第8話 もう一つの島
その気配に気づいたのは、海沿いの道に出て、しばらく歩いた頃だった。
胸の奥が、かすかに引かれる。継承の時から、俺の内側に居座っている“無”。それが、ざわめき、海の方へと、引き寄せられていく。覚えのある感覚だった。故郷の島で、祠の核を前にした時の、あれと同じだ。
核がある。どこか、近くに。
目を凝らすと、入り江の先、さほど遠くない沖合に、小さな島影が浮かんでいた。
「どうしたの、急に止まって」
カイラが、怪訝そうに振り返る。
「……あの島に、何かある」
浜には、打ち捨てられた小舟が、一艘、転がっていた。誰かが逃げる時に、置いていったのだろう。俺は、その舟を、海へ押し出した。理屈じゃなかった。継いだ核が、同じ核を、呼んでいる。そうとしか、言いようがなかった。
櫂を漕ぐうちに、島の様子が、はっきりしてくる。近づくほどに、胸騒ぎが、濃くなっていった。
核の気配は、確かにある。だが、どこか、歪んでいた。故郷で感じたような、静かに満ちた気配ではない。引き裂かれ、薄れかけたような、ひどく嫌な感じだった。頼む、気のせいであってくれ。そう念じる間にも、舟は、ぐんぐんと島へ近づいていく。
島の、半分が、消えていた。
寄り添うように建っていたはずの家々。その向こう半分が、あの“無”に、ゆっくりと呑まれていく途中だった。断ち切られた境目から、屋根が、石垣が、音もなく溶けていく。逃げた跡すら、ない。あまりに、急だったのだろう。
残った半分の家々の窓は、どれも、開け放たれたままだった。慌てて飛び出した、そのままの形で。軒先には、干したままの洗濯物。土間には、転がった椀。ついさっきまで、確かに人が暮らしていた、その痕跡だけが、置き去りにされている。住んでいた者たちの姿は、どこにも、なかった。
そして、島には、何の匂いもしなかった。潮の匂いも、土も、煮炊きの煙も。ここにあったはずの、生きている匂いの何もかもが、根こそぎ、消えていた。故郷が消えた、あの時と、同じだ。
舟を捨て、島へ上がる。残った集落の中心に、見覚えのある形のものが建っていた。石造りの、古い祠。俺の故郷にあったものと、よく似ていた。
足が、すくんだ。
ノル島は、特別なんかじゃ、なかった。ここにも、核があり、祠があり、それを守る者たちが、暮らしていた。俺の島と、同じように。そして、同じように——消されていく。
「……誰か、いる」
カイラの、押し殺した声。祠の、半分崩れた石段の根元に、人が、倒れていた。
老いた、女だった。粗末な、祠を守る者の装束。俺は駆け寄り、その体を抱き起こす。まだ、息があった。だが、その脚は、あの“無”に触れたのか、輪郭が、薄く、滲み始めている。もう、長くはない。見た瞬間に、悟ってしまった。
老婆の、落ち窪んだ目が、ゆっくりと俺を捉え、何かに気づいて、見開かれた。
「あんた……継ぎ手、かい」
掠れた声だった。
「その身に……核を、宿しとる。あたしらと、同じ……」
言葉を失った。会ったこともないこの人が、ひと目で、俺の中の“無”を見抜いた。同じ、核を継ぐ者として。
その目に、ほんの少し、安堵の色がよぎった。最期の最期に、同じ務めを負う者に巡り会えたことが、せめてもの慰めだったのかもしれない。
「聞いて、おくれ……」
老婆の手が、すがるように、俺の腕を掴んだ。骨と皮ばかりの、冷たい手だった。
「来たんだ。顔を、布で隠した……連中が。そして、祠の核を……あたしらが命がけで守ってきた、楔を……壊して、いった」
壊した。あの、虚を堰き止めていた、核を。
「楔を壊されたら……堰が、切れる。沈みは、一気に、あふれる。……この島も、こうして……」
頭の奥で、声たちが、ざわりと、うねった。
そういうことか。世界の端から、ひとりでに広がっていくだけだと思っていた、この滅び。それを、誰かが、わざと、早めている。各地の楔を、一つ、また一つと、壊して回って。
「あんたの……核も」
老婆の声が、急速に、細くなっていく。
「いずれ、狙われる。あれだけは……壊させちゃ、ならん。守り、抜くんだ。あたしらの、ように……しくじり、は、せず……」
「待ってくれ。そいつらは、誰だ。どこへ行った」
思わず、問いかけた。だが、老婆は、もう、答えなかった。
その手から、ふっと、力が抜けた。腕の中で、その体が、静かに、重さを失っていく。やがて、滲んでいた輪郭が、ほどけるように、薄れて、消えた。
後には、何も、残らなかった。
俺は、しばらく、動けなかった。
腕の中に残る、確かにあったはずの重みの、その不在。これと、同じことを、俺は、一度、経験している。あの時、俺は、爺さんの手を、こうして握っていた。核を継ぎ、最期の言葉を、受け取った。
今度は、何も、受け取れなかった。ただ、見ず知らずの守り手が、俺の腕の中で消えていくのを、見ていることしか、できなかった。
救えなかった。また、だ。俺の力は、迫る影を斬ることはできても、もう失われてしまったものを、取り戻すことは、できない。この手は、いつだって、間に合わない。
また、一人。守り手が、死んだ。俺と、同じ痛みを、抱えていたはずの、誰かが。
いつのまにか、隣に、カイラが立っていた。何も言わず、ただ、俺の傍に。
「……ひどい」
ぽつりと、それだけ、彼女は言った。怒りとも、悲しみともつかない、低い声で。カイラもまた、こうして消えていく町を、いくつも見てきたのだろう。それでも、慣れることなど、決してないのだ。
立ち上がり、半分だけ残った祠を、見上げる。核の、あったはずの場所は、無残に、抉られていた。明らかに、人の手で壊された痕だった。
これが、答えだ。あの老人が言っていた、“連中”。沈みは、ひとりでに来るんじゃない——その、本当の意味。
俺の知らない、何者かが、この世界の滅びを、その手で、早めている。各地の楔を壊し、人々を消しながら。そして、そいつらは、いずれ、俺の核をも、狙ってくる。
守れ。あの守り手の、最期の言葉が、耳の奥に残っていた。
俺は、抉られた祠に、そして、何もかもが消えていくこの島に、一度だけ、深く頭を垂れた。名も知らぬ、同じ痛みを負った守り手へ。せめてもの、手向けだった。
次は、行かせない。この力が、続く限り。
背を向け、歩き出す。答えは、源にある。きっと、そこに。
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