第15話 ジャムクッキーは半分こ
嵐で落ちた果実は、待ってくれない。
別邸の厨房では朝から、傷の浅い苺と木苺を選り分け、大鍋でジャムを煮ていた。
「このままでは三日で傷みます。砂糖煮にしても、保存瓶が足りません」
料理長の報告を受け、私は領内の施療所と修道院へ半分を回すよう指示した。残りは使用人たちの食卓と、焼き菓子に使う。
その話を聞いたリディアが、厨房へ入ってよいか尋ねてきた。
「傷薬の区画だけでなく、実のなる木を薬草園へ植えられるか確かめたいのです」
北側客間で朝食を終え、アルヴェイン家の監視役に付き添われていたアイリスも、廊下まで流れてきた甘酸っぱい匂いに足を止めた。
「お父さんとお母さんが、生きていたころの匂いがします」
本人は独り言のつもりだったらしい。言ってから、マティルダの顔を窺った。
客間の扉の内側にいたマティルダは、すぐに返事をしなかった。廊下には、彼女を北側棟の外へ出さないための護衛が立っている。
「行っていらっしゃい」
ようやく出た声は、昨夜よりも弱かった。
アイリスは次に私を見た。私は厨房での決まりを守ることと、監視役の侍女が同行することを条件に許可した。
◇
厨房の中央へ、子ども用の低い作業台を置かせた。
熱い天板と竈には近づかない。生地を伸ばし、型を抜き、冷ましたジャムを載せるところまで。焼く作業は料理人が引き受ける。
料理長が見本を一枚作った。
丸く抜いた生地の中央を窪ませ、赤いジャムを小匙一杯。縁の厚みは、指の半分ほど。
「では、どうぞ」
リディアは最初の生地を量り、二つ目も量った。
三つ目を丸めたところで、隣の二つと大きさを比べ、ほんの少しちぎって戻す。型を抜いたあとの縁に割れ目を見つけると、その生地は使わず、最初から丸め直した。
一方、アイリスは見本より少しだけ斜めに窪みを作った。
ジャムも中央からわずかにずらす。生地の端へ、爪楊枝で小さなくぼみを二つつけた。
「それは何の模様?」
私が尋ねると、アイリスは料理長の顔を先に見た。
「失敗しても、笑っているお顔に見えるようにと教わりました」
「誰に?」
「お菓子のお稽古の先生です。上手すぎると、可愛らしくないから……少しだけ失敗したように作るのです」
料理長が持っていた小麦粉の袋を、音を立てずに台へ置いた。
リディアは秤の細い針を凝視していた。生地が目盛りをわずかに越えるたび、つまむ指先へ力が入り、爪の際が白くなる。
アイリスは爪楊枝で歪んだ線を引くたび、料理長と私の表情を盗み見た。誰も笑わないと、もう一本、口元らしい線を足そうとする。
「愛されるための失敗、などという細工は、この厨房には必要ありません」
アイリスの爪楊枝が、生地の上へ伏せられた。
「まずは焼いてみましょう。ジャムの量や厚さは、食べてから変えればいいわ」
最初の天板が埋まるころ、リディアの手元に、不格好な生地が一つ残った。
何度も丸め直したため、表面が乾き、縁も裂けている。
「こちらは焼かなくて結構です」
アイリスも、ジャムを入れすぎた一枚を脇へ避けた。
「これは、可愛くなりませんでした」
「二枚とも焼いてください」
私が言うと、二人がこちらを見る。
「ですが、形が」
「生焼けにならない厚さなら、食べられるのでしょう?」
料理長へ確かめる。
「はい。ジャムの多いほうは少々焦げるかもしれませんが」
「では、別の天板へ。私のお茶へ添えてちょうだい」
リディアの眉間に、薄い皺が寄った。
「お義母様がお慰めのために召し上がる必要はありません」
「慰めではないわ。嵐の中で拾った苺と、小麦と砂糖を捨てないためです」
「美味しくなかったら?」
「そのときは、美味しくないと言います」
アイリスが、笑顔のくぼみをつけた生地を見下ろした。
納得はしていない顔だった。
◇
焼き上がった不格好な二枚は、見本より濃い色をしていた。
リディアの生地は縁が割れ、アイリスのものは溢れたジャムが天板へ張りついている。
私はまず割れたほうを食べた。
表面は少し硬い。けれど、中は香ばしく、焦げる一歩手前の小麦の匂いがした。
「どうですか」
リディアが尋ねる。
「硬いわ。お茶が必要ね」
リディアは叱られたような顔になった。
「でも、嫌いではありません。次に作るなら、丸め直す回数を減らしたほうがよさそう」
今度は、ジャムの溢れた一枚を割る。端は苦かったが、中央には果実の酸味が強く残っていた。
