高子
〝いったいこれからどうしたらいいんだろう・・・〟
大岩高子は窓越しに空を見つめて深いため息をついた。
職場で知り合った男に恋をして、はるばるパリまでついてきた。
そして今、彼女は一人、ホテルの部屋で途方に暮れていた。
彼女の職場は新宿のクラブ。接待飲食店である。
二年前の夏、高子は両親を交通事故で亡くしていた。
今の仕事は大学で教員を目指して勉強していた高子が学費を捻出しようと始めたバイトだった。
しかし思っていたほどギャラも手元に残らない上、勉強と夜のバイトの両立も難しかった。
仕方なく大学を休学した高子は仕事に専念した。
ある程度の資金を作った上で大学への復学を考えたのだ。
そうするうちにあることがきっかけでフランチャイズの学習塾の存在を知ることになる。
高子は舵をきった。
大学に戻るのではなく、資金を貯めて学習塾を開くのだ。
それが高子の新たな夢となった。
そんな矢先、その男は現れた。
男は肝いりで店に入ったフランス人の料理人ということであった。
パリで店を持つという自分の夢を熱く語り、それを実現する時に一緒にいて欲しいと男は言った。
その話を聞くうちに、高子はそれを自分の夢のように考えるようになっていった。
高子の出身は秋田県。
秋田には美人が多いと言われているのだが、彼女はその恩恵に恵まれてはいなかった。
しかし男は言った。
あなたは美しい・・・私の女神だと。
〝外国の人の好みって、そうなのかしら・・・〟
甘いっ! と言わざるを得ない。
どこの国の男が見ても美人は美人だが、その反対もまた、しかりである。
両親に会って欲しいと男に言われ、高子は必死になってフランス語を学んだ。
しかし、それは真っ赤な嘘であった。
男はただ単に日本を逃げ出したかったのである。
行きがけがの駄賃として目を付けられたのが高子であったということに過ぎない。
恋は盲目、あばたもえくぼ・・・罪作りな話である。
高子は理性と常識を完全に失っていた。
騙されたと気付いた時には既に遅かった。
男は高子の貴重品が入ったバッグを持って姿を消した。
手元に残ったのは、万が一のために男にも内緒でスーツケースに仕込んでおいた現金が少しだけだった。
これでは日本へ帰ることもできない。
〝大使館で事情を話したら、お金貸してくれるかな?
警察で被害届を出すのが先なのかな・・・〟
とても日本へは連絡できなかった。
親身になって自分を止めてくれた店の仲間や友人たちを押し切って、男についてここまで来てしまったのだ。
日本に帰ったところで、そんな自分を待っている者など誰もいない。
部屋の窓から見える夕暮れの空には、既に灰色をした三日月が浮かんでいた。
そこは、そのホテルの中でも一番料金の安い屋根裏部屋であった。
〝お父ちゃんとお母ちゃんが巻き込まれた事故の現場に花を供えに行った時もあんな三日月・・・出てたな。〟
高子はそれまで空を見つめていた安宿の窓を少しだけ開けた。
〝花の都か・・・私には関係ない。
空に浮かんだ三日月は鈍い光を放って、自分を嘲笑っているかのように見えた。
それを見た瞬間、高子は衝動的に死を思った。
観音開きのガラス窓をいっぱいに開け放って、窓の縁に立つ。
ここから飛べば全てが終わるのだろう。
下の路地を見下ろして、三十メートルくらいかと高子は見当をつけた。
高校時代に高飛び込みの選手っだった。
東北大会までは行ったのだがインターハイには出られなかった。
ふと、そんな記憶が頭をよぎる。
下の路地はひっそりとして、通行人は一人もいなかった。
真下に障害物は何も無い。
「頭から突っ込んでやる。顔なんかグジャグジャになればいいんだ。」
低く声に出してそう言うと気持ちが固まった。
高子はあの時のように背筋をピンッと伸ばして空を見上げた。
そして自分の来世を神に祈った。
〝今度生まれてくるときは絶対に美人に生まれてきたい。〟
高子は薄墨の空に浮かぶ三日月を睨んで、そう念じた。
三日月は少しだけ浮かんできた涙で歪んでいた。
もう一度路地を見下ろす。
目を閉じて、そして、飛んだ。
「なあ、ギル・・・」
「ん、どうした?」
「・・・いや、今日の話で、すぐにでもヤンに向こうに戻ってもらうってことになったけどさ・・・本当にヤンを行かせちまっていいもんかな?
