第16話 薬師の古い木箱
十二人の告発書を三つに分けた第一陣は、すでに領境へ向かっている。昨夕には、ラヴェル夫妻の記録保全を命じた第二陣も、別々の門から王都へ送り出した。翌朝になっても、どちらからも返事が届くはずはなかった。
早馬でも片道に数日はかかる。こちらが焦ったところで、街道が縮むわけではない。
私は朝食の席で、ベルタから第一陣の三つの経路をもう一度確認した。最初の使者は侯爵家の公道を外れ、修道院の巡礼団へ紛れて北門から王都へ入る。二人目は領都の法務官へ、万一自分が戻らなかった場合にだけ開封する副本を預け、そのまま西街道を進む。最後の一人は宿場ごとに馬を替え、最短路を取る。三人の最終的な届け先は、いずれもアルベリクの執務室だ。
三人が運ぶ四名ずつの名と証言が揃って、初めて十二人分の告発書になる。使者には、自分が預かる四名以外の名を知らせていない。一通を奪われても、十二人全員が敵へ漏れることだけは防げる。
「どちらの隊にも、追手が出た場合は書状を守るより自分の身を守るよう申し含めてあります」
「それでいいわ。紙は書き直せます。証人は戻らないもの」
言いながら、窓の外へ目をやった。
雨上がりの庭では、下働きの者たちが折れた枝を集めている。空は明るいのに、濡れた地面だけが黒かった。
昨夜、私はほとんど眠れなかった。
アイリスの両親は本当に流行病で亡くなったのか。
薬師街の一軒が病に呑まれること自体は、珍しくない。患者に触れる仕事なら、なおさらだ。けれど、祝福を持つ娘だけが生き残り、〈花冠の会〉と縁の深い伯爵家へ引き取られた。その順序が、どうにも出来すぎている。
疑いだけで死者の最期を書き換えるつもりはない。
だから記録が要る。
誰かが燃やす前の、手垢と日付の残った記録が。
「お義母様」
リディアに呼ばれ、私は視線を戻した。
彼女の隣には、四角や丸に切った厚紙が並んでいた。朝食を終えたあと、さっそく薬瓶の札を考えていたらしい。
「赤い紙は毒草、青い紙は熱のお薬にしようと思います。でも、暗い場所では色がわかりにくいかもしれません」
「それに、紙は濡れると色が滲みます」
アイリスが、青い札の端を爪でそっと擦った。
「お父さんは、紐も変えていました。熱のお薬は二つ結び、咳のお薬は一つです」
「よく覚えているのね」
「お手伝いをしていましたから」
答えた声に誇らしさが混じった。しかし、すぐに口元を引き結ぶ。亡くした両親を自慢してよいのか、まだ確かめているようだった。
私は札を一枚取り上げた。
「紙の上だけで決めても、使う人に伝わらなければ意味がありません。施療所で確かめましょう」
リディアは自分の案を書いた手帳を閉じ、アイリスは色紙を重ねた。
何かを試すために席を立つ二人を見て、昨夜からこわばっていた顎の力が、ほんの少し抜けた。
◇
別邸の施療所は、東門のそばにある小さな石造りの建物だった。
怪我をした庭師や、熱を出した使用人を診るための場所で、週に二度は近隣の領民にも開放されている。
薬棚を預かる修道女セリマは、子どもたちが持参した札を机の上へ広げると、遠慮なく眉をしかめた。
「赤と青だけでは困りますね。蝋燭の火では、どちらも黒ずんで見えます」
リディアの背が固くなった。
手帳へ書き込もうとする鉛筆が、紙の上を急いで走る。
「それから、この丸い札は紐がほどけやすうございます。急いで瓶を取ると、隣の薬へ移ってしまうかもしれません」
リディアの文字がさらに小さくなった。
「セリマ」
私が名を呼ぶと、修道女は困った顔をした。
「申し訳ございません。あまりに率直すぎましたか」
「いいえ。使えない理由を聞きに来たのです。続けて」
リディアが顔を上げた。
叱責を止めてもらえると思ったのだろう。その目が、一瞬だけ迷う。
私は机の端にあった古い薬瓶を彼女の前へ置いた。
「直せるところを探しなさい。ここで一度も困らない札を作る必要はないわ」