「こちらは端が焦げています。真ん中は美味しいわ」
「全部を、美味しいとおっしゃらないのですか」
アイリスが聞いた。
「焦げたところまで褒めたら、次も焦がすでしょう」
二人は顔を見合わせなかった。
ただ、それぞれ自分が避けた生地の焼き上がりを、もう一度確かめた。
次の生地を前にしても、すぐ自由にはならなかった。
リディアは二度量り直したあと、三度目だけ秤へ載せずに丸めた。隣の生地よりわずかに大きい。
アイリスは笑顔のくぼみを作りかけ、爪楊枝を置いた。代わりに、生地の中央へ大きすぎる丸を一つ押す。
「薬壺です」
「蓋がありません」
リディアが言う。
「焼いたあとで描こうと思いました」
「何で?」
アイリスは答えに詰まった。
リディアは手帳を開き、薬壺の絵を探す。生地の横で二人が頁をめくり始めたため、料理長が焼成の順番を書き直すことになった。
「蓋は、細い生地を載せればよいのではありませんか」
「焼くと取れませんか」
「わかりません」
「では、一つだけ試します」
薬壺は焼く前から少し傾いていた。
リディアは葉の形を作った。葉脈を細く入れすぎ、天板へ移すときに先端が欠ける。
欠けた部分を直そうとして、生地へ触れる。
それから私の皿に残っている、縁の割れたクッキーを見た。
指を離す。
「このまま焼いてください」
◇
三度目の天板を待つあいだ、二人は余ったジャムを見比べていた。
「木苺は、喉のお薬にも入れます」
アイリスが言った。
「ジャムを薬にするのですか」
「ジャムより、もう少し苦いものです。お父さんが煮て、お母さんが瓶へ紙を貼っていました。咳の人と、熱の人で、違う色の紙です」
「字ではなく、色で分けるのですか」
「字を読めない人も来ていたから」
ゲームでは、アイリスの両親について、流行病で亡くなった町の薬師としか語られなかった。
主人公が孤児である理由。それだけの背景として、一枚の説明画面で終わる。
だが、目の前の子は、薬瓶に貼られた紙の色まで覚えている。平民街で頼られ、患者を抱えていた薬師夫婦が死んだ直後、光の祝福を持つ娘だけが都合よく見いだされ、フェルノア家と〈花冠の会〉の手へ渡った。
偶然だと言い切れるのか。
祝福を持つ身寄りのない少女が必要だったのなら、会にとって、両親の存在は邪魔だったのではないか。
証拠はない。だからこそ、流行病の患者台帳、二人の死亡届、アイリスの祝福を最初に報告した者を調べなくてはならない。
喉元まで上がった問いを、今ここでアイリスへ向けるわけにはいかなかった。
リディアは手帳を引き寄せ、何かを書いた。
「薬草園の札にも使えます」
「毒の草は赤でした」
「赤い花と間違えると言われました。色と形を両方変えます」
アイリスは手帳の余白を見ていた。
「わたしも、薬のことを習いたいです」
「光の魔法ではなく?」
「光は、どうすれば出るのか、まだよくわかりません。薬は、葉と根を見れば、少しわかります」
アイリスは指についた小麦粉を払った。
「お父さんとお母さんみたいに、お薬を作れるようになりたいです」
「わたくしは、その薬を探しやすい庭にしたいです」
リディアの返事は早かった。
言ってから、彼女は私を見た。
私は頷かなかった。代わりに、卓上の手帳を指す。
「忘れないうちに書いておいたら?」
リディアは自分で頁を開いた。
そのとき、竈番が焼き具合を確かめ、鉄の扉へ掛け金を下ろした。厚い鉄同士がぶつかる音が、石壁に跳ね返った。
アイリスの椅子の下から、白い光が噴き出した。
作業台の脚を伝い、床の目地を走る。銅鍋が一斉に照らされ、壁へ鋭い反射を投げた。
「動かないで」
私は厨房へ命じた。
包丁を持っていた料理人は台へ置き、竈番は火から距離を取る。誰もアイリスへ駆け寄らない。
光は数呼吸で薄れた。
「ごめんなさい」
アイリスは椅子の上で身を縮めていた。
「今の音で?」
私が尋ねると、彼女は耳を押さえたまま頷いた。
「暗いお部屋でも、後ろで板を落とされました。びっくりすると、よく光るから」
言葉はそこで途切れた。
私はベルタへ、マティルダを呼ぶよう命じた。
待つあいだ、料理長は焦げたジャムを天板から剥がし、竈番は次の薪を静かに足した。厨房の仕事を止めると、アイリスへ全員の視線が集まってしまう。
やがてベルタが戻った。その後ろにアルヴェイン家の護衛が一人立ち、二人の間をマティルダが歩いてくる。
