メイドの決意①
舞踏会までのカウントダウンが始まる中、オリヴィアの舞踏会に向けたレッスンが始まった。
食事のマナーや言葉遣い、貴族としての礼儀作法は、拍子抜けするほど最初から完璧だった。
それもそのはず、屋敷に隔離されていた長い年月の中、彼女はいつ公爵の前に出されても決して恥をかかせないよう、メイドたちから厳しく徹底的に作法を叩き込まれてきたのだ。幼い身で耐え抜いたその陰の努力と健気さは、目を見張るものがあった。
レインは自ら教えることも考えたが、天使のような娘の手を握って万万が一力加減を間違えたら……という恐怖と、自分の鼻血でレッスンを台無しにするわけにはいかないという断固たる決意から、王都でも一級品と名高いダンス講師の老婦人を買い叩く勢いで雇い入れた。
そしてレッスン開始からわずか三日後。
「素晴らしい……! 素晴らしいわ、オリヴィア様! まさに完璧! 動きのしなやかさ、リズム感、そして気品……どれをとっても完璧ですわ!」
大広間で優雅にドレスの裾を翻すオリヴィアを見て、ダンス講師が興奮のあまり手を叩いて絶賛していた。
「作法が完璧なだけでなく、まさかたった三日でワルツを完璧にマスターされるとは……! あなた様の才能とこれまでの努力、実に素晴らしいでございます!」
初日のレッスンこそ、部屋の壁際で腕を組み、冷徹な氷の眼光で見守っていたレインだった。だが、山のように積み上がった公爵領の執務を放置するわけにもいかず、泣く泣く途中で執務室へと足を戻していたのだ。
(くっ……! 本当は三日間ずっと張り付いて天使の舞を網膜に焼き付けたかった……! 忙しい時に限って怒涛のように押し寄せてくる仕事のバカ野郎……!!)
そんなレインの血の滲むような(脳内での)葛藤を知る由もなく、報告を受けた執務室で「見たかった……! 天使が舞い降臨した瞬間をこの目で見たかった……!!」と心の中で血涙を流していた俺だったが、表面上は冷酷なポーカーフェイスを維持していた。
しかし、講師が絶賛の言葉を残して辞去したあと、オリヴィアの表情は晴れるどころか、どこか不安げに曇っていた。
それに最初に気づいたのは、専属メイドのマリアだった。
講師を見送った後、一人ぽつんと大広間の窓辺で自分の小さな手を見つめるオリヴィアに、マリアは優しく寄り添うように声をかけた。
「オリヴィア様……? お顔色が優れませんが、どこかお体が痛みますか……?」
「あっ……ううん、大丈夫よ、マリア。ただ……少し、心配になってしまって」
「心配……でございますか?」
マリアが首をかしげると、オリヴィアは悲しげに眉を下げ、小さな声で胸の内を明かした。
「舞踏会は……エスコートしてくださるパートナーと一緒に参加するものなのでしょう……? でも……私、ずっとこのお屋敷にいたから、同年代のお友達も、知り合いのご令嬢やご子息様も一人もいないでしょう……?」
「っ……」
マリアの胸がキュッと締め付けられた。長い間、この広い屋敷に隔離され、外の世界との交流を一切断たれてきたオリヴィア。社交界デビューを果たすためのパートナーなど、いるはずもなかった。
「お父様に……『一緒に行ってほしい』とお頼みできれば一番良いのだけれど……」
オリヴィアはキュッとドレスの裾を握りしめ、ぽつりと溢した。
「そんなこと……言える立場じゃないもの。もしお願いして……また、昔みたいに冷たい目で見られたら……『身の程を知れ』って酷い言葉を投げかけられたら……私、怖くて……っ」
せっかくドレスを買ってもらい、優しく褒めてもらった今の「夢のような時間」が崩れてしまうのが怖くて、彼女はレインに頼むことすらできずに怯えていたのだ。
その言葉を聞いたマリアは、激しい衝撃と強い衝動に突き動かされた。
(オリヴィア様が……こんなにも努力されて、こんなにもお綺麗になられたのに……パートナーがいないなんて理由で悲しい思いをされるなんて、そんなの絶対におかしい……!)
昔の公爵様の冷酷さを思い出せば、全身の血が凍りつくほど恐ろしい。自分のような一介のメイドが口を出せば、即座にクビ、あるいは処刑されてもおかしくない。
それでも——あの健気な天使のような少女の笑顔を守りたい一心で、マリアは震える膝を必死に押しつけ、執務室へと向かった。
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