第3話 異世界初の手すり
翌朝。
佐伯悠斗は鳥の鳴き声で目を覚ました。
木造の天井を見上げながらゆっくりと身体を起こす。
不思議な感覚だった。
身体が軽い。
頭も痛くない。
熱もない。
夜勤明けの気怠さもなければ、寝ても取れなかった疲労感もない。
まるで何年も前の自分に戻ったようだった。
「よく眠れたかい?」
部屋の外からハナが顔を覗かせる。
「はい。久しぶりにぐっすり眠れました」
「それは良かったよ」
ハナは嬉しそうに笑った。
悠斗も自然と笑みを返す。
昨夜はエドとハナの厚意に甘え、一晩泊めてもらった。
異世界かもしれない場所で、こんなにも親切な人たちに出会えたことがありがたかった。
居間へ向かうと、すでにエドが朝食を食べていた。
「おはようございます」
「おう、よく寝とったのう」
朝食は焼いたパンと野菜のスープだった。
質素ではあるが温かい。
食事を終えたエドは立ち上がる。
その瞬間だった。
エドの膝がわずかに沈んだ。
ほんの一瞬。
本人も気付いていないだろう。
だが悠斗の目は自然とそこへ向いていた。
昨日も見た動きだった。
立ち上がり、歩幅、足の運び。
そして膝折れ。
介護職として何度も見てきた。
今は問題ない。
だが、いつまでも大丈夫とは限らない。
転倒は突然やって来る。
悠斗は静かにエドを見つめた。
「どうした?」
「いえ」
答えながらも視線は廊下へ向く。
長い廊下。
掴まる場所のない壁。
夜中に歩くには少し心配な造りだった。
「エドさん」
「なんじゃ?」
「夜中にトイレへ行く時、ふらついたりしませんか?」
エドは少し考え込む。
「たまにはあるのう」
「やっぱり」
「歳じゃから仕方ない」
エドは笑った。
だが悠斗は笑えなかった。
歳だから仕方ない。
介護の現場でもよく聞いた言葉だった。
しかし転倒は仕方ないで済まされない。
骨折、入院、寝たきり。
そこへ繋がることもある。
「仕方なくない方法があります」
「ほう?」
エドが興味深そうに眉を上げた。
「手すりを付けるんです」
「てすり?」
「壁に取り付ける棒みたいなものです。歩く時に掴まれるので転びにくくなります」
エドとハナは顔を見合わせた。
二人とも初めて聞く言葉らしい。
「そんなもんで変わるんか?」
「変わります」
悠斗は迷いなく答えた。
利用者が安心して歩けるようになった姿を何度も見てきた。
だからこそ言える。
「転んでから治すより、転ばない方がずっと良いんです」
しばらく考え込んでいたエドだったが、やがて立ち上がった。
「なら作ってみるか」
「え?」
「木なら裏にあるぞ」
「作れるんですか?」
悠斗が驚くと、エドは不思議そうな顔をした。
「ワシは元大工じゃぞ?」
思わず言葉を失う。
それを見たハナがくすりと笑った。
「おじいさんは昔、この辺じゃ有名な大工だったんですよ」
「そうだったんですね」
それなら話は早い。
悠斗は簡単な図を地面へ描きながら説明した。
どの高さが掴まりやすいか。
どこへ設置すれば良いか。
エドは真剣な顔で聞いていた。
やがて二人は木材を切り出し、加工を始めた。
悠斗は工具の扱いこそ慣れていないが、設置場所や高さを提案する。
エドはそれを形にしていく。
昼過ぎには廊下の壁に一本の木製手すりが完成した。
「これで本当に良いのかい?」
ハナが不思議そうに眺める。
「一度使ってみてください」
ハナは恐る恐る手すりを握った。
そしてゆっくり歩く。
数歩進んだところで目を丸くした。
「あら」
「どうですか?」
「歩きやすいねぇ」
その言葉にエドも手すりを握る。
ゆっくりと歩き、何度か確かめるように体重を預けた。
「なるほどな」
「これは確かに良い」
職人らしく納得した表情だった。
夕方。
仕事を終えたような達成感の中で食卓を囲む。
たった一本の棒。
それだけだ。
だが悠斗には、その一本がとても大きなものに思えた。
夜になり、エドがトイレへ向かう。
悠斗は何となくその様子を見守っていた。
エドは手すりを握る。
ゆっくり歩く。
ふらつかない。
足取りも安定している。
そして無事に部屋へ戻ってきた。
その姿を見て、悠斗は胸を撫で下ろした。
「悠斗」
エドが声を掛ける。
「はい」
「お前さん、一体何者なんじゃ?」
悠斗は答えに詰まった。
介護職。
そう答えても伝わらないだろう。
だから小さく笑った。
「ただの世話好きですよ」
エドは豪快に笑う。
「はっはっは! そういうことにしておいてやるわい!」
笑い声が家の中に響く。
その光景を見ながら、悠斗は静かに思った。
この世界には介護がない。
だけど。
だからこそ、できることがあるのかもしれない。
そう感じた夜だった。




