1810年
ブノア家に住込みの家庭教師として雇われることになった高子は燃えていた。
明日からでも授業を開始できることをロランの母親であるソフィーに伝えたのだが、高子の怪我を気遣ったソフィーは二、三日ゆっくりと休養することを高子に勧めた。
家庭教師の話が決まった直後から、この時代のフランスで、ロランたちがどんな内容を、どんな指導要領で教えられているのかを調べ上げておく必要があると考えていた高子は、この空いた時間を使ってロランの教科書を全科目に渡って細かく調べ上げた。
教育実習の経験もあった高子は事前準備の大切さを身にしみて理解していたのだ。
高子はガチで取り組んだ。
図書館に通い、関連する事柄を調べ上げた上で、自分なりに指導方針を固めていく。
そして、その合間を縫ってブノア家の客間で開かれる康之をはじめとする仲間たちとの会合に出席する。
高子自身、何とかして康之たちの役に立ちたいという思いが強かった。
「・・・ということは、その屋根裏部屋の窓と下の路地を結ぶ直線上の空間にポータルがあったってこと?」
高子がこちらの時代にタイムスリップした時のことを聞いて、康之がテーブルの反対側座るギルバートにすがるような目を向けた。
「建物の外側からタイムスリップした・・・?」
口を開いたのは高子だった。
「・・・窓そのものだったのかもしれない。
確かに落下の途中って可能性もあるけど、ギルの話を聞いていると建物の外側にまで振幅は伝わらないような気がするんだ・・・」
高子の言葉に小さく頷くギルバートを目にして康之は安堵のため息を漏らした、
シモーヌがタイムスリップしてから既に十日以上が過ぎている。
そしてその間、ブノア家の客間ではタイムスリップの法則性を考察する会合が毎晩のように行われていた。
ジリジリしながら〝疼き〟がくるのを待っている康之にとって新たな不確定要素の出現は歓迎すべきものではなかったのである。
「私、今までのことを考えると、そんなすぐには振幅に変化は無いんだろうと思うな。
だって、一番初めに来たギルから最後の私までみんな同じ時代から来ているんだし、ロランとジュリアンが何回か往復したのも2012年とこの時代だけなんでしょ?
やっちゃんが言うようにすぐに出発できれば・・・
最上階の振幅が変わらないうちに出発できれば、きっとシモーヌたちのいる時代に行くことができるんじゃないのかな。
私、最上階の振幅が今後変わるのかどうかは、あまり問題じゃ無いような気がするんだ。
仮に、その振幅が変わったとして、その結果、考えられるのはどの時代に着くのかってことだけなんでしょ?
どの時代に着いたとしても、そこから戻って来るのは今私たちがいるこの時代なんだから、すぐに戻ってやり直せばいいんじゃないのかしら。
それに最上階自体がタイムマシンの機能を持つんだったら入口と出口は必ずその周辺にあるはず。
それなら場所的、地域的にとんでもないところに放り出される心配はまず無いんじゃないのかな・・・
それより問題なのは向こうとこっちの時間がすぎる早さの違いの方。
向こうへ着いて、どのくらいで彼らを発見できるか・・・
そっちの方がよっぽど重要だと思うな。」
「いずれにしても時間との勝負か・・・」
身じろぎ一つせずに高子の話を聞いていたギルバートがそっとため息を漏らす。
唇を噛んでテーブルに目を伏せていた康之が急に顔を上げた。
「なあロラン。お願いがあるんだ・・・しばらくの間、七階の空いてる部屋に泊めてもらえないかな?」
それを聞いた高子が康之を気遣うように再び口を開いた。
「で、でもやっちゃん、今の話はあくまで私の仮説だから・・・。
決して確証があって言ってる訳じゃ・・・」
高子の言葉は既に康之の耳には届いていなかった。
〝対応の早さが勝負だ。〟
ただそれだけが、その時康之の頭を支配していた。
隣の部屋から聞こえる微かな音で徹は目を覚ました。
ホテルに頼んで入れてもらった、小さなエキストラベッドの上で徹がそっと耳を澄ます。
並んだベッドからはジュリアンの静かな寝息が聞こえていた。
隣の部屋から聞こえる音は、その寝息とは明らかに別物であった。
どうやらシモーヌのすすり泣きのようだ。
そのうちに〝ヤン・・・〟という微かな声がすすり泣きに混じり、枕にでも顔を埋めたのであろうか、すすり泣きは聞こえなくなった。
〝浅川の野郎、いつまで彼女を待たせるつもりなんだ。
とっとと迎えに来ればいいもんを・・・。
こうなったら、俺がみんなをそっちに連れて帰ってやろうか。〟