マティルダを敷居の手前で止め、私は廊下へ出た。アイリスにはモニカが付き添う。厨房の戸を閉めてから、曲がり角の先へマティルダを連れていった。
「アイリス嬢は、板を落とされると光が強くなったと言いました」
マティルダは答えない。
「誰が始めたの。何度行われ、あなたはどこまで許可した?」
「治療の一環だと説明されていました。祝福を制御するために必要だと」
「説明を求めているのではありません。板を落とすところを見たのか、あなたが承諾したのかを聞いています」
マティルダの視線が、厨房へ続く廊下をさまよう。
「答えられないなら、そのまま記録します。見たことと、人から聞いたことを分けて話してください」
逃げ道がないと悟ったのか、マティルダの肩から力が抜けた。
「最初は、眠っているときだけだったのです」
「悪い夢を見た夜、寝室が明るくなった。それを会へ報告したら……恐怖で祝福が強まるなら、同じ状態を起こせばよいと」
「あなたは、許可したのね」
「三度目までは」
マティルダは厨房の方角を振り返り、続けられなくなった。
「三度目のあとも、止められなかったのでしょう」
私の問いに、彼女は首を縦へ動かした。
「回数は」
「……覚えておりません」
「では、覚えていないと証言書へ加えます。ベルタ、連れて戻って。今日中に、訓練へ立ち会った者と、道具を用意した者を分けて書かせなさい」
ベルタがマティルダを促し、護衛とともに客棟へ連れ戻した。私は厨房へ戻った。
床の光は消えていた。それでもアイリスは耳を塞いでいる。
「我が家は神殿の礼拝堂ではありません。アイリス嬢を驚かせ、奇跡を搾り出す行いを禁じます」
私は料理人たちを見渡した。
「光が出ても褒めない。もっと明るくとも言わない。刃物と火を安全な場所へ移し、消えるまで普段の声で待ちなさい」
「光を出さなければ、ここにいてはいけませんか」
アイリスの問いは、耳を塞いだ両手の間から出た。
「光らなくても、ここにいていいのよ」
私は冷めたクッキーの皿を彼女の前へ置いた。
「もう少しここにいたければ、ジャムの瓶に貼る札を一緒に考えましょうか。疲れたなら、今日は休みましょう」
アイリスの手は、すぐには耳から離れなかった。
◇
三度目の天板が焼き上がった。
薬壺の蓋は片側へずれ、リディアの葉は欠けたまま固まっている。
最後の一枚は、二人が別々の場所へジャムを載せたせいで、中央から割れていた。
料理長が捨てるか尋ねる前に、リディアが皿へ移した。
手で割ると、大きさの違う二つに分かれた。
アイリスが小さいほうを取り、しばらく見てから、リディアの皿にある大きい欠片と取り替えた。
「こちらは、木苺が多いです」
リディアは理由を尋ねなかった。
二人が食べ始めたところで、竈番が次の天板を入れた。
「扉を閉めます」
アイリスが竈番を見る。彼がゆっくり掛け金を下ろしても、鉄のぶつかる音そのものは消せなかった。
重い音に、アイリスの周囲がまた淡く光る。
誰も歓声を上げなかった。
料理長は光が弱まるのを待ち、いつもと同じ声で尋ねた。
「次は、苺と木苺のどちらを使いますか」
アイリスは割れたクッキーを持ったまま、二つの瓶を見比べた。
「木苺を、もう一度」
料理長が瓶の蓋を開け、木匙で底から混ぜ始めた。
私は子どもたちの作業台を離れ、マティルダを客室へ戻してきたベルタを廊下で呼び止めた。
「王都へ、さらに三人走らせます」
「十二人の証言とは別件でございますか」
「アイリス嬢の実の両親について。流行病の患者台帳と死亡届、薬舗の営業記録、そして、あの子の祝福を最初に報告した者の名を調べて」
ベルタの表情が硬くなった。
「ご両親の死に、〈花冠の会〉が関わっていると?」
「まだ疑っているだけです。けれど、身寄りのない聖女が必要だった者たちにとって、薬師の両親はあまりに邪魔だった」
厨房の中で、また鉄の扉を閉めるという声がした。
「アルベリクには、記録を閲覧するのではなく、先に原本を保全するよう伝えて。こちらが調べていると悟られれば、流行病の死者名簿ごと消されます」
「ただちに手配いたします」
ベルタは書記室へ向かい、私は厨房の入口へ残った。
アイリスの周囲には、まだ消えきらない光が薄くまとわりついていた。それでも彼女は木苺の瓶を指し、料理長へ今度は小匙一杯だけ載せてほしいと頼んでいる。
その日の夕刻、記録保全を託した第二陣の三人が、異なる門から王都へ発った。