リディアは唇を結び、セリマが外した丸札を見た。
「……紐を通す穴を、一つではなく二つにしたら、回りにくくなりますか」
「試してみましょう」
セリマが錐を取り出す。
アイリスは赤い紙と青い紙を裏返し、白い面に印を描き始めた。熱の薬には丸を二つ。咳の薬には細長い葉を一つ。
「色が見えにくくても、白い面の印なら読めます」
「瓶が棚の奥にあったら、札が隠れてしまいます」
リディアが棚の前へ立ち、腕を伸ばした。上段の瓶には指先も届かない。
「棚にも同じ印が必要です」
二人の案は、すぐには一つにならなかった。
リディアは札と棚の位置を揃えたがり、アイリスは瓶ごとに紐の結び方を変えたがった。セリマは、結び目が増えれば薬を補充する者が間違えると言う。
机の上は、穴を開け損なった札と、短く切りすぎた紐で散らかった。
リディアが薄い木札へ二つ目の穴を開けようとしたとき、錐の先が木目へ食い込んだ。小さく力を足した途端、札は乾いた音を立てて真ん中から割れた。
彼女は欠片を両手に載せたまま、唇を噛んだ。
「次は、穴を端から離しましょう」
セリマが新しい木片を差し出す。それでもリディアは、壊れた札をすぐには置けなかった。
隣では、アイリスが白い面へ熱薬の丸印を描いていた。ひとつ目は縦長になり、二つ目は下が膨らんだ。
「これでは、丸というより馬鈴薯ですね」
セリマに言われ、アイリスは紙と修道女の顔を見比べた。笑ってよいのかわからず、眉だけが困った形になる。
「畑のお薬に使えるかもしれません」
リディアが割れた木札を握ったまま言った。
冗談のつもりではなかったらしい。セリマが口元をほころばせると、アイリスも少し遅れて、歪んだ丸を指で隠した。
次に試した太い紐は穴を通らず、細い紐は結んだ端から抜けた。棚へ同じ札をつけようとしても、上段へ腕が届かない。踏み台を持ってくれば、今度は薬を急いで取る邪魔になる。
リディアの手帳には、案よりも取り消し線のほうが増えていった。
昼の鐘が近づくころ、割れた木片をリディアが二つ並べ、その隙間へアイリスが赤い紙を挟んだ。たまたまできた角張った形を、セリマが薬棚の暗がりへ持っていく。
「これなら、指で触れても毒の札だとわかります」
二人は顔を見合わせ、それから机に残った木片でもう一度作り始めた。
熱と咳の札は、結局その日には決まらなかった。毒を含むものだけは四角い木札へ赤い紙を挟み、棚の扉にも同じ札を下げて、鍵をつけることになった。
「赤い花の薬と間違えないよう、毒の札には角を作ります」
リディアが四角い木片を選ぶ。
アイリスは、その角の内側へ短い線を四本引いた。
四角の中に、閉じ込めるような線。
アイリスが本の便箋へ忍ばせた、助けを求める印と同じ形だった。
「その印も、ご両親から教わったの?」
アイリスはすぐには答えなかった。鉛筆を置き、四角い札の上で人差し指を何度も往復させる。
「白いお花をつけた、背の高い人たちが、お店へ来たことがあります」
「その人たちが、この印を?」
「わかりません」
彼女は首を振った。
「わたしは奥へ行きなさいと言われました。戸の隙間から、お父さんがお母さんの手を握っているのが見えて……紙に、これを何度も描いていました」
そこで言葉が途切れた。アイリスは自分の指を握り、思い出した順に拾うように続けた。
「お母さんは泣いていました。その夜、青い紐の箱に、紙を入れて……種も入れたかもしれません。暗かったから、よく見えませんでした」
私は木片を受け取った。
四角の内側に四本の線。
古い薬師が使う、監視や拘束を知らせる隠語。オズワルドは以前、そう説明した。
「青い紐……」
セリマが小さく繰り返した。
「何か心当たりが?」
「私ではございません。ただ、クラウディア様のお荷物に、そのような木箱があったと聞いたことがございます」
亡き前妻、クラウディア。
薬草園を作り、王都の薬師から苗や種を取り寄せていた人。
「誰から聞いたの」
