座っていた。
この王国では、諸侯の婚姻と相続だけでなく、慈善事業や王立学園への推薦まで、王宮書記局と各院の登録簿を通して管理される。署名と割印を得た一枚の紙が、貴族の口約束より遠くまで人を縛る国だ。
この帳面も、推薦の資料に使われるのかもしれない。娘の言動を書き留めるなら、提出先を先に確かめておく必要があった。
「あちらの方は?」
私が尋ねると、後ろを歩いていたコルネリアの返事が、わずかに遅れた。
「本日の記録を担当する者でございます。お二人のお付き合いを、今後お導きする際の参考にするために」
「どなたの指示かしら」
「フェルノア伯爵夫人と相談のうえでございます」
自邸で開かれる娘の茶会に、私の知らない記録係がいる。
これまでなら、教育のことはコルネリアへ任せているからと聞き流していただろう。そうして、知らないことを一つずつ増やしてきた。
「そう。では、あとで私にも見せてちょうだい」
若い女の肩がわずかに強張った。
私はそれ以上追及せず、リディアの手を取った。
娘の指先は冷たかった。
「お義母様……」
「私はすぐそばにいます」
「はい」
返事は聞き分けのよいものだったが、握り返す力は弱い。この子はまだ、私の言葉を信じてよいのか確かめている最中なのだ。
ほどなく、廊下から到着を告げる声が聞こえた。
「フェルノア伯爵夫人、ならびにアイリス・フェルノア様がお見えになりました」
扉が開き、栗色の髪をした少女が入ってくる。
淡い黄色のドレスに、真珠の髪飾り。華美ではないが、柔らかな色合いが少女の愛らしさをよく引き立てていた。
ゲームの画面で何度も見た顔より、ずっと幼い。
当然だ。あの物語が始まるのは九年後なのだから。
アイリスは部屋の中央まで進み、きれいな礼をした。ただし、頭を下げる直前に一度だけ、隣に立つマティルダ・フェルノア伯爵夫人の顔を見た。
夫人の指が、扇の柄を二度叩く。
それを見てから、アイリスは膝を曲げた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。ローゼリア様」
マティルダ夫人が微笑む。
彼女もアイリスとよく似た栗色の髪をしていた。血の繋がりはないはずだが、並んで立つと本当の母娘のように見えるよう、衣装の色まで揃えられている。
「ようこそお越しくださいました」
私は挨拶を返し、アイリスへ目を向けた。
「長い道中で疲れたでしょう。楽にしてくださいね」
「恐れ入ります。わたくしは、少しも疲れておりません」
答えは早かった。
それからアイリスは、またマティルダ夫人を見る。夫人がわずかに頷くと、ようやく息を吐いた。
礼儀を身につけたというより、一つ間違えるたびに何かを失うと思っている子の振る舞いだった。
リディアと同じだ。
「リディア。アイリス嬢へご挨拶を」
コルネリアが促す。
リディアの肩が上がった。
「アイリス様。本日は、アルヴェイン家へお越しくださり、ありがとうございます」
声音は硬い。それでも先ほど練習していた棘のある言葉ではない。ごく普通の挨拶を、自分で選んだのだろう。
私は口を挟まず、手袋に包まれた手を膝の上で重ねた。
「お会いできて嬉しいです、リディア様」
アイリスが答える。
二人の挨拶に、何の問題もない。
それなのに、貴婦人たちは笑みを保ったまま、次の言葉を待っていた。記録係の女も、まだ一文字も書いていない。
コルネリアが視線だけで給仕へ合図を送る。
茶が注がれ、薔薇の菓子がアイリスの前へ寄せられた。
「まあ、なんて可愛らしいお菓子でしょう」
アイリスが声を弾ませる。
だが、その目は菓子ではなく、マティルダ夫人の扇へ向いていた。
扇の先が、リディアを示す。
「リディア様は、どのお菓子がお好きですか?」
帳面にあったとおりの問いかけだった。
偶然ではない。
フェルノア家側も、この会話を承知している。
目の前を漂う紅茶の湯気が、ひどく冷たく淀んだように見えた。
けれど、アイリス本人が望んでいるとは限らない。少女は問いかけたあと、膝の上で両手を握り、返事を待っていた。期待ではなく、怯えが滲んでいる。
リディアの唇がわずかに開いた。
何も言わない。
卓の下で、ドレスの布だけが強く引かれている。
壁際のコルネリアが、顎をほんの少し上げた。
言いなさい。
先ほどの台詞を。
口に出さなくてもわかる、冷たい命令だった。
「あなたのような……」
リディアの声がかすれた。
その瞬間、アイリスは目を伏せた。
