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第17話 白い馬車は門前で止まる

 青い紐の木箱を送り出してから六日目、アルベリクの返書が届いた。


 夜明け前に別邸へ駆け込んできた早馬は、鞍の両側を白く泡立たせていた。乗り手も泥まみれで、ベルタが差し出した水を飲み干すまで、まともに口を利けなかった。


 三騎へ分けた青い紐の木箱のうち、王都へ到着したのは二箱。


 一つは、ラヴェル夫妻の手紙の写しを収めた本物だった。もう一つは、古い種の目録だけを入れた囮だ。


 空に近い箱を載せて西街道へ向かった使者だけが、予定日を過ぎても王都へ到着していなかった。どこで足止めされたのか、王都にいるアルベリクにはまだわからない。


『青紐の箱と、ラヴェル夫妻の書簡を確認した。受領日、訪問の日付、養女候補書の作成時期について、王宮法務院へ記録保全を請求している。西街道の囮便は到着予定を過ぎた。現時点では遅延か襲撃か判断できない。そちらでも帰路と街道沿いを確認してほしい』


 アルベリクの筆跡は、いつもより深く紙へ食い込んでいた。


『王妃私室局が、法務院を通さず「祝福児の緊急保護」を命じる動きを見せている。王妃の直命書そのものは本物であっても、未成年者の保護権を移す法的効力はない。私もアイリス嬢の引き渡しを命じていない』


