62-3 ワガママのつりあい(後編)
「……また変な方向に行くねぇ君たちは」
「私だってこんなことになるとは!」
しとしとと雨が降る中、お客さまがなかなか入らないため、マスターと小話をしていた。
話題はもちろん、彼との間で交わされた約束事だった。
「しかも言ったら却下されるんです! この間なんて三日間会えなかったから三日分合わせて言ってくれって言われて大変だったんですから!」
「どんな?」
「今すぐお風呂入って、ご飯食べてしっかりと睡眠を取ってください! です!」
「それはワガママじゃないね〜」
あんな濃いクマを作っている人に言えるわけがない。ただでさえ忙しいのに、家でも誰かのために何かをするなんてして欲しくないのに。
「納得してなかったですけど、問題無用で寝室に閉じ込めました」
「ハハ、尻に敷かれてるね」
それなら良いんですけど、なんて言いながらもどうして彼がそんなことを言い出したのかがよくわからなくて困惑してしまう。
ワガママなんて言って、困らせてしまったらどうしよう。本当はもっと、女々しいワガママを言いそうになってしまう。
「不安?」
「えへへ……」
やっぱりマスターにはバレちゃいますね、なんて言いながら頰を軽く掻く。
カチャ、とカウンターから私の隣にコーヒーが置かれる。
「ちょっとだけ休憩しよっか」
人差し指を唇に置いて、そう言ったマスターはやっぱりお茶目だなぁなんて思いながら私はカウンターの椅子に座った。
「ねぇゆかり、和樹くんはね、不安なんだよ」
あんなに自信に満ちているような人なのに。いつも背筋をピンと伸ばして、地に足をついて駆け抜けていく人なのに?
「二人は交際期間なんてほとんどなかっただろう? しかもデートもほとんどできなかった」
こくり、と頷く。
でも別に結婚をしたことを後悔なんてしていないし、デートできなかったのは寂しかったけれど今こうして一緒に居られるから、不満なんてなかった。
「結婚して、一緒に住んだらお互いのことをよく知ることができるようになるだろう? 交際期間が短いと新たな発見があっていいよね」
よくわかる。
私の前で油断したように欠伸をしたりとか、少しだけ口調が崩れたりとか。
そういうのが見られると、すごく嬉しいの。
「でもね、嫌なことや許さないこと、許せないこともできてくる」
それはまだ、ない。
だって、彼はいつも優しいもの。
私はとても幸せ。
でもいつかは、それがつらいと思うことがあるのだろうか。
「そんな時に思い出すのって、付き合って一番幸せな時のことじゃないかなって僕は思うんだ。あくまで僕の持論だけどね。そういえばああしてくれたな、あの時あれで喜んでくれたなって……でも二人は、そんな時間が極端に少ないだろう?」
「ないわけじゃ、ないですもん……」
「うん、だからこその、今のワガママだろうね」
「だからこそ?」
「嫌われたくないから、許してほしいから、だからワガママを聞いてある程度のことは許してもらおうって算段なんだよ」
「えぇ〜? 和樹さんがそんなこと考えます?」
そうは見えない。
つくづく頭のいい人だとは思った事は何度もあったけれど、そういった計算はしないように見えた。なんでもストレートで誠実で、私に向き合ってくれる人。
「あとはまぁ、ただ単純にゆかりに甘えてもらいたいから、かな」
「えっ」
「今日のワガママ、ちょっとだけ甘えてみるものにしてみたらどうだい?」
マスターのお茶目なウインクを落とされてコーヒーを飲めば、口に広がった味は、いつもより少し苦くて、甘かった。
家に着いて、買ってきた食材を冷蔵庫に入れて洗濯物を取り込んで畳んで、ふと考える。
「甘えるってどうすればいいんだろ……」
はぁ、とため息を吐く。
甘えたいと思うことはあるけれど、ただでさえ忙しく何重もの大きい物を背負っている彼にこれ以上甘えてしまっていいのかわからない。
ワガママだって、できるなら言わない方が良いはずなのに。なんで彼はあんなことを言ったんだろう?
「ね〜。ブラン……君も男の子だから和樹さんの気持ちはわかる?」
知ってか知らずか、ブランは私の手の甲に擦り寄ってアンッとひと鳴きする。
「ふふ、ブランは甘えん坊さんだなぁ……あ」
そうよ、ここに素晴らしい見本がいるじゃない! 和樹さんもブランのことはすごく好きだから、ブランの真似をすれば嫌がることはないのでは!?
よし! 試してみよう!