ため息混じりに寝返りをうつと、徹は静かに目を閉じた。
ベッドで目覚めたシモーヌは不思議な思いにとらわれていた。
昨夜見た康之の夢に奇妙な現実味があったからだ。
起き上がって見てみると、着ていた夜着は乱れ、髪もぐしゃぐしゃになっているようだ。鏡に映った顔には、眠っているあいだに泣いたのであろうか、涙の跡がはっきりと残っている。
夢のことを思い出してシモーヌは思わず顔を赤らめた。
ベッドに身を投げ出して枕に顔を埋めると、シモーヌは小さな声で康之の名を呼んだ。
康之に会えない寂しさからシモーヌは毎晩のように康之の夢を見た。
そして無意識のうちに康之を求めて夜中に部屋出ては彷徨い歩くようになった。
『睡眠時遊行症』、夢遊病である。
ある夜、いつものようにホテルを彷徨い歩いていたシモーヌは、知らず知らずのうちに康之のいる1910年にタイムスリップしてしまったのだった。
その日、康之はロランに頼み込んでブノア家に宿泊していた。
康之が泊まった部屋は、康之たちの時代で徹が押さえたシモーヌの部屋であった。
気付かぬままに1910年に戻ったシモーヌは、ひとしきりホテルを彷徨い歩くと無意識のうちに自分の部屋へ帰って行った。
康之は部屋の扉が静かに開く気配で目を覚ました。
身体をベッドに起こした康之の目に映ったのは夜着の上に淡いブルーのガウンを纏ったシモーヌの姿だった。
驚いて目を見張る康之をよそに、シモーヌは康之ににっこりと微笑んで身体を預けると、夢でも見ているかのように静かに目を閉じた。
シモーヌをベッドに運んだ康之は、その隣にそっと身を横たえた。
シモーヌの静かな寝息が聞こえてくる。それを聞きながら康之は眠りに落ちた。
翌朝、寒さを感じて目を覚ますと、毛布が胸の位置にまで下がっている。
引っ張り上げて自分と隣のシモーヌを包み込もうとした時、康之は隣にシモーヌがいないことに気が付いた。
「シモーヌ・・・?」
呼びかけても返事がない。
飛び起きた康之が部屋の中を見回す。
もとより広い部屋ではない。視界を遮るような調度品は何もなかった。
廊下に飛び出して他の部屋や洗面所など、考えられる限りの場所を探して廻ったが、どこにもシモーヌの姿はなかった。
部屋に戻った康之はベッドに座り込んで首を捻った。
〝夢か、いや・・・〟
康之の手の中には昨夜のシモーヌの感触がはっきりと残っている。
ベッドに倒れ込んで何気なく毛布の下に手を差し込んだ康之はシーツが微かに暖かいことに気付いた。はっとして毛布をはぐってみると、ベッドは身体の形にくぼんでシモーヌがいたことを物語っていた。
〝やっぱりいたんだ・・・シモーヌ。じゃ、どこへ行った・・・?〟
康之は訳が分からず頭を抱えた。
一方、2012年に戻ったシモーヌは夢を見たのだと信じて疑いもしない。
康之の夢を見たことで、逢う事のできない康之への想いは募るばかりだった。
「ヤンっ、おはよう・・・あれ、どうしたの?」
最上階である七階の部屋を出てフラフラと階段を下りて来た康之を見上げて、ロランが声をかけた。その後ろには高子が笑顔を浮かべて立っている。
二人を目にした康之は疲れきった表情で欄干に身体を預けた。
そして昨夜自分が体験したことを二人に話していいのかどうか迷って曖昧な笑みを浮かべた。
「やっちゃん、どうしたの・・・何かあったの?」
ため息をついて口を開きかけたその時、身体の奥に強い疼きを感じて康之が目を瞠った。
康之の表情の変化に気付いた高子が慌てて階段を駆け上がる。
そして欄干から身体を離した康之の姿を目にして息を呑んだ。
康之の背後にある6-Bの部屋のプレートが透けて見える。
高子が目にしたのは背後の風景と同化しそうなほど身体の透けた康之の姿だった。
康之がタイムスリップしたとの知らせを受けた恭一たちはブノア家の客間に集まっていた。
恭一はにこやかな顔で一同を見回すと、その時の様子を二人に尋ねた。
一瞬、高子に目をやったロランがそれに頷いて話しを始めた。
「二人でヤンを起こしに行ったんだ。
そしたら廊下をフラフラ歩いてて・・・なんか様子が変だった。」
「えっ、様子が変だった?」
ギルバートが横に座ったロランの顔をのぞき込んだ。
「うん・・・なんだか不安そうな、悲しそうな顔して・・・」
ロランがそう言って高子に顔を向けると、高子がそれに頷いて話しを続ける。
「なんだかぼ~っとしてて、心、ここにあらずみたいな・・・
心配になって声をかけたら急に部屋に駆け込んで・・・