 読み終えたところで、東の見張り台から鐘が鳴った。


 一度、間を置いて二度。


 武装した一団を知らせる合図だった。


 私は返書を折り、袖へ入れた。


「人数は」


「騎馬が十二。白い箱馬車が一台です。王宮書記局と神殿の旗を掲げております」


 報告に来た衛兵の靴には、朝露に濡れた草が貼りついている。


「門を閉じたまま、外の待合所へ通して。武器は門内へ入れない。旗を傷つけてはなりません」


「使者を門外に置かれるのですか」


「身元を確認できるまで、使者かどうかもわからないでしょう」


 ベルタはすでに廊下の侍女へ指示を飛ばしていた。


 リディアとアイリスは、施療所へ向かう支度をしている時刻だ。私は二人を北側居室へ戻し、窓掛けを閉じるよう命じた。マティルダはそのまま北棟から出さない。


「奥様」


 ベルタが低く呼ぶ。


「アイリス様には、何とご説明いたしましょう」


 何も知らせず閉じ込めれば、王都で受けた扱いと変わらない。


 私は自分で北側居室へ向かった。


     ◇


 卓上には、仕上がらなかった熱薬の札が広げられていた。


 アイリスは丸印を描き直し、リディアは割れにくい木の厚みを比べている。鐘の意味を知る侍女たちは、平静を装いながらも扉の近くを離れなかった。


「王都から、あなたを迎えに来たと主張する者たちが到着しました」


 アイリスの指から血の気が引いた。鉛筆を握ったまま呼吸を止め、次第に椅子まで細かく震え始める。


 隣にいたリディアが、何も言わず、その手を上から包んだ。自分も指先を強張らせていたが、離さなかった。


「帰らなければ、いけませんか」


「まだ決める段階ではありません。相手の書状を確認します」


「でも、王宮の人なら……」


「王宮にも、鍵を盗む者はいます」


 私はアルベリクの返書を見せた。ただし、行方不明の使者について書かれた部分は指で覆った。


「お父様の字です」


 リディアが先に気づいた。


「ええ。お父様は、あなたたちを渡せと命じてはいません」


 アイリスは何度目かの息をようやく吐き、リディアの手の下で鉛筆を横へ置いた。


「わたしが光ったら、連れていかれますか」


「光ったことを理由にしたい者はいるでしょうね」


 綺麗な慰めを返す気にはなれなかった。


「だから、大きな音や暗い部屋を用意していないか、こちらが先に確かめます。あなたはこの部屋にいて。何か聞こえても、廊下へ出ないこと」


 アイリスはすぐには頷かなかった。


「ローゼリア様は、戻ってきますか」


「話が済めば」


「もし、済まなかったら?」


 七歳の子どもが尋ねるには、重すぎる言葉だった。


 私は扉のそばに立つ侍女を見た。アルヴェイン家で二十年働き、ベルタが身元を保証した者だ。それでも、絶対という言葉は使えない。


「東階段を使って、セリマと一緒に施療所の地下貯蔵庫へ移りなさい。そこから薬草園の外門へ出られます」


「逃げるのですか」


 リディアが手帳を閉じる。


「逃がすための道を先に作っておくだけです。使わずに済むなら、それが一番よ」


 侍女へ合図すると、彼女は地下貯蔵庫の鍵を受け取りに下がった。


 私は横へ置かれた鉛筆を、札の隣へ戻した。


「戻ったら、続きの札を見せてちょうだい」


 それを約束と呼ぶには、アイリスの顔は強張りすぎていた。


     ◇


 別邸の東門には、来客用の待合所がある。


 狩りへ出る貴族が従者を休ませたり、商人の荷を検めたりするための建物で、門の外からしか入れない。屋敷側の扉は鉄格子で閉ざされている。


 王宮の使者を名乗った男は、その扱いに腹を立てていた。


「私は王宮書記局次官補、オルド・ケインである。王妃陛下のご意向を携えた者を、荷商人と同じ部屋へ置くおつもりか」


 四十代半ば。痩せた頬に、寸分の乱れもない髭。濃紺の上着には書記局の銀章があり、その横へ白い花冠の徽章を留めている。


「陛下のご意向ではなく、書状を携えていらしたのでしょう。まずは拝見します」


 私は鉄格子のこちら側へ座った。


 ケインは従者に命じ、革筒から羊皮紙を取り出させた。門番が長柄の挟み具で受け取り、銀盆へ載せる。ベルタは手袋をはめたまま封蝋と紙質を調べた。


 封には王妃の私印が押され、その脇へ王妃私室局の割印と、女官長の副署がある。


 ベルタが印影の登録簿と照らし合わせた。欠けの位置も、署名の癖も一致している。


 偽物ではない。


 だからこそ厄介だった。


 文面は、アイリス・フェルノアを「祝福の不安定化により本人および周囲へ危険を及ぼすおそれのある保護対象」と定め、王都の神殿施設へ移送するよう命じている。


 期限は即日。


 だが、法務院の事件番号も、保護官の副署もない。アルベリクの署名もなかった。


「法務院が発した保護命令を、併せて拝見できますか」


「王妃陛下の直命である。それ以上の権威が必要だと申すのか」


「権威の大小を論じているのではありません。これは王妃家政に属する直命書です。未成年者の保護権を移す裁定ではない」


 ケインが鉄格子の向こうで顎を上げた。


「祝福の暴発は王家の安寧に関わる。通常の法務手続きを待つ猶予はない。陛下の御名のもと、緊急保護を優先する」


 アルベリクが夜更けまで机に積み上げていた書類を思い出した。余白が一指分違うだけで差し戻し、割印がわずかにずれれば最初から作り直す。私は、あの融通の利かなさに何度腹を立てただろう。


 けれど彼の書類なら、誰が、どの法律に基づき、誰の身柄を、いつまで預かるかが一枚目から読めた。目の前の羊皮紙にあるのは、王妃の威光と「即日」の二文字だけだ。


 前世で、豪奢な小道具ほど客席の目を奪うことを知っていた。金箔を重ねても、扉の絵が本物の出口になるわけではない。


「王妃陛下の私的な保護要請として、謹んで拝受いたします。ただし、法務院の裁定なくアイリス嬢を引き渡すことはできません。現養母の意思も、本人の意思も確認されていない」