もし! もしもそれが駄目だったら、即座に謝って、一生しないようにすれば良いのだから。
和樹さんが帰ってくるまで、あと二時間。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
家に着いてネクタイを緩めるとそれ以上に緩んでいる彼女の表情を見て自分も頬の筋肉が緩むのがわかる。
「どうしたの? なんだかご機嫌だ」
「うふふん! 今日のワガママが決まったんです!」
「へぇ?」
これは珍しい。
彼女はここ最近眉間にシワを寄せるくらい真剣に考えていたというのに。
まぁ、その考えたワガママも些細なもので、やって当然というようなものばかりなのだけれど。
「和樹さん! これから私がすることが終わるまで動いちゃ駄目だし私がやれって言ったことは絶対に聞いてくださいね!」
これはまぁ、なんというか。
ちゃんとしたワガママらしいワガママだった。
一体どんな可愛らしい悪戯をしてくれるのか。期待できるな。
と、余裕だったのは一瞬で散ってしまった。
「えい!」
可愛らしい声とともに、俺の胸に飛び込んで来た彼女。胸板にスリスリと柔らかい頰をすり寄せる。
背中には彼女の細い腕が回されていて、でもそんなものがなくとも俺はもう動けなかった。
「あの……和樹さん、なでて?」
これは夢か?
ゆかりさんが、僕に。甘えている。
「和樹、さん?」
おそるおそる、彼女の柔らかい髪をなぞって頭を撫でれば、嬉しそうに「えへへ」と笑いながら僕の胸にスリスリと擦り寄ってきて……駄目だ耐えられん!
「はい! もう大丈夫ですよ! これが今日の我儘です!」
「え?」
耐えられず抱き締めようとした瞬間、彼女はパッと離れて両手を挙げていた。
せめてあと十秒、いや五秒でいいからそのままでいてほしかった。
そしたら抱き締めて離さなかった。
「えーと……やっぱりこういうワガママって好きじゃなかったですか?」
「そんな訳ないだろ!」
しまった。
思ったよりも声を張り上げて言ってしまった。ビクリとした彼女を見てそう思ったが、その後嬉しそうに「よかったぁ……」と笑ってくれたのを見てすぐにポーンと頭から出て行った。
「あ、あとですね……これはワガママじゃなくてお願いなんですが……」
ワガママに続いてお願いだなんて、今日の僕は何かよほど良い行いをしたのか?
「なんです?」
「……今日で、私のワガママを十個聞いてくれたじゃないですか」
あぁ、そういえばあの三個連続のも我儘に入れれば十個にはなるな。あれは納得していないしまた今度上乗せするか。
「それでですね! 私のワガママが十個貯まるにつき和樹さんの我儘を一つ聞く! というのはどうでしょう!?」
言ったれ! 感を前面に出してきた彼女とその発想に面食らってしまった。
「本当なら一個につき一個聞きたいんですが、和樹さん私が寝るまでにあまり帰ってこられないし私が全部叶えられる気もしなくて……あぁっでもやっぱり公平じゃないですよね! やっぱり一個につき……」
「ゆかりさん」
頼む。待ってくれ。
思わず緩む口元を隠してしまう。
「……僕の我儘だと、ゆかりさんのワガママ十個と釣り合いが取れません」
「で、ですよね!? 私なんかが……」
「いえ、そうじゃなくて。僕の我儘、凄いですよ?」
「ど、どーんと来いです!」
言ったな?
悪いが言質を取らせてもらう。
「じゃあ早速ですが……」
「はい!」
「今すぐ寝室に行きたいです」
「はっ?」
頭の上に大きなはてなマークを浮かべるのがよく見える。
生憎、据え膳を食わないような優しい男ではいられない。
なにせ十二分に煽られたのだ。
「ね、眠いんです……?」
「そういう意味じゃないってこと、わかってるよね?」
ニッコリと笑ってみせればボッと赤面するゆかりさんに「ごめんね」と優しく言いながら距離を詰める。あぁもう、だから言ったのに。
「あ、あの……」
「やっぱり駄目?」
「じゃなくて……」
「うん」
あぁ焦らされる。
駄目じゃないのは反応でわかるがやはり言葉で聞きたい。僕を求めてほしい。
「……その我儘は、私のワガママの八個分、です」
「……っゆかりさん!」
「は、はい!」
「寝室行きましょう!」
「はい!」
あぁもうなんなんだこの娘は! 僕の妻だった!
半ばキレながらスーツのジャケットをハンガーに掛けることなく、寝室に飛び込んだ。
距離の詰め方がヘタクソなふたり、でした。
ここから考えると、今のゆかりさんはとっても甘え上手ですよね。