でも、バッグを抱えて出てきた時はすっごくうれしそうだったわ。
それで、その時にはもう身体が透けてて・・・
タイムスリップする瞬間って、自分でも分かるみたい。
完全に姿が見えなくなる寸前に私たちに〝行ってくる〟って言ってた。
なんだか向こう側から何かに引っ張られてるみたいに見えたわ・・・。」
「たぶん、急に疼きを感じて部屋に飛び込んだろうな。
・・・心、ここにあらずって、昨日の晩、何かあったのかな?」
顎に手を当てたギルバートが独り言でも言うようにそうつぶやいた。
瞬間的に辺りの空気が変わったのが分かった。
時間を飛び越えることを確信した康之は階段の下にいる二人に叫んだ。
〝行ってくる、たー子、ロラン。みんなに心配しないように伝えてくれっ!〟
自分の発した言葉がどこまで二人に聞こえたのかは分からない。
しかし康之には棒立ちになったロランと階段を駆け上がって来た高子がそれに頷くのがはっきりと見えた。
そして二人の姿が透けていく。
それと同時に自分の顔を照らしていた窓から差し込む朝日も次第に落ちていった。
気が付くと康之は薄暗い廊下に立っていた。
嫌な匂いに鼻を突かれ、顔をしかめて周囲を見回すとそこから上に続く階段は無かった。
〝えっ、確か六階から来たはずなんだけど、ここって・・・六階が最上階なの?〟
薄暗い建物の中の様子は2012年の自分がいたホテルとは明らかに違って見えた。
〝どこだ・・・ここは?〟
てっきり2012年に帰って来た考えていた康之が首を捻る。
しかし建物内部の構造は見た目には自分がタイムスリップしたホテルと、そしてブノア家と同じようだ。
すぐ頭に浮かんだのは、ここが2012年でも1910年でもない、どこか違う時代のブノア家の建物ではないか、ということであった。
廊下を巡ってその階を廻ってみると、やはりホテルやブノア家と同じような造りになっている。
そして康之はいくつかの部屋の扉に名前らしきものが書かれた粗末な板きれが釘で打ち付けてあることに気が付いていた。
〝ここってアパートかなんかかな・・・?〟
どこかの部屋で泣いている子供の声が薄暗い廊下を渡って康之の耳に届く。
とにかく建物の外に出てみようと康之は一気に階段を駆け下りた。
そして入口の扉に取り付くとそれを乱暴に押し開ける。
異臭が康之を襲った。
〝うわっ、なに・・・この臭い?〟
口と鼻を両手で押さえて舗道に出た康之の目に飛び込んできたのは、黒い泥のようなもので覆われた舗道だった。
悪臭の原因はどうやら、この黒い泥のようなものらしかった。
泥で滑りそうになりながら表通りに出た康之は道の上の泥を跳ね飛ばしながら走り抜けていく馬車を目にして立ちすくんだ。
唖然として辺りを見回すと、ブノア家がある見慣れた街と寸分変わらない街並みが目に入った。
「そこどきな。かかっても知らないよ!」
突然上から降ってきた女の声に驚いて声の聞こえた方を見上げると、窓から身を乗り出した女が鍋のようなものから、何かを下に向かってぶちまけるのが目に入った。
それを避けて建物の壁に身体を寄せる。
今まで立っていたところに落ちてきたのは人間の汚物だった。
舗道に落ちた汚物の滴が身体にかかるのを避けて、康之は身体をピタリと壁に寄せた。
ここは自分が最初にタイムスリップした時代より遥か昔のパリのようだった。
〝振幅が変わったのか・・・なんでだよ・・・〟
為すすべもなく空を見上げると、さっきまで輝くような光に満ちていた空は鈍い鉛色の雲に覆われていた。
ドアをノックする音に気付いてロランが教科書から顔を上げた。
ロランと向い合せに座った高子が 〝どうぞ〟と声をかけるとドアが少しだけ開いて、クラウスが顔をのぞかせる。
勉強中だったらしい二人を見てクラウスが遠慮がちに言った。
「あっ、続けて・・・。いや、別に大した用事じゃなんだ。」
「コンニチワ! どうしたの、お兄ちゃん。入ってきなよ。」
眠気と格闘しながら高子の授業を受けていたロランが目をパッチリと開いてうれしそうな声を上げる。
「いらっしゃい、クラウス。そろそろ休憩を取ろうかと思ってたところなの。
どうぞ、入って。」
オズオズと部屋に入ると、クラウスは抱えていた箱を高子に差し出した。
両手でそれを受け取った高子が首を傾けてクラウスを見上げる。
「いや、あの・・・それ、ビスケット。昨日の晩に来た時、タカコが今日から授業を始めるって言ってたから、その・・・勉強の合間にでもロランと二人で食べてもらおうかなと思って・・・」
「うわあ、ありがとう!