「マティルダ・フェルノア伯爵夫人の嘆願は、ここにある」


 次に差し出された紙には、たしかにマティルダの署名があった。


『娘を危険な侯爵夫人の支配から救い、神殿の庇護へ戻していただきたい』


 ベルタが紙を光へ透かす。


 署名は右下にある。しかし本文の最後の二行だけ、不自然に字間が詰まっていた。署名の位置へ文章を収めるため、書き手が無理に文字を小さくしたように見える。


「本人へ確認します」


「必要はない。署名がある」


「その署名があるから、確認するのです」


 私はベルタへ命じ、マティルダを連れてこさせた。


 ケインは待つあいだ、指輪の向きを何度も直していた。青い石が嵌め込まれた、神殿の術具らしい指輪だ。


 その後ろには、白い法衣をつけた神官が一人立っている。


 彼は先ほどから、細い銀の棒を掌の中で転がしていた。


 棒の先端には、小さな水晶が吊られている。


 水晶が銀棒へ触れるたび、耳の奥へ残るほど高い音がした。


「その術具を止めてください」


 神官は初めて私を見た。


「祝福の有無を測る振り子です。害はございません」


「測定を許可した覚えはありません」


「対象はここにはいないのでしょう?」


 また、水晶が銀へ当たる。


 鉄格子の向こうで、ケインの指輪が淡く青く光った。


 共鳴している。


「門番、その水晶を布で包ませなさい」


 ケインが立ち上がった。


「王宮の神官から術具を取り上げるというのか!」


「門内へ持ち込ませないだけです。それとも、その音を屋敷の中にいるアイリス嬢へ聞かせる必要があるの?」


 神官の手から動きが消えた。


 私はようやく、白い箱馬車の造りへ目を向けた。


 窓は厚い板で塞がれている。内側から開けるための取っ手も見えない。座席の下には、革帯の端が垂れていた。


 保護対象を迎える馬車ではない。


 暴れる者を縛って運ぶ檻だ。


     ◇


 マティルダは、護衛二人とベルタに伴われて待合所へ来た。


 鉄格子越しにケインを見た瞬間、歩みが鈍る。


「伯爵夫人。あなたの嘆願に従い、令嬢を迎えに参りました」


 ケインの声は、先ほどまでより柔らかかった。


 マティルダは差し出された嘆願書を読んだ。


 唇が一度動いたが、声は出ない。


「あなたの署名ですか」


 私が尋ねる。


「……私の字です」


「本文も、あなたが書いたの?」


 ケインが鉄格子へ一歩近づいた。


「夫人、よくお考えになってお答えを。フェルノア伯爵家の名誉が懸かっております」


 マティルダの爪が、手袋の布越しに掌へ食い込んだ。


「書いておりません」


 ケインの柔和な表情が剥がれた。


「この署名は……養女縁組のあと、何枚も書かされました。白紙の下へ署名だけを。アイリスに急な治療が必要になったとき、手続きを遅らせないためだと言われて」


「誰に書かされた?」


「女官長の補佐役です。名は、十二人の中に書きました」


「脅されているのだぞ、マティルダ」


 ケインが言った。


「侯爵夫人は、あなたと娘を拘束している。今ここで助けを求めれば――」


「では、あの馬車は何ですの」


 マティルダが彼を遮った。


 声は震えていた。


「窓もない馬車へ、アイリスを乗せるおつもりですか。あの子は暗いところを怖がると、あなた方は知っているでしょう」


 ケインは答えなかった。


 マティルダは私の側へ寄らなかった。鉄格子から二歩離れ、誰にも触れない場所で立ち尽くしている。


「私は、娘の神殿移送を願っておりません」


 その一言を言い終えるまでに、何度も息を継いだ。


 私は書記に、今の証言を時刻とともに記録させた。マティルダにも読み上げて確認させ、署名を求める。


 彼女はペンを持つ前に、ケインを見た。


