第9話 邂逅
島を離れても、あの守り手の最期が、まぶたの裏から消えなかった。
腕に残った、重さの不在。骨ばった、冷たい手の感触。守れ、という、掠れた声。それらを抱えたまま、俺たちは、再び、沈みの濃い方角へと歩き出した。源へ。そして、楔を壊して回る“連中”の、向かった先へ。
異変に気づいたのは、海沿いの崖道を、半日ほど進んだ頃だった。
前を行くカイラが、不意に足を止め、腕を横に出して、俺を制した。崖の陰から、そっと、先をうかがう。
その先に、人影が、あった。
三つ。いずれも、丈の長い、灰色の外套を、頭からすっぽりと被っている。顔は布で覆われ、見えない。背は、人のものより、わずかに高い。崖の縁、半ば沈みに呑まれた、小さな社の跡。その前に、そいつらは、静かに、佇んでいた。
動かない。風が外套の裾を揺らしても、彼らは、その場に縫い止められた影のように、微動だにしない。生きているものが持つ、あのかすかな揺らぎが、まるで感じられなかった。呼吸も、体重の移動も。
あたりには、あの匂いの無さが、漂っていた。生きているものの気配を、根こそぎ奪った跡。間違いない。あの守り手が言っていた、顔を布で隠した連中。各地の楔を、壊して回る者たちだ。
体の奥から、何かが、ぐっと、せり上がってきた。気づけば、拳を、固く握りしめていた。
あいつらが、あの島を。あの守り手を。そして、俺の故郷と同じものを、これまで、いくつも消してきた。
足が、ひとりでに、前へ出かけた。
「待って」
カイラの手が、俺の腕を掴んだ。低い声で、囁く。
「数も、相手の力も、分からない。飛び込むのは、無謀だよ」
その通りだった。頭では、分かっている。だが、それでも、握った拳の震えは、止まらなかった。
だが、その時。
灰色の外套の一つが、ゆっくりと、こちらを向いた。布の奥の、見えないはずの視線が、まっすぐに、俺を射抜く。
気づかれた。
隠れていても、仕方がない。俺は、崖の陰から、進み出た。カイラが、小さく舌打ちして、それでも、すぐ後ろに続く。弓に手をかけながら。
三つの影が、こちらを見据えている。逃げるでも、身構えるでもない。ただ、静かに。その不気味さに、背筋が、ざわついた。
「……お前たちが、やったのか」
声が、低く、掠れた。
「この島の核を、壊したのは。守り手を、殺したのは。お前たちか」
しばらく、沈黙があった。やがて、中央の影が、口を開いた。くぐもった、奇妙に平坦な声だった。
「壊した、のではない」
その言葉は、感情というものを、まるで持たなかった。
「返した、のだ。盗まれたものを、あるべき姿へ。それだけのこと」
「……何を、言っている」
意味が、分からなかった。盗まれたもの。あるべき姿。こいつらは、いったい、何を言っている。
問い返そうとした、その時だった。
影の一つが、すっと、手を上げた。その手の先、外套の袖から、黒いものが、にじみ出る。あの“無”によく似た——闇の、塊。
とっさに、刃を、握っていた。渦巻く闇を圧し固めた、黒い一振り。それを見て、影たちが、初めて、わずかに、動きを止めた。
「……その力」
中央の影の、平坦だった声に、初めて、揺らぎのようなものが、混じった。
「お前、何者だ。なぜ、人の身で、“あちら”の力を、宿している」
あちら。その言い方に、引っかかりを覚えた。だが、問い返す暇は、なかった。
影が放った闇の塊が、俺へと、飛んでくる。
刃で、払った。黒と黒が、ぶつかり、弾ける。手応えは、なかった。だが、相手のそれも、俺の刃に触れた一点で、消し飛んだ。
二合、三合。影たちの動きは、速さこそ大したことはない。だが、その攻撃は、掠めるだけで、触れたものを蝕んでいく。まともに食らえば、あの守り手と同じように、消えてしまう。
俺が前で影の攻撃をしのぎ、カイラが、横合いから、矢を射る。一本が、影の一つの肩口を捉えた。影が、よろめく。だが、傷口からは、血の代わりに、黒い靄が、漏れ出した。
人じゃ、ない。あの守り手の言葉が、よみがえる。人だったのか、どうかも、分からん。
三つの影は、互いに、声も合図も交わさない。それでいて、淀みなく、連携してくる。まるで、一つの意志に操られているかのように。じりじりと、押される。
守り手の最期が、頭をよぎった。あの、安堵した目。すがるような手。——許せない。
気づけば、俺は、踏み込んでいた。代償も顧みず、刃に力を注ぎ込もうとした。
「ヴェイン!」
カイラの、鋭い声が、飛んだ。
「一人で、突っ込まない!」
その声で、我に返る。あの戦いの時と、同じだ。我を忘れて、自分を見失いかけた俺を、カイラの声が、引き戻す。
俺が踏みとどまったのを見てか、あるいは、別の判断が働いたのか。影たちは、すっと、後退した。
中央の影が、最後に、俺を、じっと見据えた。
「お前のことは、報告する。人の身で“あちら”を宿す者……興味深い。いずれ、また」
言い終えるや、三つの影は、崖際の靄の中へと、溶けるように、姿を消した。後には、波の音と、半ば消えた社の跡だけが、残された。
張り詰めていたものが、ふっと、緩む。俺は、膝に、手をついた。全身に、嫌な汗が滲んでいた。さっき、我を忘れて踏み込んでいたら、今ごろ俺は、あの守り手のように、消えていたかもしれない。カイラの声が、なければ。
「……何だったの、あいつら」
カイラが、弓を下ろし、掠れた声で言った。その顔にも、隠しきれない戸惑いが、浮かんでいる。
「人が、相手じゃなかった。あんなの、初めて見た」
平静を装ってはいたが、その声は、わずかに、強張っていた。気丈な彼女でも、あの不気味さは、応えたのだろう。
分からない。だが、はっきりしたことが、いくつかあった。
あれは、ただの災いじゃない。明確な意志を持って、各地の楔を壊し、滅びを早めて回る、ひとつの“組織”。そして、奴らは、人ではない、何か。盗まれたものを、返すのだと、そう言っていた。
そして何より、奴らは、俺の存在を、知った。この身に宿る“無”を。人の身で“あちら”を宿す者、と。
あの言葉の意味は、まだ分からない。なぜ、俺の力を“あちら”と呼んだのか。盗まれたものとは、何なのか。
だが、確信もあった。その答えもまた、源にある。奴らが向かう、その先に。
俺は、奴らの消えた靄の彼方、沈みの最も濃い方角を、見据えた。
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