ギルの言ってた最上階の振幅の変化ってのが気になって仕方ないんだよな・・・」
「う~ん・・・でも、さっきも言ったけど、早く向こうへ行って二人を保護するってのは必要だと思うな。
それに、少なくともロランは実際に戻ってきてるし、僕たちだって向こうからこっちに来てるわけだろ・・・」
康之たちと一緒に恭一の部屋を出た二人は、今しがたロランを家まで送り届けたところだった。二人の部屋はそれぞれがロランの家からそう離れてはいない。
「・・・そりゃそうなんだけど、もし仮にそれが変わってたらヤンはどこに行くのか検討が付かないわけだろう・・・
大体、科学やら物理やらの法則で説明が付くもんなのか、タイムスリ・・・」
クラウスが急に言葉を飲み込んだ。
彼らが歩いていた路地に面したレストランのテラステントにすごい勢いで何かが落ちてきたのだ。
そのレストランは、たった今ロランが入って行った建物の隣にあった。
落下してきた物体はテントでバウンドすると路地を飛び越えて、反対側に停まっていた荷馬車の荷台に飛び込んだ。
高子は落ちる途中で目を開いた。
落下に加速がつく寸前、無意識のうちに身体にひねりを入れながら上体を起こすという高飛び込みの回転の体勢を取ってしまったのだ。
気付いた時には、両足を両手で抱え込むようにして、上体に引き寄せるという回転に入る直前の体勢になっていた。
〝しまった! 〟と思った瞬間、一気に回転に加速がついた。
高飛び込みは通常十メートルの高さから飛び出す。
しかし、今回の場合、約三十メートルと高子は踏んでいた。
そうなると回転の回数が読みきれない。
早めに身体を開いて着水の体勢を取らないと身体のどの部分から地面に激突するか分からないのだ。しくじれば、死にきれずに一生半身不随で生きることにもなりかねない。
見開いた高子の目に飛び込んできたのは、路上に張り出した真っ赤なテントだった。
〝えっ、どうして! さっきはあんなの無かった。〟
そう思った瞬間、回転途中の中途半端に身体を丸めた背中からテントに突っ込んでいた。
テントではじかれ、その衝撃で高子は意識を失った。
幸いテラス席に客の姿はなく、荷馬車の持ち主も不在であった。
荷台には農作物でも運んできたのだろうか、葦で編まれたカゴがたくさん重ねて積んである。
荷馬車に駆け寄ったクラウスが荷台をのぞき込むと、そこは落下物の衝撃でもうもうとほこりが舞っていた。
クラウスを追ってギルバートが馬車の荷台に手をかける。
クラウスは固まったように荷台に目を注いでいた。
「ギル・・・人だ・・・女の子が落ちてきたんだ・・・」
クラウスの視線を辿ったギルバートの目に映ったのは東洋人らしい女性の姿だった。
彼女は夥しい数のカゴに埋もれて気を失っていた。
彼女が埋まっているカゴを取り除こうと手を伸ばしたクラウスをギルバートが止める。
「クラウス、やたらに動かさないほうがいい。」
ピタッと手を止めたクラウスがギルバートに顔をむける。
クラウスの物問いたげな視線を受けてギルバートが頷いた。
「大丈夫だと思う。呼吸はしてるみたいだ・・・
身体も不自然に曲ちゃいないから、重大な骨折も無いだろう。」
「なに言ってんだよっ! あの勢いで落っこちてきたんだぞ。
・・・病院・・・早く医者に見せないと。」
「分かってるっ!