先生、僕、下に行ってお茶を入れてくれるように頼んで来る。」
ドアをいっぱいに開いて部屋から飛び出して行ったロランがひょこっと扉から顔を出した。
「三人分頼んできていいよね。お兄ちゃん、ちょっとは時間あるんでしょ?」
クラウスが頷くとロランはきびすを返して廊下を駆けて行った。
クラウスは高子がブノア家に運び込まれて以来、毎日朝晩、高子のもとを訪るようになっていた。
用事があるわけではなく、むすっとした顔で部屋をのぞいて、ただ高子の顔を見ては二言三言、言葉を交わし、そしてホッとしたような顔になって帰って行く。
それがこのところのクラウスの習慣となっていた。
初めのうちは、口下手らしいクラウスの言葉の中にある思いやりと優しさに戸惑っていた高子だったが、次第に打ち解けてくるにしたがって、素直にそれを受け容れるようになっていた。
高子はクラウスが帰り際に見せる笑顔の虜だった。
彼女によれば、部屋に来た時と帰る時の落差が〝ス・テ・キ!〟なんだそうである。
高子に視線を戻したクラウスが口を開く。
「手首はもう大丈夫かい?」
クラウスに見つめられて、高子は頷きながらポッと頬を染めた。
それを見てクラウスが微笑みを浮かべる。
しばらくのあいだ二人が見つめ合っているとドアを勢いよく開いてロランが部屋に飛び込んできた。
それに気付いた二人がサッと距離を取る。
ロランがスッとチェシャ・キャットの笑みを浮かべた。
「あらっ、ひょっとして、お邪魔だった?」
「なに言ってるんだよ。お邪魔なのは僕のほうだよ。ささ、座って。」
慌てたクラウスが引きつった笑顔を浮かべる。
「ロラン、大人をからかっちゃダメよ。」
頬を染めて潤んだ目のまま、高子もロランに顔を向けた。
教師の威厳もなにもあったものではない。
ロランが口の端を顔からはみ出しそうになるくらいまでいっぱいに引いて〝ニヤッ〟と笑った。
急に降り出した雨が康之の頬にあたる。
〝今度は雨かよ・・・〟
早く1910年に戻った方がいいのか、一方でシモーヌがこの時代にいるかもしれないという考えも捨てきれず、たった今出て来た建物の近くに留まっていた康之は雨宿りのできる場所を探して通りを歩き出した。
当てずっぽうに歩き廻り、偶然に入った路地で繁盛している店を見つけて中をのぞき込む。
どうやら居酒屋のようだ。
もとより、この時代の通貨は持っていない。
〝このくらい混雑してれば、一人ぐらい紛れ込んでも分かりゃしないだろう。〟
康之はドアを開けて店の中へ入って行った。
壁際に立って店内を見回すと、労働者風の男たちが手に手に酒の入ったカップを持って、仲間たちと大騒ぎをしている。
近所に住む常連客なのだろう。みんな少なからず、でき上がっているようだ。
初めて見る新顔の康之を気に止める者はいなかった。
ほっと胸をなで下ろした康之は荷物を床に置こうと屈み込んだ。
「おい、兄ちゃん。そんなとこに荷物置かねえほうがいい。誰かに持って行かれちまうぞ。」
背中に声をかけられて康之がぎょっとして振り返ると、そこにはワインのカップを持った一人の男が立っていた。
三十過ぎの人の良さそうな男である。
丸顔をアルコールで赤く上気させ、ご機嫌のようだ。
「あれっ、おめえ東洋人か? ここらじゃ見ねえ顔だな。
まあ、そんなこたあどうでもいいや。あそこで一緒に飲もうぜ。」
男は戸惑った顔で頷く康之の肩に太い腕を回すと、強引にテーブルへ引きずって行った。
男は近所に住むパン職人であった。
親方に弟子入りして腕を磨いたのだが、年季が明けてみると新しい決まり事ができて、親方になるための認可料が払えず、自前でなんとか仕事をしているのだと彼は言った。
「そりゃひでえもんだぜ。だってそうだろ。こっちはいずれ親方になるつもりでキツイ仕事がまんして何年も勤め上げてきたってのによ。いざ弟子を取って工房開こうと思った途端に、なに、認可料?
