第14話 ふたりとも台詞を忘れる
翌朝、アルベリクからの使者が泥だらけの馬で到着した。
書状には、フェルノア伯爵夫人とアイリスが王都から姿を消したこと、王宮内ではすでに捜索が始まっていることが記されていた。
ただし、逮捕状も、神殿による正式な保護命令も出ていない。
〈花冠の会〉が学園準備局と王妃付きの騎士へ、内々に捜させているだけだという。
『もし母娘がそちらへ到着した場合、アルヴェイン侯爵家の客人として保護してほしい。公式の使者を名乗る者が来ても、私の署名と王宮書記局の登録割印、その双方がない限り引き渡す必要はない』
侍女セラは、手紙を運んだ古書商を通じて侯爵家の保護下へ移した、とも記されていた。マティルダには、その一行を先に読み聞かせた。
末尾には、いつもの整った筆跡から外れた一文が加えられていた。
『ユリウスの独断については、君の書付を受け取った。働きには礼を言った。だが、二度と一人で危険を負うなと厳命した。君も同じだ、ローゼリア』
最後の一文だけ、筆圧が深い。
私は指の腹でその凹みを確かめ、書状を元の折り目へ戻した。
「旦那様も、お怒りのようですね」
「怒る暇があるなら、王都に残った泥を一つでも多く掘り返していただきたいわ」
封筒へ戻した書状は、捨てる書類の山ではなく、机の右側へ置いた。
私はアルベリクの書状をマティルダへ見せた。
彼女は安堵しかけたが、すぐに表情を戻した。卓上には、昨夜私が求めた名前が十一人分並んでいる。礼拝堂へいた者、誓約書の作成に関わった者、アイリスへ身振りを教えた者。
朝から四枚の紙が書き損じになっていた。マティルダが「覚えていない」と言うたび、昨夜の証言と照らして時刻や座席を尋ね直した。十一人目が記されたころには、運ばせた朝食も手つかずのまま冷えていた。
十二番目の欄だけが、空白だった。
「ここで終わりではないでしょう」
マティルダの手が、インク壺へ伸びる途中で引き返した。
「もう、おりません」
「昨夜、あなたは礼拝堂で命令を出した者を『あの方』と呼んだわ。十一人の中に、その呼び方をする相手はいません」
マティルダは椅子から立ち、窓際まで逃げるように歩いた。
「これ以上は、本当に我が家が潰されます。夫は何も知らない。領地には、私どもを信じて働く者がいるのです」
「アイリス嬢は、あなたが書くかどうかにかかわらず保護します」
マティルダが振り返った。
「では、なぜ――」
「あなた自身を、脅されていた協力者として守るか、子どもを差し出した実行役として告発するか。その判断には、最後の名前が必要です」
「脅していらっしゃるの?」
「条件を明らかにしています」
マティルダの唇から色が消えた。
「アルヴェイン家の庇護を求めるなら、その代価をアイリス嬢ではなく、あなたが払いなさい。書きなさい」
彼女は席へ戻らなかった。
空白の十二番と、紙面へ落ちたままのペンを、遠くから見ていた。
「夕刻まで待ちます。それまでは、十一人分の証言も外へ出しません」
「……もし、書かなければ?」
「アイリス嬢はここへ残す。あなたについては、会への協力を自ら選んだ者としてアルベリクへ報告します」
マティルダの喉から、潰れた息が漏れた。
「これで、アイリス嬢の滞在は認められます。あなたの滞在は、夕刻にもう一度決めましょう」
マティルダは、乱れてもいない襟元を直した。次に出た声だけが、急に伯爵夫人のものへ戻る。
「娘に、リディア様へ正式にご挨拶をさせたいのですが」
「昨夜、二人は会いました」
「あれは挨拶とは申せません。身支度も整わず、夜着のままで」
「だからこそ、今朝は挨拶のやり直しをさせません」
マティルダの眉が寄る。
「では、いつお許しいただけるのです」
「二人が話したくなったときに」
「子どもだけで、その時機がわかると?」
「少なくとも、茶会の進行役よりは自分の気持ちを知っています」
卓上に残された十二番目の空欄へ、マティルダの視線が落ちた。
返事はなかった。
◇
雨は昼前に細くなった。