内臓にダメージ受けてる可能性もあるからな・・・でも・・・どうしたしたらいいかな?」
「どうしたらって何がっ! すぐに医者に連れて行かないと。」
「クラウス、よく見てみろよ。彼女の着てるもの・・・シャネルのスーツを着てるんだよ。」
「・・・えっ、なんか問題あるのか?」
「いや、だから、この時代、シャネルは帽子屋なんだよ。スーツはまだ作ってないんだ。」「えっ?」
自分を見つめるクラウスの視線に気付いてギルバートが顔を上げる。
そして彼女が落ちてきたテラステントの上を見上げた。
クラウスがその視線を追う。
「ほら、ロランの家だ。僕たちがタイムスリップしたホテルだよ。」
ギルバートの言葉にクラウスが息を呑む。
「スーツだけ見て、どの時代から来たかは分かんないけど、彼女もタイムスリップしたんじゃないのかな。」
「どうする・・・?」
「ロランに事情を話して彼の家に運びこもう。なにしろ、あまり動かしたくないんだ。
そこで医者を呼んでもらうのが一番だと思う。
今はクラウスの言うように、一刻も早く彼女を医者に見せることを考えるべきだ。」
クラウスから事情を聞いたロランは日本からやってきたヤンの知り合いが〈アンリの店〉へ向かう途中、暴漢に襲われて怪我をしたという事にして高子を家に入れた。
使用人たちがベッドマットを担架代わりに使って高子を客間へ運ぶ。
駆けつけた医者の診断では、幸い命に別状はなく、馬車の荷台に落ちた時に負った手首の捻挫と軽い打撲、あとは顔にできた擦りむき傷程度の軽いものだった。
その間、ギルバートが恭一はじめ、康之とロジェのもとへ走る。
事情を知らされた康之たちはすぐにロランの家へ駆けつけた。
客間に入るとクラウスが心配そうにベッドの傍らで高子をのぞき込んでいた。
医者を見送ったロランが客間に戻り、集まった康之たちに診察の結果を伝える。
康之たちは顔を見合わせ、ホッと胸をなでおろした。
そして高子が目を覚ました時にパニックに陥る可能性が話し合われ、クラウスとロランがそれに備えて寝ずの番を買って出た。
ベッドの上で身動き一つできずに高子は固まっていた。
ここがどこで、自分がどうしてここにいるのか、まったく見当がつかなかった。
左手首がなにかで固定されて包帯が巻いてある。
着ているものを手探りすると、どうやらワンピースの寝巻きのようだ。
〝あの後、私どうなったんだろう? ここってあの世・・・?〟
違うような気がする。
〝死ぬ時は三途の川を渡るって言うけど、渡った覚え無いしな・・・。
それに見張り役みたいなのが二人もいる。
椅子にもたれて寝てるの、あれ・・・ナマハゲ?
違うわよね、頭ちょっと薄いし・・・。
ベッドの足元に突っ伏してるの、子鬼・・・?
う~ん、ツノ、無いしな・・・。
あっ、まずい。子鬼が動いた。
もう少し状況が分かるまで寝たふりしてた方がいいかな・・・?〟
そして、いつの間にか高子は再び眠りに落ちた。
「間違いないな。ユーロ紙幣だ。」
「発行されたのって、いつになってる?」
「え~と、2005年から・・・一番新しいので2010年だな。」
話し声が聞こえて高子は目を覚ました。
レースのカーテンから差し込んだ光がベッドの足元で踊っている。
夜は明けているようだった.
用心して薄く目を開けた高子は息を殺して辺りの様子を観察した。
どうやら昨日高子が着ていた上着を探っているらしい。
話しに聞き耳を立てているのだが、高子を気遣ってか、声が小さくて聞き取れない。
部屋にいるのは全員男性のようだ。十歳くらいの少年も二人混じっている。
昨夜、この部屋にいた二人の見張り役もいるようだ。
男たち服装を見て、高子はここがあの世ではないことを確信した。
「あれっ、日本の円だ! 一万円札かこれ? 五枚あるな。」
「ということは彼女、日本人・・・」
「どれどれ・・・あっ、福沢諭吉だ・・・やっぱり僕たちと同じ時代の人だよ。」
そう言って、男の一人がベッドの上の高子を振り返る。
〝あれっ、あの人・・・〟
振り返った男の顔を盗み見て高子の頭は混乱した。
見覚えがあるような気がしたからだ。
「おい、パスポートだ!」
「やっぱり日本か?」
「えっ・・・大岩高子・・・」
先ほど高子を振り返った男が再びベッドの上の高子に顔を向けた。
怪訝な表情を浮かべて近づいて来る。
「ヤン、どうしたの?」
少年の一人が男に声をかけた。
〝やん・・・?〟
男の名前を聞いた高子が朦朧とする頭をフル回転させる。
「いや、子供の頃、同級生で同じ名前の女の子がいたんだよ・・・違う人だとは思うけど。」
それを聞いた高子は思わず「あっ!」と声を出した。そして慌てて口を手でふさぐ。
男たちが一斉に高子に目を向けた。
ベッドサイドで高子を覗き込んでいた男が低い声でつぶやいた。
「えっ、たー子・・・?」
目を見開いた高子がまじまじと康之の顔を見つめる。
「ヤダっ・・・やっちゃん?」
そして二人は同時に「おおっ!」と声を上げた。
「うっそー、1910年!?」
驚いて口に両手をあてたまま、高子は唖然として康之の顔を見つめた。
康之が部屋に集まったみんなに自分と高子が小学校の時に同級生だったことを伝え、そして高子に、高子自身と自分たちが現在置かれている状況を説明したところだった。
「で、でも、いったいどうして・・・?
