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第2話 エドとハナ

鳥のさえずりが聞こえる。


頬を撫でる風は心地良く、土と草の匂いが鼻をくすぐった。


佐伯悠斗はゆっくりと目を開く。


「……ここは?」


身体を起こす。


青空が広がっていた。


どこまでも続く草原。


遠くには森が見える。


見覚えのない景色だった。


熱はない。


身体のだるさもない。


むしろ驚くほど軽かった。


「確か俺は……」


夜勤だった。


2度目の明け残。


38度を超える熱。


そして帰宅途中――。


そこまで思い出したところで、悠斗は言葉を失った。


「俺……死んだのか?」


自分でも信じられない。


だが、この景色は日本ではない。


少なくとも大阪ではないだろう。


苦笑が漏れる。


その時だった。


遠くからガラガラと音が聞こえた。


荷車だった。


一頭の馬に引かれた木製の荷車。


その横を白髪の老夫婦が歩いている。


「あら!」


老婆が悠斗を見つけた。


「おじいさん! 人が倒れてるよ!」


「なんじゃと!?」


老爺が慌てて駆け寄ってくる。


悠斗は立ち上がった。


「だ、大丈夫です」


「本当にか?」


「はい」


老爺はほっと胸を撫で下ろした。


「よかったわぁ」


老婆も安心したように笑う。


その笑顔を見て、悠斗は少し驚いた。


警戒されると思っていた。


だが二人にはそんな様子が全くない。


「旅人さんかい?」


「えっと……」


説明できない。


異世界に来ました、などと言えるはずがない。


困っていると、老婆が籠からパンを取り出した。


「お腹空いてるでしょう?」


「え?」


「まずは食べなさいな」


思わず言葉に詰まる。


知らない人間だ。


それなのに当たり前のように食べ物を差し出してくれる。


「どうしてそこまで……」


老爺は不思議そうに首を傾げた。


「困ってる人を助けるのに理由がいるかのう?」


その言葉に悠斗は少しだけ目を伏せた。


利用者の顔が浮かぶ。


『ありがとうねぇ』


最後に聞いた言葉も思い出した。


「……ありがとうございます」


深く頭を下げる。


老爺は豪快に笑った。


「ワシはエドじゃ」


「私はハナですよ」


「佐伯悠斗です」


「変わった名前じゃのう」


「よく言われます」


3人は笑った。



エドの家は村の外れにあった。


木造の平屋。


畑もある。


決して裕福ではない。


だが丁寧に手入れされているのが分かった。


ハナの作ったスープをいただきながら、悠斗は周囲を観察する。


職業病だった。


玄関の段差。


長い廊下。


掴まる場所のない壁。


夜中なら危ない。


そんなことばかり目につく。


「どうしたんじゃ?」


エドが尋ねる。


「いえ、何でもありません」


そう答えながらも視線は動く。


するとエドが席を立った。


悠斗の目が自然と向く。


立ち上がりは少しゆっくり。


膝に手を添えている。


歩幅も狭い。


足も少し擦れている。


(足腰が弱ってきとるな……)


介護職として何度も見てきた歩き方だった。


だが本当に気になったのは別だった。


エドが数歩進んだ時。


右膝が一瞬だけ沈んだ。


ほんの僅か。


本人も気付いていないだろう。


だが悠斗は見逃さなかった。


(今のは膝折れやな……)


長時間座った後。


筋力が十分に発揮できない。


高齢者には珍しくない。


今は踏ん張れた。


だが次もそうとは限らない。


夜中なら。


疲れている時なら。


荷物を持っている時なら。


転倒していたかもしれない。


悠斗の脳裏に過去の光景が浮かぶ。


歩行中。


突然崩れ落ちた利用者。


救急車。


大腿骨骨折。


手術。


長いリハビリ。


そして以前のようには歩けなくなった人。


たった一度の転倒。


それだけで人生は変わる。


だから介護職は転倒を恐れる。


(あかん……)


(あの歩き方は危ない)


(転んでからじゃ遅いんや)


「悠斗?」


ハナの声で我に返る。


「あ、すみません」


「何か気になることでも?」


悠斗は少し迷った。


そして尋ねる。


「エドさん、最近転びそうになったことありませんか?」


エドが目を丸くした。


「なんで分かったんじゃ?」


「やっぱりあるんですね」


「畑で2回ほどのう」


「2回!?」


思わず声が大きくなる。


エドとハナはきょとんとしていた。


だが悠斗だけは笑えなかった。


(2回て……)


(それもう黄色信号どころやないやろ……)


(次は骨折するかもしれへんのやぞ……)


この家は危ない。


エドの足も危ない。


今はまだ元気だ。


畑もできる。


荷物も持てる。


だが転んでからでは遅い。


悠斗は壁を見る。


玄関を見る。


廊下を見る。


そして思う。


(支えがあればええんやけどな……)


施設には当たり前にあったもの。


利用者を守っていたもの。


転倒を防いでいたもの。


それがこの家にはない。


いや。


この世界には存在しないのかもしれない。


悠斗は静かに呟いた。


「そうか……」


「この世界には介護がないんだ」

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