 白紙へ署名したときの癖なのだろう。紙の下半分を指で押さえ、そこに文章があることを何度も確かめてから、自分の名を書いた。


「これで、嘆願の根拠はなくなりました」


「誘拐犯の屋敷で取られた証言に、何の価値がある」


「それを判断するのは、あなたではありません」


 私は最初の命令書を銀盆へ戻した。


「身柄を求めるのなら、法務院の裁定と、アイリス嬢本人への告知を整えてください。今度は窓のある馬車で」


 ケインの頬から、作り物の余裕が消えた。


 王妃の名だけで門を開かせ、審理が始まる前にアイリスを連れ去る。それが叶わないと悟ると、彼は従者へ短く顎を引いた。


「十四日後、王宮保護審問を開く。出頭しなければ、アルヴェイン侯爵家は王命への反逆を疑われることになる」


 従者が新たな封書を鉄格子の下へ置いた。


 今度の紙には受付番号があり、王宮法務院の割印もあった。


 先ほどの直命書とは違い、こちらには出頭を強制する法的な効力がある。


「承りました」


「令嬢を連れ、王都へ来ることだ」


「審問の対象と同行者は、法務院へこちらから照会します」


 ケインは返事をせず、外套を翻した。


 神官が銀の術具を箱へ収める。白い馬車の扉が開いた拍子に、内側の革帯が床へ落ちた。太い帯の先には、子どもの手首ほどの輪が二つ縫いつけられていた。


 ベルタがそれを見ていた。


 門番も、書記も、マティルダも見ていた。


 誰も言葉を発しないまま、扉だけが閉められた。


     ◇


 白い馬車が街道の向こうへ消えても、門はすぐには開けなかった。


 騎馬が引き返していないことを見張り台で確かめ、街道沿いへ斥候を出す。待合所に残された紙と椅子は、触れた者の名を記録してから別室へ運ばせた。


 北側居室へ戻ると、二人は施療所へ移らず、同じ卓の前に座っていた。


 机の上では、作りかけの札と鉛筆が、私が出ていったときの位置に残っていた。


「帰ったのですか」


「ええ」


「わたしを、連れていかずに?」


「今日は」


 その言葉に、リディアが私を見る。


 嘘で安心させなかったことを、褒められたとも責められたとも思わなかった。ただ、十四日後という期限が部屋の中へ一緒に入ってきた。


 私は本物の召喚状を卓上へ置いた。


「王都で、審問が開かれます」


 アイリスの周囲に、淡い光が滲んだ。


 リディアは、作りかけの木札を一枚、アイリスの前へ押した。


「この丸は、少し馬鈴薯に見えます」


「……はい」


「もう一度、描きますか」


 アイリスは召喚状を見たまま、鉛筆を拾った。


 光は消えなかった。


 私は二人を侍女へ任せ、召喚状を持って部屋を出た。


     ◇


 日の傾きかけた午後、西門から衛兵の怒号が上がった。


 駆けつけると、門番たちが一頭の馬を取り囲んでいた。腹まで泥にまみれ、右の後脚を引きずっている。鞍は片側が裂け、空になった荷袋から、灰色に汚れた青い紐が垂れていた。


 アルヴェイン家の焼印がある馬だった。


 西街道で消息を絶った、囮の木箱を運ぶ使者の馬だ。


 手綱には、乾きかけた血がこびりついていた。鞍上にも、鐙にも、人の姿はない。


「触れた者は?」


「最初に押さえた門番二名だけです」


「獣医を呼んで。荷袋も鞍も外さず、先に書記へ状態を記録させなさい。西街道へ捜索隊を出します」


 私は袖に入れていた召喚状をベルタへ渡した。


「審問まで十四日です。その前に、この馬に乗っていた者を見つけます。夜になるのを待たないで」


 門番が松明を集め、犬舎へ走る者がいた。門番が血のついた手綱を握るそばで、馬は荒い息を吐き続けていた。

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