そんなもん今までなかったじゃねえか、ってなもんよ。
まっ、親方に仕込まれた腕があるから、独り立ちしてなんとかやってるけどよ。
そう言や、兄ちゃん。兄ちゃんは何して稼いでるんだ?」
「・・・いや、僕は少し前にここに着いたばかりで・・・日本から。」
「なに、日本。ヤパンか? 兄ちゃん、やっぱり東洋人だったのか。いや、珍しいな!
ここいらじゃあ、東洋人はシノアぐらいしか見たことねえよ。
ところで兄ちゃん。日本ってのは、いってえどこにあるの?」
「日本は中国の先にある島国で・・・」
「おおっ、中国の先か!
とんでもねえ遠くから来たんだな。いや~長旅ご苦労だった。
そんじゃまあ、旅の無事を祝して兄ちゃんも一杯やんなよ。」
「いや、僕は・・・」
「えっ・・・酒場に酒・・・飲みにきたんじゃねえの?」
男がワインのカップを持ったまま、あきれたような表情を浮かべた。
「なんか訳ありか、おめえ・・・
んっ、ひょっとして日本から売られてきたのか・・・?
そんで、そのひでえ親方のとこから逃げ出してきた徒弟かなんかか・・・?」
「ち、違・・・」
「大変だったな・・・中には、ひでえのがいるらしいんだよ。
でも、もう心配はいらねえぞ。
今ここにいる連中は、みんな俺の仲間だ。
みんな俺と同じで、年季は明けたもんの、金が払えなくて親方になりそなった奴らなんだ。ここで仕事の情報なんかを交換しながら、みんなしてなんとか食ってる。
兄弟えみてなもんよ。
もし、おめえんとこの連中がおめえを探しに来ても心配いらねえぞ。
俺たちが力合わせて守ってやっからよ。」
男は一人で納得して何度も頷くと、手にしていたワインを一気に飲み干し、康之の肩を大きな手のひらで叩いた。
自分を逃亡してきた徒弟と勘違いし、しきりに身の上を心配してくれるこの男に康之は次第に親近感を覚え始めていた。
そして二度目のタイムスリップという事もあって度胸も座っていた。
〝出たとこ勝負で本当のこと言っちまおうか・・・〟
康之が真剣な顔で男を見つめていると、男はそれに気付いて〝んっ、どうした?〟とでも言いたそうな顔で康之に目を向ける。
男の無邪気な顔を見て、康之は思い切って話を切り出した。
「日本からやって来たっていうのは本当なんです・・・2012年の日本・・・
それで、こっちに着いたら、どうしてなのか自分でも分かんないんだけど、1909年に紛れ込んで・・・そして今度は、そこから・・・ここに・・・来ちまったの。」
酒を注文しに行こうとして、立ち上がりかけた男が中腰のまま動きを止めた。
「来ちまったの、って・・・兄ちゃん、おめえ酔ってる?
・・・いや、俺が酔っぱらったのか。
俺の聞き違いか・・・? あの・・・もういっぺん言ってみ。今なんつった?」
「いや・・・だからその・・・」
康之は今までに自分の身に起こったことを男に話して聞かせた。
話を一通り聞き終えた男が豪快な笑い声を上げた。
「なに~っ! 2012年のヤパンから1909年のパリ、んで、そこで年越した?
ほお~っ、そりゃあ~豪気だな。
訳ありどころの騒ぎじゃねえな!
よしっ、そんなら、もしも俺がおめえの時代に行ったら、俺の面倒を丸抱えでみてくれ。
その代わり、ここじゃ俺が兄ちゃんの面倒をみてやる。
おめえは俺の時代にいる限り一銭も金は出さなくていいぞ。」
そう言って、笑いすぎて浮かんだ涙を太い指で拭った。
「しっかし、おもしれえこと言う兄ちゃんだな、まったく。」
それを聞いた康之がにこっと笑顔を浮かべてポケットから小銭と紙幣を引っ張り出す。
男はそれを受け取ると、まじまじと眺めて顔色を変えた。
「・・・今の話、ホントなの・・・?」




