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第13話 招かれなかった客

 雨は三日たっても止まなかった。


 街道脇の水路は濁り、正門から厩舎まで敷いた砂利にも、浅い流れができている。


 夜半を告げる鐘の少し前、門衛所の呼び鈴が鳴った。


 一度。間を置いて、二度。


 夜番を増やしていなければ、雨音に消されていたかもしれない。


「紋章のない四輪馬車が一台。従者は御者を含めて二名です」


 報告に来た門番の外套から、床へ水が落ちる。


「名乗りは?」


「フェルノア伯爵夫人と、そのお嬢様。身分証として指輪をお預かりしました」


 布に包まれた指輪には、見覚えのある百合と麦穂の紋が刻まれていた。


 だが、指輪ひとつで門は開けられない。


「馬車は外門と内門の間へ。御者を御者台から降ろし、武器を預かって。術師と女医を門衛所へ呼びなさい。客人には、検分が終わるまで屋敷へ入れないと伝えて」


 私はベルタが差し出した外套へ腕を通した。


「奥様ご自身で行かれるのですか」


「客間を二つ温めた理由を確かめてきます」


     ◇


 門衛所の狭い応接室には、濡れた羊毛と薬油の匂いが満ちていた。


 マティルダ・フェルノア伯爵夫人は、長椅子の端へ背筋を伸ばして座っている。王都の茶会で見た深紅のドレスも宝石もなく、泥の跳ねた旅装だけだった。


 その隣で、アイリスは毛布に包まれていた。


 栗色の髪が頬へ貼りつき、靴下まで水を吸っている。女医が差し出した温かい湯を両手で持っていたが、唇をつけるたび、カップの縁が歯へ触れて小さく鳴った。


「先に、その子の服を替えます」


 私が告げると、マティルダは立ち上がった。


「その前に、お話を。私どもをこちらへ置いていただけるのかだけでも――」


「七歳の子どもを濡らしたまま、宿の交渉をなさるおつもり?」


「しかし、追手が来れば」


「だから検分を急がせています。アイリス嬢の着替えと、あなたの事情のどちらを先にするかは、ここでは私が決めます」


 マティルダの顔に反発が浮かんだ。


 それでも娘の震えを見て、唇を引き結ぶ。


「……承知しました」


 北側客間へ移す前に、荷物と馬車の底、車軸、座席の詰め物まで検めさせた。魔力の異常はなし。毒物もなし。短剣が一本見つかったが、伯爵夫人の護身用として登録された品だった。


 ただし馬車の後部には、途中で何度も押した跡がある。左の車輪は泥を噛み、鉄輪の一部が浮いていた。


「この状態で、どこから走ってきたの」


「王都の南門を出たのは、三日前、夜明けの鐘が鳴る直前です」


 マティルダが答えた。


「宿場を避け、修道院の農道を通りました。半日前から車輪がもたなくなり、最後の坂は御者たちと押して」


「東街道を走る王都の騎馬隊を二度見ました。初めは廃れた羊小屋へ馬車を押し込み、二度目は林道へ入って、泥の中で灯りを消しました。紋章入りの馬車だったなら、最初の橋で捕まっていたでしょう」


 王都を出たのは、アイリスの手紙を見つけるより前だ。


 こちらの返書も、アルベリクへの急報も、まだ途中ですれ違ったばかりだろう。


 彼女たちは、私が客間を整えたことなど知らずに、この門を選んだのだ。


     ◇


 アイリスを湯浴みさせ、温めた寝衣へ着替えさせると、頬にようやく色が戻った。


 私は北側客間の居間へマティルダを通した。寝室との扉は開けたままにしてある。アイリスは寝台の上で毛布を肩までかぶり、女医の診察を受けていた。


「それで」


 私は暖炉を挟んだ向かいへ座った。


「何から逃げてきたのです」


「〈花冠の会〉です」


 マティルダはそう答えたきり、次の言葉を吐けずにいた。


 旅装の裾から覗く靴は、乾く暇もなく泥を塗り重ねている。揃えようとしている爪先が、敷物の上で細かく打ち合っていた。


「三日前の深夜……予行だと言われました。ただ光を見せるだけだと。王妃陛下の礼拝堂で、会と神殿と、学園準備局の者が見ていて……でも、アイリスは出せなかった。ほんの小さな明かりしか」


