62-2 ワガママのつりあい(中編)
スーパーの駐車場に車を停めて店内に入る。カートは僕が引いてゆかりさんは商品を見て明日の献立を考える。
そんな普通の幸せが、僕にはとても特別な幸せだった。
「あれ? 卵のコーナー変わったのかしら? ちょっと店員さんに聞いてきます!」
「えっゆかりさん僕も……」
言うより早く、僕の元から離れた彼女の背中に向けてため息を吐く。
せっかく一緒に買い物に来たのだからと思うあたり、彼女へのべた惚れ具合を改めて自覚する。
「あら? 貴方……」
声を掛けられ視線を移すとそこにいたのはかつて仕事で会った女性だった。なんだってこんな所に。たしか思い通りにならないと嫌がらせも平気でできるタイプじゃなかったか。
瞬間、まずいと思ったが表情には出さずにこやかに対応する。
「お久しぶりですね」
「貴方もスーパーだなんて普通の所に来るのね」
「友人の付き添いですよ」
「そう…いいオトコは変わらないみたいで安心したわ」
「それはどうも」
ここにゆかりさんがいなくて良かった。
こんな香水にまみれた女の近くにいたらゆかりさんの香りが汚れてしまう。
「ねぇ……また会いましょう? そしたらステキな物もあげられるわ」
この女性はこんな普通のスーパーで何を言っているのか。場違いも甚だしいが取引先の重要ポジションについている人物であるのも事実。適当にあしらっておくのが最良だ。
「魅力的なお誘いですね……機会があればこちらからご連絡させていただきます」
「フフ、つれないのね……まぁいいわ。連絡待っているわ」
手を振りながらその場から離れていった女性を見て胸をなでおろす。
とりあえずこのスーパーはもう使えないなと思った。
「お話、終わりました?」
「あっゆか、りさん……」
「私買い物しますから、車戻ってて大丈夫ですよ?」
「えっ……」
「今のかた、お仕事の関係者なんでしょう? 献立も決めちゃいますね! さっ早く早く!」
「えっいやゆかりさ……」
グイグイと背中を押されてもう来るなと言うように手を振られる。
たしかにあまり良いとは言えないが、それでも一緒に買い物をして、明日の献立を一緒に考えたかった。
それになにより。
「いつから見てたんだ……」
聞かれたくないことを、見られたくないことを、してしまった自分が悪いのはわかってても。
情けなくそう思ってしまう。
「……友人の、付き添いかぁ」
綺麗な人だった。
このスーパーも、本音を言えば普段私が使ってるスーパーよりもずっと高級な値段が書かれているスーパーで、私のほうがこの場に相応しくはないのだろう。
このスーパーも、彼の隣も。
「明日のごはん、何が食べたいんだろ」
せめて一緒に、たまに食べる食事の献立を一緒に考えたかったな。
駐車場に出て車まで近づくと彼は車から降りて出てきてくれて、両手に持っていた買い物袋を持ってくれて助手席のドアも開けてくれた。
「ありがとうございます」
「僕のほうこそ」
お礼を言えば、そう言ってくれた。
二人の住む家に車を走り出させて少し経ったとき、彼から漏れた一言があった。
「すみませんでした」
あぁやっぱり、そう言われると思ってた。
「気にしてませんよ……和樹さんのお仕事の邪魔はしたくありませんから」
「……ゆかりさん、怒っても良いんですよ?」
「えっ……」
怒る? 何を?
