62-1 ワガママのつりあい(前編)
結婚当初の探りあい。
海外勤務の事後処理もようやく終わりが見えてきた。残るはまだかまだかと待ち構えている書類に判を押すだけだ。
そこでふと、あの柔らかい笑顔の女性を思い出す。丸いおでことどこにでもいる髪色を耳にかける仕草。珈琲を淹れる時のよくわからない鼻歌。西日に照らされて柔らかく微笑む彼女。
「……元気に、してるかな」
会いたい。
素直にそう思う。
生きてきた中で最もぽやぽやとした女性だった気がする。
妙に鋭いところがあるのに変な所で鈍かった。
それでも、あの周りまでをも笑顔にさせる女性は和樹にとって、愛おしい存在だった。
海外勤務のことを彼女に告げず、特に挨拶もせず消えていった自分に彼女は何を思ったのだろうか。
水臭いですよと怒っただろうか。
それとも会えなくて悲しんでくれているだろうか。
できれば、仕方ないなぁと呆れながらでも笑ってくれないだろうか。
暖かい気持ちをくれた、一人の女性だった。できれば幸せでいてほしい。すでに自分ではない誰かと幸せになっていてもおかしくない魅力的な女性だ。
どうか、自分の愛する女性を幸せにしてくれる男が、彼女の前に現れますように。
そう思っていた。
当初は諦めるつもりだった。なのに。
「行ってらっしゃい、和樹さん」
「行ってきます、ゆかりさん」
彼女は僕の家で喫茶いしかわのものではないエプロンを着て僕を送り出してくれている。
バタン、と駐車場に停めていた車に乗り込み、シートに深くもたれ、長いため息を吐いた。
「あ~~……なんだあれ可愛いすぎる」
さきほど「行ってらっしゃい」と送り出してくれた彼女を思い出せば、控えめに手を振る姿と目を合わせばほんのり赤くなる頰、それでも照れたように笑顔を見せて名前を呼んでくれる。
「あんな可愛い和樹さん呼びは反則だろ……」
可愛い。
とんでもなく可愛い。
後ろ髪を引かれつつ、仕事に行かなければとエンジンをふかしシートベルトを締めると共に気を引き締める。
そもそも、ゆかりさんと結婚するだなんて僕だって予想外だったんだ。
「石川さんこちらの書類に目を通して頂けますか」
「あぁ、わかった」
長田から受け取った書類に目を通せば長田はすぐには立ち去らず、普段あまりしない世間話を始めた。
「今日は奥様の所に?」
「あぁ。勤務が遅番でラストまでだって言うから迎えに行ってそのまま家に帰る」
「大事にしてらっしゃるんですね」
「当たり前だ。そもそもこっちは結婚してもらった側だからな。今は点数稼ぎに忙しい」
言い方は悪いがまさに点数稼ぎだ。
ゆかりさんは僕からのプロポーズをいまいち理解が追い付かないまま頷いた気がする。
それもそうだ。畳み掛けてそうしたのは僕だ。
それでもそれを言質を取ったとばかりに話を進めて結婚にこぎつけた。プロポーズして結婚するまでに三ヶ月ほど婚約期間というものはあったが、会えた日数はけして多くない。しかもそれもご両親への挨拶だったり引越しの手続きだったりでろくにデートなどできなかったというのが事実。
それでもその婚約期間でキスを重ね、身体も重ねた。もちろん愛を囁いたし彼女からも伝わる程の感情を貰った。
キスもセックスも僕から。
好きを伝えれば微笑み私も好きですと答えてくれるけれど自分からは言ってくれない。
甘えるのだってそうだ。
この間なんかソファで隣に座ってテレビを観てるときに僕の肩に寄りかかってくれた……と思えばすぐにガバリと背筋を伸ばして「すみません!」と謝ってきた。僕は震えるくらい嬉しかったのに。
「結婚したといって胡座をかいていたら駄目だろう。彼女は浮気をするタイプではないが、彼女に対して好意を寄せる男は僕の他にもいるからな」
「……惚れてらっしゃいますね」
「じゃなきゃ結婚しないさ」
徐々にでいいさ。
彼女に愛を送り、その十分の一でも同じように返してくれるのならば、充分だ。
◇ ◇ ◇
「……結婚して変わったこと?」
喫茶いしかわでマスターに聞かれた。
ニコニコと聞いてくるマスターはからかうという感じではなくて、ただただ私から惚気が聞きたいという様子だった。