 寝室から、寝具が擦れる音がした。


 マティルダは早口になった。


「それで、あの方たちは言ったのよ。恐怖が足りない、あの茶会をやり直せばよいと。窓を覆って、燭台まで消して……あなたの娘がアイリスを憎んでいる、次は誰も助けないと、何度も、耳元で」


「あなたも、その部屋にいたのね」


「いましたわ!」


 声が裏返った。


「止められるものなら止めていた! 逆らえば養母の資格を取り上げる、アイリスを神殿の奥へ移すと、ずっと言われていたのよ。あの子の両親が亡くなったときからです。祝福を持つ孤児を家へ置きたければ、会の教育を受けさせろと。私は誓約書へ署名させられた。断れば、もう二度と会わせないと――」


 マティルダは手袋を乱暴に外した。指先の爪が二本欠け、泥が入り込んでいる。


 私の指も、椅子の肘掛けを強くつかんでいた。古い木が掌の下で軋んだ。


「それで、あなたは自分の代わりにアイリス嬢を怖がらせた」


「ほかにどうすればよかったの!」


 彼女は椅子から身を乗り出した。


「あなたには家がある。侯爵の血を引く娘がいる。茶会を壊しても、王都へ喧嘩を売っても、帰る領地がある! 私が母親でいられるかどうかは、あの方々の紙切れ一枚で決まるのよ。家も、夫の地位も、使用人の暮らしも人質に取られて――そんな惨めさが、あなたにわかってたまるものですか!」


 わからない、と言うことはできた。


 その弱みにつけ込まれた責任まで、私が安全な場所から裁けるとも思わない。


 けれど、寝室では七歳の少女が、養母の叫びを聞いている。


「あなたが追い詰められていたことは疑いません。だからといって、アイリス嬢を追い詰めた事実まで同じ箱へ入れないで」


「綺麗なことを……」


「綺麗でなくても結構。あなたの惨めさを、アイリス嬢へ支払わせたままにしないで。私は今夜、あなたを許すとも、見捨てるとも言っていない。何が起きたのかを最後まで話しなさい」


 マティルダは憎むように私を見た。


 その顔が崩れたのは、目を逸らしたあとだった。


「扇が閉じたのです。あの茶会と同じ音がして……アイリスが耳を塞いだ。やめて、と叫んだら、礼拝堂が白くなりました」


 色硝子が内側から砕け、破片が床へ降った。燭台の油へ光が走り、垂れ幕の裾から煙が上がった。前列にいた術師は腕を焼き、神官たちは切り傷を負った者を祭壇の陰へ運んだという。


「誰も、アイリスを見ていなかった。怪我人を数える者、火を消す者、割れた窓を外から隠せと怒鳴る者……会の女官は、これは暴発ではなく祝福の顕現だと叫んでいました。そのすぐ横で、あの子を礼拝所へ移せ、夜が明ける前に部屋へ鍵を掛けろと」


 一気に話したせいで、マティルダの声は紙を擦るように掠れていた。


「気づいたら、私はアイリスの手をつかんでいました。聖具庫を抜けて、厨房の納入口へ走った。荷を下ろしたばかりの商人へ宝石の指輪を投げつけて、馬車を寄越せと……御者には、止まったら全員捕まると怒鳴りました」


 紋章のない馬車だった理由は、それか。


「南門を通るとき、まだ手配書は届いていませんでした。門衛は私の指輪を見て通した。門を抜けた直後、王宮の方角で警鐘が鳴ったわ。あと四半刻遅ければ、囲まれていました」


 マティルダの欠けた爪と、爪先へ固まった泥が、その数時間を物語っていた。負傷者と隠蔽と命令が衝突した短い空白へ、この女は娘を抱えて飛び込んだのだ。


「なぜ、ここへ?」


 私が尋ねると、マティルダは両手で顔を覆った。


「予行の二日前、私はアイリスへ言ってしまったのです。失敗すれば、今度こそ引き離されるかもしれないと。あの子は泣いて……もし閉じ込められそうになったら、あなたのところへ連れていって、と」