まだ傷つける言葉を聞いてもいないのに。
一拍置いて顔を上げようとする。帳面に記されていたとおり、悲しみを隠して微笑むために。
「そこまでです」
私の声に、アイリスの動きが止まった。
リディアも息を呑む。
私はカップを置き、子どもたちの間にある薔薇の花瓶を脇へ移した。互いの顔が、何にも遮られずに見える。
「リディア。その続きを言う必要はありません」
「ですが、お義母様。わたくしは、まだ……」
「何も失敗していません」
娘へそう告げてから、マティルダ夫人へ向き直る。
「アルヴェイン家の茶会は、幼い令嬢に哀れな仕草を披露させる場ではありません。傷つけられてもいないうちから目を伏せさせるとは、我が家を何の稽古場とお考えですの?」
アイリスの瞳が大きく見開かれた。
何を指摘されたのかわからない、という顔だった。やがて自分の仕草を見抜かれたと気づくと、彼女は慌ててマティルダ夫人を振り返る。
「ローゼリア様」
マティルダ夫人の声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「子どもたちが戸惑っておりますわ。初めての顔合わせですもの。大人があまり意味を持たせては、かえって緊張させてしまうのではなくて?」
「私も、ただの顔合わせだと思っておりました」
私は傍らに控えていた侍女頭のベルタへ手を差し出した。彼女は預けておいた革の帳面を、無言で私の手へ載せる。
「これを見るまでは」
帳面を開き、該当する頁を卓の上へ置いた。
マティルダ夫人の手袋に包まれた指が、扇の骨をきしませた。
アイリスは立ち上がって文字を見ようとしたが、付き添いの侍女に肩を押さえられた。強い力ではない。けれど、座っていなさいと教えるには十分だった。
「コルネリアの教育記録に、フェルノア嬢の問いかけと仕草まで記されていました」
私は室内の貴婦人たちを順に見る。
「先ほど、実際にそのとおりになりました。どなたか、理由をご存じ?」
扇が閉じられる小さな音が重なった。
誰も答えない。
「偶然でございましょう」
コルネリアだけが、平然と口を開いた。
「幼いご令嬢の会話には、よくある流れでございます。菓子について尋ね、気に入らぬ言葉に傷つく。教育に携わる者なら、十分に予測できます」
「傷つく言葉が出る前に、フェルノア嬢は目を伏せました」
「緊張なさったのでしょう」
「では、なぜあなたは先ほど、リディアへ続きを言わせようとしたの?」
完璧な仮面を貼りつけていたコルネリアの視線が、記録係の女へ一瞬だけ泳いだ。
「わたくしは、何も」
「顎を上げて合図をしましたね。あなたが稽古で使う合図なのか、あとでリディアからも確認します」
視線を移すと、リディアは不安そうにしながらも、小さく頷いた。
コルネリアの唇が細くなる。
私は帳面を閉じた。
「本日の茶会が、二人の子どもに自由に話してもらう場なら、ここからやり直しましょう。ですが、決められた言葉と表情を確かめるための会なら、これ以上続けることはできません」
「お待ちください」
マティルダ夫人が立ち上がった。
「これは、アイリスが貴族社会へ馴染むために必要なことなのです。あの子はまだ作法も、言葉の選び方も十分ではありません。周囲が少し助けることに、何の問題がございますの?」
「挨拶や食事の作法を教えることと、傷ついた顔をする時機まで決めることは別です」
「誰も、傷つけようなどとは」
「ならば、どうしてリディアには人を見下す言葉を教え、アイリス嬢にはそれを聞いたあとの表情を教えたのですか」
マティルダ夫人は答えなかった。
代わりにアイリスが、かすかな声を漏らす。
「わたしが……上手にできなかったからですか?」
マティルダ夫人の扇が止まり、茶器へ触れる者もいなくなった。
責められているのは大人たちなのに、失敗したのは自分だと思っている。
リディアが、向かいの少女を見た。
先ほどまで二人の間を遮っていた花瓶は、もうない。
唇が開き、閉じる。膝の上で握り合わせた手が動き、手袋の布が擦れる乾いた音を立てた。
コルネリアの顔を窺いかけて、途中でやめる。それでも言葉はなかなか出てこない。私は助け舟を出さず、娘が顔を上げるまで待った。
アイリスも俯かなかった。怯えた目のまま、リディアを見返している。
「……違い、ます」
リディアは息を継ぎ、もう一度手袋を握った。
「わたくしも、上手には……言えませんでした。でも、お義母様は、失敗ではないと……」