リディアが薬草園の手帳を抱え、私のところへ来た。
「アイリス様に、これを見ていただきたいです。でも、何をお話しすればよいのかは、まだわかりません」
ベルタを通じて尋ねると、アイリスは、部屋の中で挨拶をするのは嫌だが、外で手帳を見ることならできると答えた。
薬草園へ続く庭路はまだ使えない。そこで、屋敷に近い硝子屋根付きの葡萄棚へ、小さな丸卓をひとつだけ出させた。
椅子は二脚。菓子は一皿。茶器も子ども用の小さなポットだけだ。
席順を示す名札も、話題を用意した女官もいない。
「本当に、これだけでよろしいのですか」
給仕の侍女が不安そうに尋ねた。
「ええ。足りないものがあれば、二人から頼んでもらいます」
私は丸卓から四歩離れた葡萄棚の端に腰を下ろした。膝にはマティルダの証言書を置いている。ベルタは隣で、乾ききらない庭路へ目を配っていた。
リディアは箱庭の手帳を抱えてきた。
アイリスは何も持っていない。椅子の背へ触れ、自分が座ってよい場所なのか確かめるように、丸卓の周囲を見た。
リディアも座らない。
昨日の廊下と同じ沈黙が始まった。
私は無意識に立ち上がりかけた。
ベルタが、私の膝から滑りそうになった証言書を押さえる。
「まだ風では飛びません」
「……そうね」
腰を戻した。
前世なら、沈黙が予定より三秒延びただけで次の合図を出していた。役者が困っている顔をすれば、立ち位置を変え、音を足し、誰かに台詞を促した。
けれど今、二人に必要なのは進行ではない。
リディアが先に椅子を引いた。
「お座りになりますか」
アイリスは椅子を見たあと、リディアを見る。
「はい」
二人が座る。
それからまた、しばらく何も起きなかった。
アイリスは皿の菓子を見ている。丸い蜂蜜菓子、薄く焼いた木の実の菓子、砂糖漬けの薔薇を飾った小さな焼き菓子。
薔薇の菓子は、この季節ならどの貴族家でも出すありふれた品だ。あの日の茶会にも置かれていた。
「お茶をお注ぎしても?」
リディアが尋ねた。
アイリスの肩にわずかに力が入る。
「自分で、注いでもよろしいですか」
「もちろんです」
ポットは軽く作られていたが、蓋が落ちないよう片手で押さえる必要がある。アイリスは一度傾けすぎ、慌てて戻した。雫が二つ、受け皿へ落ちる。
リディアは布巾へ手を伸ばしかけたが、アイリスが先に拭いた。
「こぼしました」
「はい」
「叱らないのですか」
「わたくしのポットではありませんから」
言ってから、リディアは眉を寄せた。
「いいえ。わたくしの物でも、二滴でしたら叱らないと思います」
アイリスは笑わなかった。ただ、濡れた布巾を丁寧に畳むのをやめ、卓の端へ置いた。
「リディア様」
「はい」
「お手紙に、ごめんなさいと書きました。でも、何に謝ったのか、まだお話ししていません」
リディアの膝の上で、手帳の革表紙が少し沈んだ。
「あの日、お菓子を見ているふりをしていました。本当は、おばさまの扇を聞いていたのです」
アイリスは卓の縁を見つめた。
「カチリと鳴ったら、悲しい顔をしなくてはいけなくて。それから頭の中で、ひとつ、ふたつ、みっつ、と数えました」
「そのあとは?」
「泣かないで、笑います」
言いながら、アイリスの口元が形を作りかけた。本人が気づき、唇を手で隠す。
「鏡の前で何度もしました。違う、と言われるたびに、もう一度。上手にできたときだけ、良い子だと言っていただけました」
「それが、どうして謝ることになるのですか」
「リディア様が何をおっしゃるか、わたしは先に知っていました。知っていて、知らないふりをして待っていたから」
リディアは手帳を強く抱え直した。
「わたくしも、あなたが悲しい顔をしたあとに言う言葉を教わっていました。身の程を知るように、と」
「知っています」
リディアが息を詰めた。
「どうして?」
「わたしの先生が、次にリディア様が何をおっしゃるか、全部教えてくださったからです」
コルネリアの帳面にあった、アイリスの視線や微笑む時機が脳裏へ戻った。