「私のところへ?」


「お茶会で、初めて大人の命令を止めた人だからと」


 マティルダの指の間から、かすれた声が漏れる。


「私は、滅多なことを言うなと叱りました。できるはずがないと思ったから。でも、侍女のセラが聞いていた。あの子は薬師の家に生まれた娘です」


「セラという侍女が、アイリス嬢の手紙を外へ出したのね」


 マティルダの手が顔から落ちた。


「手紙?」


「三日前、植物図譜に隠されて届きました。家から出られないという薬師の印と一緒に」


「あの子……そこまで……」


 マティルダは寝室を振り返った。立ち上がりかけた膝から力が抜け、椅子へ戻る。


「だから、礼拝堂でアイリス嬢が行き先を口にしたとき、迷わなかったのね」


「迷える状態ではなかったわ。私はただ、あの子が言った地名を御者へ叫んだだけです」


 開いた扉の向こうで、アイリスが毛布を握りしめている。眠ってはいなかった。


「奥様」


 細い声が、寝室から届いた。


「わたし、おばさまに連れてこられたのではありません」


 マティルダが振り向く。


「アイリス、休んでいなさい」


「わたしが、ローゼリア様のところへ行きたいと言いました」


 一息で言い切ったあと、咳き込む。


 マティルダは寝室へ駆け寄りかけ、私を見た。


「行ってあげなさい。今は止めません」


 マティルダは頷いた。安堵した顔も見せず、濡れたスカートを引きずって寝室へ入った。


     ◇


「今夜はお二人とも、この棟から出ないでいただきます」


 診察を終えたあと、私は条件を告げた。


「外部への手紙は私が預かる。連れてきた御者たちは別室で事情を聴きます。明日、アルベリクと連絡が取れるまで、滞在についての最終判断はしません」


「私を信用なさらないのですね」


「当然でしょう」


 マティルダは目を伏せた。


「ですが、今夜アイリス嬢を門の外へ返すこともいたしません。あなたを娘から引き離すこともしない。どちらも、事情を確かめてからです」


「……感謝いたします」


「礼はまだ結構です。明日は、誓約書へ署名した者と、礼拝堂にいた者の名をすべて書いていただきます」


 返事の代わりに、マティルダは深く頭を下げた。


 部屋を出ると、廊下の壁際にリディアが立っていた。


 夜着の上へ薄い上着を羽織り、ベルタから預かったらしい乾いたタオルを抱えている。


「起きていたの?」


「呼び鈴が聞こえました」


 北側の客間に誰がいるのかも、もう聞いたのだろう。


 寝室の扉が開き、女医に付き添われたアイリスが居間へ出てきた。借り物の寝衣は袖が少し長く、指先が半分隠れている。


 二人の少女は、敷物一枚分の距離を空けて向かい合った。


 リディアはタオルを抱えたまま、アイリスの顔を見られずにいる。


 アイリスも長い袖を握り込み、開いた扉の近くから動かなかった。


 王都の茶会なら、扇の音か、コルネリアの指先が次の言葉を決めた。今は雨が窓を叩くだけで、誰からも合図は出ない。


 沈黙に耐えきれなくなったように、リディアが唇を開いた。


「……お返事、行き違いになってしまいました」


「お返事?」


「アイリス様のお手紙への。三日前に」


 アイリスは雨の向こうにある王都の方角を見ようとするように、廊下の窓へ顔を向けた。


「わたし、こちらへ来てしまいました」


「はい」


 それきり、言葉が続かなかった。


 リディアは手元のタオルを見つめ、何度か持ち替えた末、二人の間にある卓へ置いた。


「これは、お髪を拭くために持ってきました」


 アイリスはすぐには取らなかった。


「……わたし、何をお話しすればよいのかわかりません」


 リディアの顔が上がる。


「わたくしもです」


 どちらも笑わなかった。


 ベルタがリディアを部屋へ戻そうと一歩進むと、リディアはその気配に気づき、ようやくアイリスを見た。


「明日も、わからないかもしれません」


「わたしも、たぶん」


 リディアは返事をせず、卓上のタオルを指した。


 それからベルタと廊下を歩き出した。数歩進んで振り返ると、アイリスはまだ扉の内側に立ち、ようやくタオルへ片手を置いていた。二人とも声を掛けず、リディアは再び前を向いた。

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