私、ホテルの部屋の窓から飛び降りて・・・」
「えーっ! たー子、お前、なんだってそんなところから飛び降りたんだ。
いったい何があったの?」
康之に見つめられて、口ごもりながら高子はこれまでの経緯を静かに話し始めた。
そして一通り話し終えると、テーブルの一点を見つめて身体を縮めた。
丸い大きなテーブルには集まった全員が高子を取り巻くようにして座っていた。
じっと話を聞いていたクラウスが立ち上がって高子の背後に廻る。
そして静かに高子の肩に手を載せた。
身を固くして高子がクラウスを見上げる。
「タカコ、お願いだからもう死ぬなんて言わないで。
ここでこうして会えたのも、きっと何かの縁だと思う。
いろいろ辛い思いをしたみたいだけど、タカコは今、生きてるんだよ。
何があっても僕が・・・いや、僕たちが全力でタカコを守るから。」
穏やかな眼差しでクラウスが高子を見つめる。
背後に立つクラウスを見上げていた高子の両目から音も無く涙が零れおちた。
「差し当たっての問題は、タカちゃんの住まいだな・・・。」
そう言って恭一がみんなを見渡した。
「う~ん、僕たちは全員男だから誰かの部屋に一緒に、っていうわけにもいかないしな・・・」とギルバートがため息を漏らす。
「そうだよな・・・タカちゃんにしてみれば、ヤンと一緒にいるのが一番安心なんだろうけど、ロジェの家でもうひとり面倒見てくれっていうわけにもいかないだろうし・・・」
じっと話しを聞いてクラウスがギルバートに顔を向けた。
「なあ、ギル。当分のあいだギルの部屋に僕を泊めてもらえないか?」
「それはかまわないけど・・・どうして?」
「僕がギルの部屋に移って、僕の部屋をタカコが使えばいい・・・。」
「なあクラウス。いい考えだとは思うけど、ああいうことがあったばかりなんだ。
今の段階でタカちゃんを一人にしない方がいいんじゃないかと思うよ。」
クラウスの、高子への想いを察した恭一がそう言ってクラウスを見つめた。
「でも、ギルのアパルトマンと僕のところは目と鼻の先だ。僕が毎日朝晩行ってあげられる・・・」
真剣な表情を浮かべてクラウスが恭一を見つめ返す。
「あのー、ターコお姉ちゃんが店を手伝ってくれれば、うちのおとうさん、いいよって言うんじゃないかな・・・
あっ、もちろん店を手伝うのは、ちゃんと元気になってからだよ。
僕、聞いてみようか?」
「だけど、ロジェ。今、空いてる部屋なんて無いだろう・・・?」
「なに言ってるのさヤン。それこそヤンが僕の部屋にきて、今ヤンが使ってる部屋をターコお姉ちゃんに使ってもらえばいいじゃない。」
「あっ、そうか!」
「それにアランも言ってたじゃないか、ターコお姉ちゃんはヤンと一緒の方が安心できるんじゃないかって。」
どうだ、いい考えだろうと言わんばかりの顔でロジェが全員を見回す。
みんなの話を黙って聞きながら、高子は涙が溢れそうになるのを必死で堪えていた。
今日、出会ったばかりの人たちが、こんなに真剣に自分のことを心配してくれているのだ。
両親を亡くして以来、虚勢を張るようにしてたった一人で生きてきた高子にとって、それは忘れかけていた人の温もりであった。
高子は身じろぎもできずに、ただじっと椅子に座っていた。
「ねえ、ターコお姉ちゃん。僕にお勉強教えてよ。」
「えっ!?」
隣に座ったロランに話しかけられて、高子が弾かれたように顔を上げる。
不意をつくような微笑みを浮かべたロランが高子を見上げていた。
「だって、さっき言ってたじゃない。学校の先生になるお勉強してたんでしょ?
僕の家ならお父さんの仕事を手伝ってる人たちもいっぱい住んでるし、部屋だってあるよ。
ターコお姉ちゃんも僕たちと一緒にこの家に住んで、それで僕にお勉強教えてくれればいいんじゃない?
ロジェも時間がある時はここで一緒にお勉強教えてもらおうよ。」
みんなの視線がロランに集中する。
それに気付いたロランが照れくさそうに白状した。
「いや・・あの・・・実はこのあいだ、おとうさんが帰ってきた時、僕の成績が落ちてるって、おかあさんがバラシちゃったんだ。
そしたらおとうさんが、誰か家で勉強教えてくれる人を探さなきゃいけないな、って言い出して・・・
その時は、〝うへえ~〟って思ったんだけど、僕、ターコお姉ちゃんみたいな先生だったらいいなあ~と思って・・・」
ロランがそう言って、無邪気な笑顔を高子に向ける。
決壊ぎりぎりで踏みとどまっていた高子の涙腺が一気に崩壊した。