「オズワルドです。古い種箱を整理するたび、青い紐だけは捨てるなと」
◇
オズワルドは薬草園の南端で、折れた支柱を立て直していた。
青い紐の木箱について尋ねると、日に焼けた額へ深い皺が寄った。
「たしかにございました。ですが、中身は種ではなかったはずです」
「どこにあるの?」
「奥様がお亡くなりになったあと、薬草園の帳面と一緒に西倉へ移しました。去年のことでございますが、あのころは屋敷中が取り込んでおりましたから……湿気にやられていなければよいのですが」
オズワルドは泥のついた上着を脱ぐ間も惜しみ、倉の鍵束を取りに走った。
私は子どもたちを居室へ戻そうとしたが、アイリスは動かなかった。
「箱を見たいです」
頼む声ではなかった。
両親の残したものがあるかもしれない。その可能性を前に、七歳の子どもへ聞き分けのよさを求める気にはなれなかった。
「倉の外で待つこと。埃のあるものには触れない。それが条件です」
アイリスは頷いた。
リディアもついてくるつもりで手帳を抱えていたので、同じ条件を言い渡した。
西倉には、使われなくなった家具と農具が押し込まれていた。
オズワルドと倉番が木箱を一つずつ通路へ出す。薬草園の帳簿は三箱に分かれ、年ごとの順番も崩れていた。雨漏りした跡があり、底の紙が貼りついている箱もある。
一つ目には、乾燥させた球根と領内の収穫記録。
二つ目には、クラウディアが薬草園を作ったころの支払証と、苗の送り状。
青い紐が見つかったのは、三つ目の底だった。
紐は灰色に褪せ、蓋の角には黴が浮いている。
アイリスが倉の入口で、短く息を吸った。
「これです」
オズワルドが布で表面を拭い、錆びた留め金を外した。
中には、薄い木札と、蝋紙に包まれた手紙が数通入っていた。種はない。
差出人の名を見たアイリスが、倉の柱へ片手をついた。
マリウス・ラヴェル。
エルナ・ラヴェル。
「お父さんと、お母さんです」
私はその場で手紙を開かなかった。
オズワルド、倉番、ベルタを呼び、箱が見つかった位置と状態を確認させる。二人の子どもには、封を切るまで少し離れているよう告げた。
蝋は一度も割られていなかった。
表書きに残った別邸の受領日は、クラウディアが亡くなる四日前だった。すでに病床から起き上がれず、届けられた手紙を開くこともできない時期だ。
そのまま主を失い、薬草園の帳面とともに西倉へ移されたのだろう。
ベルタが細い刀で封を切る。
中の紙は湿気を吸って波打っていた。筆跡もところどころ滲んでいる。
それでも、日付は読めた。今から、ほぼ一年前だった。
アイリスの両親が流行病で亡くなったとされる、十二日前。
『先日、白花の徽章を佩びた方々が再び参りました』
書き出しの次の行は、水染みで半分消えている。
『娘の光を祝福と定め、神殿にて調べると――』
『我らはお断りいたしました。あの子は病人を照らすための灯ではなく、まして、貴族家の誉れを飾る品でもございません』
紙の右端が大きく破れ、その先はなかった。
最後に残っていたのは、クラウディアへ助けを求める一文と、四角の中へ四本の線を引いた印だった。
アイリスが、倉の外からこちらを見ている。
「何と書いてあるのですか」
すべてを今すぐ読み聞かせることも、何もなかったように隠すこともできた。
私は破れた手紙を蝋紙へ戻した。
「あなたのご両親が、あなたを渡すことを拒んだと書いてあります」
「誰に?」
「白い花の印をつけた者たちに」
アイリスの唇が開き、音にならないまま閉じた。
やがて彼女は、胸元に下げていた小さな布袋を握った。両親の家から持ち出せた、たった一つの薬匙が入っている。
「お父さんたちは、わたしを、いらないと言わなかったのですね」
「ええ」
それ以上の言葉は、私の役目ではなかった。
アイリスは泣かなかった。布袋を握ったまま、何度も浅く頷いた。
隣に立つリディアは、慰めの文句を探さなかった。ただ、自分の手帳から今朝作った四角い札を外し、アイリスへ差し出した。
