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第4話 変わり果てた世界へ

 人の波は、皆、同じ方へ流れていた。

 俺だけが、逆を向いて歩いている。

 荷を背負った家族連れ、手を引かれる子ども、足を引きずる老人。誰もが、背後を——沈みの来る方を、怯えたように振り返りながら、海から遠い内地へと急いでいた。その流れに逆らって、俺は一人、沈みのある方へと足を進める。

 すれ違いざま、何人かが、奇妙なものを見る目を俺に向けた。なぜ、そっちへ行く。そう問いたげな顔。けれど、誰も口には出さない。皆、自分が生き延びるだけで、精一杯だった。

 道の脇には、力尽きた者たちが、座り込んでいた。もう歩く気力をなくした老人。乳飲み子を抱いて、虚空を見つめる女。誰も、足を止めない。助ける余裕など、もう、誰にも残っていなかった。逃げるということ自体が、いつ終わるとも知れない、緩慢な行軍になっていた。

 島を出て、どれくらい歩いたのか。数えるのは、とうにやめていた。小舟で流れ着いた岸から、ひたすら沈みの噂を辿って、ここまで来た。歩けば歩くほど、思い知らされる。沈んでいるのは、俺の島だけじゃなかった。

 島で生まれ、島で育った俺にとって、海の外は、爺さんの話の中にしかない場所だった。見たこともない、広い大地。大きな町。様々な土地の、様々な暮らし。本当なら、胸の躍るはずの、初めて見る世界。

 それが、よりにもよって、こんな姿で、目の前に広がっている。端から、静かに滅びていく姿で。

 途中で通り過ぎた村は、半分が“無”に喰われ、残り半分が、もぬけの殻だった。涸れた井戸。倒れたままの荷車。誰かが慌てて置いていった、片方だけの小さな靴。人の暮らしの匂いだけが、そこから根こそぎ抜き取られていて、ただ、うつろな静けさだけが残っていた。

 世界は端から、音もなく消えていこうとしている。爺さんのおとぎ話は、もう、おとぎ話なんかじゃない。

 行けども行けども、景色は似たり寄ったりだった。喰われた村。逃げる人の列。そしてその向こうに、いつも、あの“無”の気配が、薄く漂っている。世界の終わりとは、轟音とともに訪れるものだと、どこかで思っていた。違った。それは、こんなにも静かに、端から、じわじわと、すべてを舐め取っていくのだ。

 胸の奥では、相変わらず、あの声たちが低く嘆いている。継承の時に流れ込んだ、数えきれない古い声だ。眠ろうとすると、その嘆きが夢の中まで追いかけてくる。だから、近頃はあまり、眠らなくなった。

 腹が減っているのかどうかも、よく分からない。食わなければ動けないから、すれ違う誰かに分けてもらった硬いパンを、義務のように口へ運ぶ。味は、しなかった。

 もう何日、誰ともまともに口をきいていないだろう。逆を向いて歩く俺を、人々は、気味悪げに避けていく。たった一人で、滅びゆく世界を、その中心へと歩いていく。その孤独は、頭の奥にひしめく声の群れでさえ、埋めてはくれなかった。

 それでも、足だけは前へ出た。源へ。沈みの湧き出す、その場所へ。たどり着いて、これを止める。俺の血が招いたものに、俺自身が、けりをつける。それだけが、今の俺を動かす、たった一つの理由だった。

 生きろ、という爺さんの声は、胸のずっと底の方に、沈めたままにしていた。今は、聞こえないふりをするしかなかった。

 ふいに、足元で、小さな手が俺の裾を掴んだ。

 三つか四つだろうか。泥だらけの女の子が、心細げに俺を見上げている。どうやら、人の流れの中で、親とはぐれたらしい。

 ……放っておけ。お前には、やるべきことがあるだろう。

 頭ではそう思うのに、気づけば俺は、その場に膝を折っていた。

「親とは、どこではぐれた」

 女の子は、半べそで、流れの後ろの方を指す。俺はその子を抱え上げ、人波を少しだけ遡って、血相を変えて捜していた母親のもとへ返した。何度も頭を下げる母親に、俺は、うまく言葉を返せなかった。

 骨の髄まで染み込んだ性分は、心が麻痺しても、そう簡単には消えてくれないらしい。

 人のために使え、自分のことは、その後でいい。爺さんの教えは、こんな時でも、勝手に俺の体を動かす。皮肉なものだ。その教えのままに生きれば、俺はきっと、長くはもたないだろう。それでも、爺さんの遺したものを、無下にすることだけは、できなかった。

 女の子を返し、もう一度、沈みの方へ向き直った。その時だった。

 風に乗って、悲鳴が届いた。

 前方の、崩れかけた町の方からだ。一つじゃない。複数の、切迫した叫び。

 俺は駆け出した。崩れた家並みを抜けると、ひらけた広場に出る。そして、見た。

 “無”が、蠢いていた。

 ただ広がるだけだった、あの“無”が、今は形を持っている。獣のような、人のような、そのどちらでもない、黒く歪んだ影。それが幾つも、逃げ遅れた人々へ、ひたひたと這い寄っていた。影に触れられた者から、輪郭が解け、消えていく。

 逃げ惑う人々の悲鳴と泣き声が、広場に渦巻いていた。母親が子をかばい、男が棒きれを振り回す。けれど、その棒は、影をむなしくすり抜けるだけだ。当然だった。あれは、打って止まるような生き物じゃない。触れたものを、ただ静かに、無かったことにしていく。島を呑んだ、あの“無”そのものなのだから。

 虚が、魔物になっている。

 その光景に、頭の奥の声が、ざわりと反応した。共鳴するように、俺の内側の“無”が、騒ぎ出す。あれと、俺の中のものは、同じものなのだと、否応なく思い知らされる。あの魔物たちは、いわば、俺の血が解き放った“無”の、なれの果てなのだ。人を喰らうあの姿は、いつか、俺自身が辿りつく末路なのかもしれなかった。

 いつもなら、体が勝手に動いていた。けれど今は、違った。はっきりと、自分の意志で、足を踏み出す。

 怖くない、と言えば嘘になる。あれを断てるのは、たぶん、この世界で俺だけだ。そして、断つたびに、俺の内側の“無”は、また少しずつ、満ちていくのだろう。誰かを救えば、その分だけ、俺は、消えに近づく。

 それでも——目の前で人が消えていくのを、黙って見ていられるほど、俺は、できた人間じゃなかった。

 握った掌の中に、あの黒い刃が、ゆっくりと、形を成していく。


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