あれは予言ではなかった。別々の屋敷にいる子どもへ、大人たちが場面の両側を配っていたのだ。
「では、わたくしが言いかけたとき、怖くなかったのですか」
「怖かったです」
アイリスはすぐに答えた。
「でも、リディア様より、扇の音が怖かった」
リディアは手帳から腕を離した。
「わたくしは、アイリス様が怖いのではありませんでした」
「はい」
「皆さまが、わたくしの言葉を待っているのが怖かったのです」
アイリスは小さく頷いた。
リディアは何か言おうとしたが、口を閉じた。
アイリスの唇にも、練習した微笑みは浮かばない。
二人の間に、謝罪の続きだけが空いたまま残った。
代わりにアイリスが、皿へ手を伸ばした。
蜂蜜菓子を取り、ひと口かじる。
「甘いです」
「蜂蜜のお菓子ですから」
「そうではなくて……思っていたより、ずっと甘いです」
リディアも木の実の菓子を取った。
「こちらは、少し苦いです」
そこで会話が途切れる。
皿には薔薇の菓子だけが残った。
二人とも、しばらくそれを見ていた。
「あの日も、最後まで残っていました」
アイリスが言った。
「覚えていらしたのですか」
「食べるように言われるかと思って、見ていました」
「わたくしは、あなたにお譲りするように言われると思っていました」
「それから、わたしがお礼を言って」
「わたくしが、侯爵家では珍しくないと申し上げるはずでした」
そこまで言って、リディアの声が途切れた。
アイリスが首を傾げる。
「そのあとは、何でしたか」
「……忘れました」
リディアは本気で困った顔をしていた。
「わたしも、思い出せません」
リディアは菓子用の小さなナイフを取り、アイリスへ見せた。
「半分にしてもよろしいですか」
アイリスはしばらく菓子を見たあと、頷いた。
焼き菓子は思ったより硬かった。力を入れた拍子に表面が崩れ、大きな欠片と小さな欠片、その周囲へ細かな屑が散った。砂糖漬けの薔薇も、片側から転げ落ちる。
リディアはナイフを持ったまま、崩れた断面とアイリスの顔を見比べた。
「半分ではなくなりました」
「……はい」
アイリスは薔薇の飾りがついていない、いちばん地味な欠片へ指を伸ばした。リディアが何か言いかけると、その指が引っ込む。
「取ってはいけませんでしたか」
「いいえ。わたくしも、どれを取ればよいのかわからなかっただけです」
アイリスはもう一度、同じ欠片を取った。
リディアは大きい欠片を自分の皿へ移す。薔薇の砂糖は卓上へ残ったままだった。
二人は相手の顔を確かめては視線を戻し、小さな口で黙って食べ進めた。
アイリスはひと口目で眉を寄せたが、感想は言わなかった。リディアも自分の皿を見たまま、冷めかけた茶を飲んだ。
私はまた腰を浮かせていた。
ベルタが証言書の続きを私の膝へ戻す。
「奥様。まだ十一人です」
そのとき、屋敷から侍女が一人、泥を避けながら葡萄棚へ来た。ベルタへ、封をしていない紙を差し出す。
ベルタが一行目を読み、私を見た。
「伯爵夫人が、十二人目を書かれました」
受け取った紙には、同じ書き出しが三度残っていた。どれも途中でインクが掻き消され、四度目でようやく一つの名になっている。
エルミーヌ・グランヴェル公爵夫人。
文字の末尾を濡らした跡が、乾かずに残っていた。
丸卓では、リディアが薬草園の手帳を開いていた。
アイリスは身を乗り出さず、自分の椅子に座ったまま頁を見ている。二人の間には、まだ丸卓ひとつ分の距離が残っていた。
「これは、月鈴草ですか」
アイリスが頁の端を指す。
「いいえ。そちらは銀灯花です。葉の裏を見分けなくてはなりません」
リディアが手帳を半分だけ回した。
私は椅子へ座り直し、十一人分の証言書へ最後の紙を重ねた。
「十二の名前を四名ずつ三通に分けて、アルベリクへ。道も使者も別にして」
ベルタが書類を受け取り、待機していた書記を呼んだ。
清書と照合が済むと、四名分ずつを別の封筒へ収めた。夕刻、三人の使者が時刻をずらして門を出た。書記は受渡簿へ最後の名を記し、私に確認を求めた。