「えっ……えーと……こらー! って?」
「そう怒りたいなら良いんですが……その、聞いていたんでしょう? ゆかりさんのことを友人と言ったこと」
「あぁそれですか……仕方ありませんよ」
だって私たち、結婚指輪すらしてないんだから。飲食業では邪魔になるし落とすのも嫌だから持ち歩いてすらいない。
いま、彼と私の結婚を示すものは、私自身だけ。
法律上はそうでも。婚姻届を役所に出していても。私か彼か、どちらかが声に出して言わなければわからない。
「仕方ない、ですか……」
「本当に、大丈夫ですよ?」
「そう、ですか……」
そう言ったきり、彼は家に着くまで口を開くことはしなかったから私も特に話さなかった。
多分だけど今、何か考えているんだろうなと思ったから。
その考えがわかったのは自宅についてすぐだった。
「ゆかりさんにはこれから毎日ひとつずつ、我儘を言っていただきます」
どうして何か考えていたことまではわかったのに考えていたことはわからなかったのだろうか。無念である。
「……あの、一応聞きますね。なんでですか?」
怪訝な表情をしたゆかりさんが右手を小さく挙げて聞いてくる。
いつのまにかブランが彼女の足に擦り寄って同じような表情でこっちを見ていた。
「ゆかりさん、仕事を言い訳にするつもりではありませんが、仕事のせいであなたに嫌な思いをさせている自覚はあるんです。けれど僕と結婚したことで後悔はしてほしくない」
そんなことはあってはならない。
幸せにできないならば、それでも離すことができないのならば。
後悔だけはさせない。
「だから、ワガママですか? ちょっと飛躍しすぎじゃありませんか?」
ゆかりさんは、あまり納得がいかないようで、こてりと首を傾げている。
「いいえ、妻に我慢をさせているとわかっててなお解決策を出さないのは夫として最悪でしょう」
ただでさえ夫として最悪なのに。
その言葉は情けなさ過ぎて言うのはやめた。
「ん~……わかりました! ワガママ言います! では早速……」
「ジャケットをハンガーに掛けてください、なんてワガママが通ると思ったら大間違いですよ」
「あぁぁあ~~~~~~」
なんでこんなことがワガママになるのか。そう思いながら脱いだジャケットをハンガーに掛けた。
まぁ確かに、いつも彼女が掛けてくれるからワガママの枠のつもりだったんだろう。
「さて、まずは今日のワガママ。楽しみにしていますね」
茶目っ気たっぷりに、ウインクを一つ。
彼女曰くあり合わせの食事(普通のありあわせはもっと簡素だと思う)に舌鼓を打ち、風呂を浴び、さて寝ようかという時間になっても彼女は頭を悩ませていた。
「あと一時間で今日が終わりますよ?」
「圧を掛けるのやめてください! 無理です! 電気消してください! ほら! 言いましたよ!」
「僕も寝るから電気消すのは当たり前なので、ワガママにはなりませ~ん」
「んんんんんん!」
ボスボスと布団を叩く彼女が可愛くて仕方ない。クク……と肩を震わせながら電気を消して彼女の隣で横になる。
まだ座っている彼女に向けて手を伸ばす。
「おいで」
ムス……としながらも僕の腕を枕にして横になってくれる。何も言わずとも腕枕を使うようになってくれたのはここ数ヶ月の成果だと言っていいだろう。
「ほら、あと少しで今日終わっちゃうよ?」
「私た~っくさん言ってますけどね! 和樹さん全部却下するんですもん!」
「ワガママが些細なものすぎるから。もっとちゃんとしたワガママが良いな」
今すぐ会いたい、会いに来て。
そんなワガママを彼女がいうことはないことがわかっているのに。それを叶えられることがないとわかっているのに。
それでも彼女がワガママを言うことを望んでしまう。
「……じゃあ、布団を掛けてください」
「それは……」
「自分で! 自分で掛けられるのに掛けてもらうんですよ!? ワガママです!」
さぁ早く掛けてください! と言うように頰を膨らませる彼女と、すでに二十三時を過ぎた時計を見て、今日はこれで納得してあげようと溜息をつく。
「はい、これで良いですか?」
「はい! ありがとうございます!」
そんな笑顔でお礼なんて言われたら、ワガママじゃなくなるんだけどな。
さて、彼女はどんなワガママで僕を楽しませてくれるのか。
これからが楽しみで仕方ない。




