プロローグ
高橋零の人生は、お世辞にも順風満帆とは言えなかった。
大学時代は何をするでもなく、ただ時間を浪費した。授業は適当にすごし、小説や漫画に読みふけり、自堕落な毎日に身を任せて流されるまま生きていた。そのツケは、社会人になった瞬間に一気に回ってくることになる。
就職した先は、まさに「ブラック企業」の代名詞のような会社だった。 残業など当たり前。上司の怒号が飛び交うフロアで、同僚たちはまるで死人のような顔で黙々と作業をこなしている。月に5日休みがあれば「今月はマシな方だ」と感じてしまうほど狂った環境で、給料は雀の涙ほどしかなかった。
そんな零にとって、唯一の救いが「書店」だった。
仕事が奇跡的に早く終わった日や、たまの休日。零は吸い寄せられるように近くの書店へ足を運ぶ。静まり返った店内の独特な空気、新刊の紙とインクが混ざり合う匂い、そして膨大な知性と物語が整然と並ぶあの空間そのものが大好きだった。大学時代、友人から「スマホの電子書籍の方が持ち運びも便利だし楽だろ」と言われても、零は頑なに紙の本を買いに足を運び続けていた。
そして、零が大学生の頃から欠かさず買い続けている大好きな作品があった。
タイトルは**『公爵令嬢に虐げられた男爵令嬢は、皇子に溺愛される』**。
いわゆる「悪役令嬢もの」と呼ばれるジャンルの小説だ。なぜ当時の自分がこの本を手にとったのか、今となっては理由すら覚えていない。ただ「表紙が気になって買ってみたら面白かった」……零の記憶なんてそんな程度だ。当時は知る人ぞ知るマイナーな作品だったが、じわじわと口コミで評判が広がり、今や来年にはアニメ化が決定するほどの人気作になっていた。
「よし、最新刊も買えたし、休みにじっくり読むか……」
疲れ切った体で書店を出た零は、『公爵令嬢に虐げられた男爵令嬢は、皇子に溺愛される』の最新刊と数冊の文庫本が入ったレジ袋を大事そうに抱えていた。
しかし、足取りは恐ろしいほど重い。連日の残業と極度のストレス、そして睡眠不足。零の体の限界は、前触れもなく訪れた。
――ガクッ。
膝から崩れ落ちる感覚。視界が急速に暗転し、地面が顔に迫ってくる。
意識が朦朧とするなかで、零の脳裏にふと「走馬灯」が浮かび上がった。 それは大学時代、居酒屋で友人にドヤ顔で語っていた自分の姿だった。
『俺には分かるんだよね。これから絶対にバズる小説や漫画を当てられる才能があるんだよ』
(……なんで今、こんなどうでもいい走馬灯を見てんだよ、俺……)
自嘲気味に心の中で呟く。手からこぼれ落ちた袋から、先ほど買った『公爵令嬢に虐げられた男爵令嬢は、皇子に溺愛される』の表紙が飛び出し、霞む視界の先に落ちていた。
もし、やり直せるなら。 別の生き方をしてみたかったな。 ……誰にも邪魔されずに好き勝手生き……た……い
そう思ったのを最後に、零の意識は完全に途絶えた。
――目を開けた。
そこは冷たいアスファルトの上でも、病院のベッドの上でもなかった。見上げれば、見たこともない天蓋付きの巨大なベッドの上に横たわっている。
部屋に並ぶ異次元レベルの高級品に戸惑いながらも、フラつく足取りで体を起こし、部屋の隅にある大きな姿見の鏡の前へと立ち尽くした。
「……え?」
鏡に映っていたのは、くたびれたスーツを着た自分ではなかった。
整いすぎた容姿に、冷酷そのものの眼光。鋭い威圧感を纏った、完璧なまでの貴族の男の姿。
その顔に、零は見覚えがありすぎた。先ほどまで読んでいた大好きな小説の表紙——将来「悪役令嬢」となって処刑されるヒロインの父親であり、国中から恐れられる【冷徹非道な公爵】その人の姿だったのだから。
まずは開いてくれてありがとうございます。最期まで読んでくれて嬉いです。よかったら次の作品も読んでくれたら嬉しいです。