「喫茶いしかわがきっかけの二人だからね。僕も心配なんだよ」
「もう! そんなこと言って!」
頰を膨らませてみたけれど実際怒ってなんかなくて、お客さんもいなければ急いでやることもないからおしゃべりくらい大丈夫。
何よりマスターは喫茶いしかわのマスターだから。
「変わったこと……あ、ひとり暮らしがふたり暮らしになりました!」
「いやそういうのじゃなくて」
違う違うと首を振るマスターに、ちぇっ騙されてくれなかった! とオーバーリアクションしたり。
「和樹くん、ゆかりのことすごく大事にしてるじゃない。そういうのが聞きたいんだよ~」
「大事には、してくれてますよ。すごく」
そう、とても大事にしてくれてる。
今日だってラストまで仕事だと言ったら夜道は危ないからと迎えに来てくれることになった。
歩くときは常に車道側。
重いものは私には持たせない。
この間は紙で少し切ってしまった指が治るまでハンドクリームを塗ってくれた。
すごくすごく、大事にしてくれる。
「には、ってところが引っ掛かるんだけど」
「えへへ、変な意味じゃないですよ! ただ……私、結婚してもらった立場だからあんまり好き好き言うのってどうかな~なんて」
「えっ?」
キスをしたときに見せてくれる優しい笑顔だったり身体を重ねたときに伝えてくれる愛情は私にも伝わる。
彼は私のことを好きでいてくれる。
それはわかるのに。
でも海外勤務のとき何も告げずいなくなってしまったことは、私自身が意外なほど気になってしまっているようで、いつかはまた離れていってしまうんじゃないかという漠然とした不安をどこかに抱えている。
「なんか、重いのって嫌そうじゃないですか? あんまり好き好き言いすぎたら冷められそうで……」
「ゆかり、和樹くんはそういう男じゃないでしょう」
マスターにたしなめられる。
わかってるの、でも駄目なの。
自分の容姿は十人並みだ。
彼の隣には私じゃない誰かがきっと似合うから。
「……なんでこんなに自信ないんですかねぇ」
「ゆかりは可愛いよ。和樹くんも君を好きで大事にしてくれてるよ。……それに何より、僕は和樹くんよりこの喫茶いしかわの看板娘の味方だからね」
「ふふっ! マスター大好き!」
「僕もゆかりが大好きだよ」
「マスター……人の妻を口説かないでください」
カラン……とちょうど良いタイミングで現れた和樹さんに「お疲れさまです」と声を掛ければ「ありがとうございます」とネクタイを緩める。
そういう仕草が格好いいって思っちゃうくらい、私は彼が好きなんだなって自覚する。
「私、着替えてきますね」
行ってらっしゃいと手をヒラヒラ振ってくれるマスターに手を振り返して私は更衣室に向かった。
◇ ◇ ◇
「……マスター」
「そんな怖い顔しないでくれよ。僕のは娘に対する好意だってわかってるだろ?」
「わかってますけど……」
わかってる。
ただ自分には言われないストレートな好意の言葉が羨ましくて仕方なかった。
なんでも良いから僕も好きだと言われたい。
なんなら寝起きにつぶやく「布団好き~」くらいのレベルでも良い。ちょっと贅沢が許されるなら干したての布団レベルで。
「……やっぱり重いですよね僕」
「そうかな?」
前に置かれるコーヒーにお礼を言って口を付ければ、ほのかな酸味が美味しかった。
「お待たせしました!」
エプロンを外した彼女はもう喫茶いしかわの店員ではなく僕の奥さんだ。
これからは、夫婦の時間だ。
そう思うだけで口角が緩んでしまう。
お疲れさまでした、とマスターに声を掛けて車に乗れば、助手席に座るのも随分と慣れたゆかりさんはしっかりとシートベルトを締める。
「今日のご飯なんですけど、こんな時間ですしあり合わせの物でも大丈夫ですか?」
「かまいませんよ。でも明日用の食材を買い出しに行くんだよね?」
「はい、お願いします!」
彼女は料理が上手だ。フレンチだとか懐石料理だとかそんなものではなく、ただの家庭料理の。優しい家族の味だ。
初めて肉じゃがを作ってもらったときは炊飯器の白米を空にしてしまったくらいだった。
あり合わせでもなんでも、彼女が作る料理が好きだ。




