第1話 異世界に介護職はありませんでした
佐伯悠斗、二十八歳。
グループホーム「和みの里」で働く介護職員だ。
介護福祉士の資格取得を目指しながら、認知症の利用者たちと向き合う日々を送っている。
介護の仕事は大変だ。
世間から特別評価される仕事でもない。
給料だって決して高くはない。
それでも悠斗は、この仕事が嫌いではなかった。
利用者の笑顔や、
「ありがとうねぇ」
という何気ない一言が嬉しかったからだ。
そんな悠斗は今、職員休憩室のソファーへ身体を沈めていた。
重い。
とにかく身体が重い。
額へ手を当てる。
熱がある。
夜勤中から続いている倦怠感だった。
休憩時間に測った体温は37.8度。
朝方には38.3度まで上がっていた。
本来なら休むべきだ。
受診するべきだ。
そんなことは分かっている。
だが現実はそう簡単ではない。
人手が足りない。
誰かが休めば、誰かが無理をする。
今日は夜勤明けだ。
しかも2度目の明け残だった。
夜勤を終えた後も、記録や家族対応、申し送りが残っている。
体調不良だからと全てを投げ出せる状況ではなかった。
もちろん、それが良いことだとは思っていない。
ただ、目の前には自分を必要としている人たちがいる。
だから何とか踏ん張っていた。
「悠斗さん、本当に大丈夫ですか?」
後輩職員が心配そうに声を掛ける。
「大丈夫。少し休めば何とかなるよ」
そう答えながら苦笑する。
大丈夫な人間は38度を超える熱で働いたりしない。
自分でも分かっていた。
それでも朝食介助を行い、
排泄介助を行い、
服薬確認を行い、
記録を書き、
申し送りを終えた。
気付けば時計は正午を回っていた。
ようやく帰れる。
そう思った時だった。
「悠斗さん……」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、一人の女性利用者が立っていた。
昨夜、何度も居室から出て来られた方だ。
不安そうな顔をしている。
「どうされました?」
悠斗は自然と膝を折り、目線を合わせる。
女性は小さく呟いた。
「家に帰らなきゃ……お父さんとお母さんが心配してるから……」
帰宅願望。
認知症の方によく見られる症状だ。
ここで否定してはいけない。
悠斗は穏やかに微笑んだ。
「そうですか。きっと心配されてますね」
女性は小さく頷く。
「じゃあ少しだけ、お父さんとお母さんのお話を聞かせてもらえますか?」
女性の表情が少しだけ柔らかくなった。
昨夜もそうだった。
若い頃の話。
家族の話。
子育ての話。
1時間近く話を聞いているうちに、不安は落ち着いていった。
特別なことではない。
介護職なら誰でもやっていることだ。
ただ相手の話を聞く。
寄り添う。
それだけだった。
「ありがとうねぇ」
女性は嬉しそうに笑った。
悠斗も笑顔で頷く。
やっぱり、この仕事は嫌いになれない。
その言葉を胸に、悠斗は施設を後にした。
玄関を出る。
春の風が吹いている。
本来なら心地良いはずなのに、今は何も感じない。
身体が限界だった。
早く帰って眠りたい。
それだけを考えながら歩く。
ふと視界が揺れた。
足元がぐらつく。
まずい。
そう思った瞬間だった。
強烈な衝撃。
白く染まる視界。
遠ざかる音。
消えていく意識。
最後に浮かんだのは利用者たちの顔だった。
そして、もう一つ。
誰にも言ったことのない願い。
――介護という仕事が、もっと正当に評価される世界だったらいいのにな。
その想いを最後に、佐伯悠斗の意識は闇へ沈んだ。
◇
鳥のさえずりが聞こえる。
頬を撫でる柔らかな風。
土と草の匂い。
悠斗はゆっくりと目を開いた。
「……ここは?」
見上げた先には、どこまでも続く青空が広がっていた。
知らない空だった。