アイリスはすぐには受け取れず、しばらくその札を見ていた。
私は二人をセリマに託し、施療所で札の続きを作るよう頼んだ。これからマティルダの口から何が出るにせよ、アイリス本人に聞かせるべき話ではない。
◇
白花の徽章をつけた者が訪れ、ラヴェル夫妻が娘を渡すことを拒んだ。その手紙が書かれてから十二日後、夫妻は流行病の死者となり、残された娘だけが〈花冠の会〉の息がかかった家へ引き取られている。
私はベルタへ、マティルダを記録室へ連れてくるよう命じた。
彼女は今回も、アルヴェイン家の護衛二人に挟まれて現れた。机上の差出人名を見るなり、足取りが乱れる。
「この名を知っているわね」
「……存じません」
「では、なぜ読む前に顔色を変えたの」
マティルダは椅子へ座ることも許されず、机の前に立っていた。視線だけが、手紙と扉の間を往復する。
「アイリス嬢の養子縁組に際して、実親の死亡証明を見たはずです」
「手続きは家令が行いました」
「その家令の名は、先日あなたが書いた十二人の中にある」
マティルダの呼吸が乱れた。
「もう一度だけ聞きます。ラヴェル夫妻を知っていた?」
「名前だけです」
「いつ知ったの」
沈黙が長引いた。
私は手紙を片づけるようベルタへ目配せした。
「お待ちください」
マティルダが声を上げる。
「養女の候補書に……その名がありました」
「夫妻が亡くなったあと?」
答えはない。
「日付を言いなさい」
「流行病が出る、ひと月ほど前です」
記録室で、誰も動かなかった。
アイリスが孤児になる前から、養女の候補にされていた。
頭の中から、余計な音が消えた。
「候補書を作った者は」
「署名はありませんでした。王妃付き女官長の執務室で渡されました。私どもは、祝福を持つ子を迎えれば、王家との縁を得られると……そう説明されて」
「それで、両親が生きている子を養女候補として受け取ったのね」
「病が広がれば、薬師は長くないと」
マティルダはそこで、自分が何を口にしたのか気づいた。
「誰がそう言った?」
「覚えておりません」
「昨日も同じ言葉を聞きました」
私はベルタへ記録を命じた。
「思い出すまで、北棟から出さないで。食事と医師はこれまで通り。アイリス嬢との面会は、私かベルタの立ち会いがあるときだけにします」
マティルダは抗議しなかった。
護衛に連れられていく背中は小さく見えたが、憐れむ気にはなれなかった。
マティルダを追い込んだ者たちがいる。家を人質にされ、命令へ背けばアイリスまで奪うと脅されたのも事実だろう。それでも彼女は、生きている両親から子どもを奪う書類を受け取り、利益を得ようとした。
ベルタとオズワルドに発見時の証言を書かせ、手紙と木箱を別々に封じた。原文の写しは三部。一部は別邸の金庫へ、もう一部は領都の修道院へ預ける。最後の一部だけをアルベリクへ送る。
「同じ使者は使わないで」
「承知いたしました」
「それから、空の箱を二つ用意して。封蝋も同じものを」
ベルタは理由を尋ねなかった。
夕刻までに、青い紐を結んだ輸送用の木箱が三つ整えられた。手紙の写しを入れたものが一つ、古い種の目録だけを詰めた囮が二つ。原本と古い木箱は、別邸の金庫へ残した。廊下には別々の運び手を立たせ、出発時刻もずらす。
最初の馬が門を出たあと、私は記録室へ戻った。
机には、証拠箱から外した古い青紐が残されている。指で持ち上げると、褪せた繊維が一本、音もなく切れた。
ラヴェル夫妻が生き、娘を手放すまいとしていた時点で、王妃付き女官長の執務室には「養女候補」の書類があった。流行病が始まるひと月も前から、誰かがアイリスを孤児として迎える先を用意していた。
私は書記を呼び戻し、調書の末尾へその二つの日付を並べて記させた。
病が偶然だったと言い張る者にも、この順番までは消させない。
二騎目が石門を抜ける蹄の音を聞きながら、切れた青い繊維を証拠袋へ入れ、封蝋を押した。




