第3話 生きろ、という呪い
波の音で、我に返った。
いつのまにか、“無”の侵食は止まっていた。最後に俺が刻んだ消えない切れ目が、ぎりぎりのところで押しとどめたらしい。だが、残ったのは岬の先の、ほんのひとかけらだけだった。
背後を見ても、もう、島はない。
家も、井戸端も、祠も、何もかも。生まれてから見てきたすべてが、平らな海に変わっている。まるで、初めから何も無かったみたいに。今、俺が膝をついているこの岩だけが、ぽつんと世界に取り残されていた。
風は戻っていた。けれど、その風は、もう何の匂いも運んでこない。潮の香りも、土のにおいも、人の暮らしの気配も。みんな、あの“無”が、連れていってしまった。
腕の中で、爺さんは、もう動かない。
残った半身は、驚くほど軽かった。さっきまであんなに大きく見えた人が、今は、ひとかかえの荷物のようだ。
この小さな手に、俺は、何度、頭を撫でられただろう。祠の務めを教わり、悪さをして叱られ、それでも最後はいつも、この手が、ぽんと俺の頭にのった。その手が、今は、ぴくりとも動かない。
ついさっきまで、この人は、生きていた。皆を逃がせと、よく通る声で叫んでいた。それなのに。
朝に俺が祠を見て、夜に爺さんの昔話を聞く。そんな、なんでもない明日が、もう二度と来ない。その当たり前の事実が、どうしても、うまく呑み込めなかった。
生きろ、と。
最期に、そう言った。咎人の血は身を捧げて贖え——そう繰り返してきた人が、どうして、最後の最後だけ。
受け取れなかった。受け取りたくも、なかった。その言葉に頷いてしまえば、皆を逃がし、俺に何もかもを託して消えたこの人の死が、宙に浮いてしまう気がした。
沖から、声がした。
逃げ延びた村人たちの舟が、櫂を止め、こちらを見ていた。誰も、何も言わない。ただ、海に変わった故郷と、その縁にぽつんと残された俺を、呆然と見つめている。
やがて、一艘が岩に寄せられた。降りてきたのは、今朝、俺に蒸かし芋をくれた、あの婆さんだった。婆さんは、爺さんの亡骸に取りすがって、声を上げて泣く。長い付き合いだったのだろう。
俺は、というと、泣けなかった。涙の出し方を、どこかへ置き忘れてきたみたいだった。
婆さんが泣き、ほかの村人たちも、声を殺して肩を震わせている。皆、この島で生まれ、この島で生きてきた者たちだ。今日、失ったのは、爺さん一人じゃない。家も、畑も、舟も、先祖代々の墓さえも。慣れ親しんだ何もかもを、たった一日で、奪われたのだ。
残ったわずかな土に、皆で爺さんを横たえた。墓標もない、ただ石を積んだだけの場所だ。手を合わせると、頭の奥で、また声が蠢いた。
継承の時に流れ込んできた、あの数えきれない声。今は遠い潮騒のように、絶えず、低く、何かを嘆いている。
その声を聞いているうちに、ふいに、すべてが繋がってしまった。
爺さんのおとぎ話。開けてはならぬ蓋を開け、世界を沈め始めた、ある国。触れたものを“無かったこと”にする、あの力。それを今、俺は、この手に宿している。
咎人の血。
ずっと意味の分からなかった言葉が、ようやく、その本当の重さで、胸に落ちてきた。島守の家が、代々この核を守り続けてきた理由。身を捧げて贖え、と説かれ続けた理由。
おとぎ話は、よその国の話なんかじゃなかった。蓋を開けたのは——世界を沈め始めたのは、俺たちのご先祖だ。島守とは、自分たちが解き放ったものを、必死に押さえ込み続ける、罪滅ぼしの役目だったのだ。
だから爺さんは死んだ。俺の家が背負った罪の、その続きを、引き受けて。
目の前が、暗くなる気がした。今この手に握っている力。さっき、皆を救ったその同じ力が、元をたどれば、この世界のすべてを呑み込もうとしている、その根っこなのだ。救うことと、滅ぼすことが、たった一つの掌の上に、並んで載っている。
その重さに、危うく、また膝が折れそうになった。
なら、なおさらだ。
生きろ、なんて、頷けるはずがない。俺の血が招いたものが、爺さんを奪い、故郷を消し、今もどこかで、世界を呑み続けている。それを止めもせず、のうのうと生きるなんて、できるわけがなかった。
咎人の血は、身を捧げて贖う。
その教えだけが、今の俺を、かろうじて立たせていた。
俺は立ち上がり、海の彼方へ目をやった。沈みが世界を削りながら広がってくる、その方角へ。あの“無”が湧き出してくる、遠い源へ。
村人たちには、まだ沈みの届かない内海の島へ逃げるよう告げた。皆、力なく頷く。けれど、最後に俺が向けた指先を見て、老いた女が、震える声で聞いた。
「あんたは、どこへ行くんだい」
「あっちだ」
俺は、沈みの来る方を指した。皆が逃げるのとは、正反対の方角を。
村人たちが、息を呑んだ。そっちへ行くのは、自分から死にに行くようなものだと、誰もが分かっている。
「およし。あんたまでいなくなったら、爺さんは、何のために……」
「ごめん」
それしか、言えなかった。俺の血がこの世界を殺しかけているなんて、本当のことは、どうしても口にできなかった。
それでも、止められはしないと悟ったのだろう。芋をくれた婆さんが、皺だらけの手で、俺の手を、ぎゅっと握った。骨ばった、震える手だった。その手は、しばらく、別れを惜しむように、俺の手を包んでいた。
「……達者で、な」
絞り出すようなその声に、俺は、ただ頷くことしかできなかった。やがて婆さんの手が、名残を惜しみながら、ゆっくりと離れていく。
不思議と、恐れはなかった。継承の時に、分かっていた。この身に虚を宿した今、あの“無”は、俺だけは喰わない。きっと、同じものだからだ。皆が決して進めない場所へ、俺だけは、進んでいける。
ならば、行くしかない。
俺は、残された小さな舟に乗り込んだ。櫂を握ると、頭の奥の声が、また低く滲んだ。
振り返らなかった。一度でも振り返れば、足がすくんで、動けなくなる気がした。婆さんの泣き声も、海に変わった故郷も、すべて背中に置いて、ただ前だけを見る。
この力で、どこまで行けるのかは分からない。源にたどり着いて、何ができるのかも。それでも、進む以外の道を、俺は持っていなかった。
削られていく世界の、その傷口へ向かって。
頭の奥で嘆き続ける声を道連れに、俺は、櫂を漕いだ。
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