悪役令嬢の父親
「は……? え、嘘だろ……!?」
鏡に映る男の口が、自分の言葉と完全に同期して動く。頬を強く抓ってみるが、容赦のない激痛が走るだけだった。夢じゃない。本当に俺の顔が変わっている。
頭を抱え込んだ瞬間、こめかみの奥が焼き切れるような激痛に襲われた。
(ぐっ……あ、頭が……!!)
まるで脳内に大量のデータが濁流となって直接流れ込んでくるような感覚。
くたびれた社畜サラリーマン・高橋零としての記憶に重なるように、まったく見覚えのない「もう一人の人生」の記憶が、じわじわと脳の皺に染み渡っていく。
広大な領地の管理、血も涙もない冷徹な政治工作、王宮でのドロドロとした権力闘争の記憶——。
「っ……ふぅ……ふぅ……」
荒い息を吐きながら鏡を直視する。そこに映っていたのは、くたびれたスーツ姿の俺ではなく、整いすぎた冷艶な容姿に、凍てつくような鋭い眼光を宿した男だった。纏っている威圧感だけで、並の人間なら気絶しそうなほどのオーラがある。
記憶が噛み合わさると同時に、自分の名前が頭に浮かんだ。
レイン・ヴァルハルト。
「……待て。俺、主人公じゃなくて悪役令嬢の父親かよ!?」
静寂に包まれた部屋で、思わず声が裏返った。
混乱する頭をどうにか落ち着かせ、前世で擦り切れるほど読んだ大好きな小説『公爵令嬢に虐げられた男爵令嬢は、皇子に溺愛される』の内容を懸命に思い起こす。
俺が転生したのは、権力のためなら手段を選ばない冷酷非道な公爵、レイン・ヴァルハルトだ。
確か、妻の名前はエレナ・ランバート。レインと同じく公爵家の出身で、レインが彼女と結婚した理由は至極単純、「自家の権力をさらに伸ばしたいから」という政略結婚だった。
一方でエレナがなぜ結婚に応じたのか、小説の中に詳しい記述はなかった。だが、おそらく親から「権力のために公爵家へ嫁げ」と脅されたのだろう。
この夫婦関係は冷え切っていたどころの話ではない。
レインは娘のことなど都合のいい道具としか思っておらず、興味すらないため滅多に会わない。会ったとしても空気のように無視するか、氷のように冷酷に接するだけ。
妻のエレナも同様で、娘には一切関心がない。彼女は人を下に見るような性格で、現在はレインの屋敷とは別の別邸で好き勝手に暮らしており、年に数回顔を合わせるかどうかだ。つまり、幼い娘をこの屋敷に完全に放置していたのだ。
育児のすべては、雇われたメイドたちに丸投げ。
そうして育てられたのが、俺たちの娘——オリヴィア・ヴァルハルトだ。
幼い頃から父からも母からも一切の愛情をもらえずに育ち、冷酷非道な父親と、無関心で他人を見下す母親の悪影響をそのまま受けて育ったオリヴィアは、成長して見事な「悪役令嬢」へと変貌を遂げる。
学園に入学後は、平民や身分の低い貴族を陰湿にいじめ抜き、最終的にはこの物語のヒロインである男爵令嬢にまで手を伸ばした。そして数々の悪行が暴かれ、激怒した第二皇子によって惨めに処刑される——。
これが、小説におけるオリヴィアの辿る末路だった。
「……ハッ」
そこまで思い出して、俺は思わず息を飲んだ。
大学時代、この小説を買い始めた頃から、俺の推しはずっとオリヴィアだった。
洗練された美麗な容姿はもちろんのこと、冷酷な振る舞いの中にふと覗かせるギャップ、そして——悪役令嬢になる前の幼少期に見せたあの儚くも愛らしい笑顔。あの笑顔に俺の心は完全に撃ち抜かれたのだ。
……待てよ?
「てか俺……いま、オリヴィアの父親になったんだよな……?」
じわじわと頭の中で状況が整理されていく。
鏡を見る限り、自分の手はまだ老いていないし、記憶の中のオリヴィアもまだ幼いはずだ。ということは、彼女はまだ悪役令嬢になっていない!
(……嘘だろ? ということは……あの天使みたいな笑顔が、間近で見放題ってことか……!?)
胸の中で爆発的な歓喜と萌えが吹き荒れる。
いや、浮かれている場合じゃない。このまま原作通りに冷遇し続ければ、俺の推しはひねくれて悪役令嬢になり、最後は処刑されてしまうのだ。そんな最悪の未来、父親として絶対に阻止しなければならない!
「よし……まずは落ち着け俺。今はブラック企業のサラリーマンじゃない。冷酷非道な公爵、レイン・ヴァルハルトだ。公爵らしく振る舞わないと勘づかれる」
深く息を吸い込み、表情を殺す。社畜時代に叩き込まれた「無感情なポーカーフェイス」を作り、威圧感のある態度を意識する。
まずは現在の状況とオリヴィアの情報を集めるため、メイドを呼ぶことにした。
壁際にある呼び鈴の紐を静かに引く。
かすかな鈴の音が響いた数十秒後、控えめなノック音が鳴り、ドアがおそるおそる開いた。
「し、失礼いたします……レイン様。お呼びでございましょうか……」
部屋に入ってきた侍女の顔は土気色で、膝は目に見えて震えている。手にはお盆を持っているが、ガタガタと小さな音を立てていた。
公爵レインがいかに屋敷の奉公人たちから恐れられているかが、その怯えきった態度一つで痛いほど伝わってくる。
俺は胸中で「そんなに怯えないでくれ……」と汗を流しつつも、公爵としての威厳を崩さないよう、努めて低く冷ややかな声で問いかけた。
「……あぁ。今の時刻と、娘の様子を報告しろ」
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