そこで声が途切れる。
アイリスの眉が、頼りなく寄った。
「だから……たぶん、アイリス様も、失敗ではありません」
最後の言葉は、卓の上へこぼれ落ちるほど小さかった。
覚えさせられたどの言葉よりも不格好で、礼法としても整っていない。それでも今、この子が自分で選び、怖さを押して口にした言葉だった。
「リディア様……」
アイリスの唇が震えた。
練習した微笑みは浮かばない。彼女は何かを言おうとして言えず、ただ一度、ぎこちなく頷いた。
コルネリアが一歩前へ出る。
「奥様。これ以上は、リディア様の教育に差し障ります。お二人には、改めて落ち着いた場を――」
「コルネリア」
私は彼女の言葉を遮った。
「あなたを、本日付でリディア付き教育係の任から解きます」
誰かの茶匙が、カップの縁へ硬く触れた。細い音が、静まり返った室内に長く残った。
「そのようなご判断を、旦那様のご不在中に下されるおつもりですか」
「侯爵家の女主人として、娘の身近に置く者を外す権限は私にあります。正式な書面は、アルベリク様にも確認いただいたうえで届けます。それまではリディアへの接触を禁じます」
「わたくしは、リディア様の将来を思って――」
「その将来に、本人の意思は含まれていますか」
「奥様は、今日までリディア様の教育をわたくしへお任せでした」
コルネリアは退くどころか、背筋をいっそう伸ばした。
「月ごとの報告にも目を通され、異を唱えられたことはございません。それを今日になって、一時のお心の揺れだけで害とお決めになる。方針を変えるたびに混乱を背負うのは、リディア様ご本人でございます」
反論より先に、月報の末尾へ自分で記した「承知しました」の文字が浮かんだ。
これまで任せきりにしてきたのは事実だ。記録を読んだつもりになり、娘の顔を見なかった責任まで、コルネリアへ押しつけることはできない。
「ええ。あなたへ任せたのは私です」
私は認めた。
「だからこそ、間違いに気づいた今、娘をあなたの手から引き取ります。私の不明は、あなたがこの子へ何を教えてもよい理由にはなりません」
「旦那様も、王都でリディア様のお立場を案じておられます。今日のご判断が何を招くか、いずれおわかりになるでしょう」
「その話はアルベリク様といたします。下がりなさい」
コルネリアは反論を止め、ゆっくりと居住まいを正した。
その顔に、職を追われた者の狼狽はなかった。むしろ、聞き分けのない子どもを見るような冷ややかさが宿っている。
「……承知いたしました。奥様が、そう仰せなのでしたら」
平坦な声が、耳にざらついて残った。
彼女はまだ、自分が退けられたとは少しも思っていない。
コルネリアが退出すると、私はマティルダ夫人へ向き直った。
「フェルノア夫人。本日のところは、これでお開きにいたします」
「ローゼリア様。どうか、お考え直しください。これはリディア様のためでもあるのです」
「でしたら次は、本人へ何をさせるのか隠さずお話しください」
「それは……」
「七歳の子どもを、誰かに嫌われるための位置へ座らせることを、私は教育とは認めません」
マティルダ夫人は何も返さなかった。
私はリディアへ手を差し出す。
「行きましょう」
「はい、お義母様」
小さな手が重なる。
応接間を出る直前、振り返ると、アイリスがこちらを見ていた。
マティルダ夫人の扇も、侍女の合図も確かめず、彼女は自分からほんの少し頭を下げる。
礼というより、ありがとうと伝えようとしているように見えた。
◇
「奥様」
廊下へ出たところで、ベルタが足を止めた。
彼女の視線は、まだ応接間に残っている若い記録係へ向いている。
「あの者の記録もご覧になりますか」
「ええ」
私たちは室内へ戻った。
若い女は帳面を閉じようとしたが、今度は見逃さない。私は小机の前に立ち、開いたままの頁へ目を落とした。
「待ちなさい。その記録も見せてください」
女の手が、表紙へ触れる寸前で止まった。
記されていたのは、子どもたちが口にした言葉ではなかった。
最上段に、今日の日付。
その下に、短い一行。
――初見の席、予定の運びに至らず。
さらに続けて、こう書かれていた。
――ローゼリア侯爵夫人の介入により中断。リディア嬢への教え直しを急ぎ、次の席を設けること。
私は頁の文字を見つめた。
今日の茶会だけで終わるなら、次の席など記す必要はない。
この者たちは、すでに次を用意している。




