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救えば救うほど、世界は滅ぶ。それでも、俺の剣だけが滅びを断てる  作者: 自ら(Youtubeで朗読ver投稿中‼️)


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第2話 継承と、喪失

 その“無”は、音もなく、岸を舐めた。

 砂浜が消える。波も、岩も、そこにあったはずのものが、最初から無かったように途切れていく。色が抜け、輪郭が解け、後にはただ、何もない。風も、潮の匂いも、何もかもが、その一点へ吸い込まれて消えたようだった。眺めているだけで、足元が崩れていくような心地がする。

 俺は走り出していた。考えるより先に、体が動く。

「逃げろ! 舟だ、舟へ走れ!」

 叫びながら集落へ駆け下りる。異変に気づいた村人たちが、家から飛び出してくる。何が起きているのか、誰も分かっていない。ただ、俺の声と、背後に広がる“何もない”景色が、皆を突き動かした。

 子を抱えた母親が転ぶ。俺はその腕を掴んで引き起こし、背を押した。年老いた漁師の手を引き、立ちすくむ娘の肩を抱えて走らせる。誰かが落とした荷を踏み越え、また別の誰かを引き上げる。

 桟橋に、舟が並んでいた。

「乗れるだけ乗れ! 沖へ出ろ!」

 爺さんだった。いつのまにか桟橋に立ち、皺だらけの腕で人々を舟へ押し込んでいる。小さな体のどこに、と思うほどの声だった。

「爺さん!」

「ヴェイン、子どもらを先に。急げ」

 言われるまま、俺は動いた。一人、また一人と舟へ送り出す。腰を抜かした婆さんを抱え上げ、半ば無理やり、舟へ押し込む。今朝、俺の裾を引いて「遊ぼう」とせがんだ子どもらが、泣きじゃくりながら親にしがみついていた。その小さな体を、一つずつ、舟へと押し上げていく。

 一人も、欠けさせはしない。

 だが、“無”はなおも迫ってくる。背後で、家が一軒、また一軒と、かき消えていく。屋根が、壁が、そこにあった暮らしが、丸ごと無かったことにされていく。

 間に合わない。

 “無”の縁は、もう集落の半ばまで来ていた。最後の舟に人を乗せても、漕ぎ出す前に呑まれる。誰もがそれを悟って、顔から血の気が引いていく。

 爺さんが、岬を見上げた。社のある、あの突端を。

「——時間を稼ぐ」

 そう言って、駆け出した。腰の曲がった老人とは思えない速さで、石段を登っていく。

「爺さん! 何をする気だ……!」

 追おうとした俺を、爺さんの声が止めた。

「核を抑える。あれは、虚を繋ぎとめる楔だ。私が押さえているうちに、皆を出せ」

 社にたどり着いた爺さんが、両手で核に触れた。淡かった光が、強く脈打つ。同時に、迫っていた“無”の進みが、ぴたりと止まった。見えない壁にぶつかったように、縁が震え、押し返されていく。

 村人たちが、どよめいた。その隙に、最後の舟が桟橋を離れる。

 助かる。そう思った時だった。

 爺さんの体が、傾いだ。

 核に触れた指先から、腕が、肩が、白く霞んでいく。“無”を押さえる代わりに、爺さん自身が、少しずつ“無かったこと”にされていく。引き換えなのだ。核で虚を抑えるとは、そういうことだった。

「爺さん!!」

 俺は石段を駆け上がった。たどり着いた俺を、爺さんは霞む目で見上げた。もう、足は半ば消えている。それでも、その手は核を離さない。

「来たか。……ちょうどいい」

「離せ! そんなもの、今すぐ離せよ!」

「いいや」

 爺さんは、笑った。あの、寂しそうな笑い方で。

「これは、お前のものだ。ずっと前から、そう決まっていた」

 皺だらけの手が、俺の手を取り、核へと導いた。

 触れた、その瞬間。

 流れ込んできた。

 冷たい、なんてものじゃない。氷でも雪でもない。“無”そのものが、俺の中へ、堰を切ったように雪崩れ込んでくる。

 声が、聞こえた。

 一つではない。十でも、百でもない。数えきれないほどの声が、頭の奥で、いっせいに何かを訴えている。嘆きにも、呼びかけにも似た、途方もなく古い声の群れ。誰だ。お前たちは、誰なんだ。

 膝が落ちる。吐き気がこみ上げた。体の内側に、冷たく重いものが、際限なく溜まっていく。これを受け入れれば、いつか自分が、これに呑まれる。理屈ではなく、はっきりと、そう分かった。

 だが、視線の先には、村人たちを呑もうと迫る“無”があった。あの舟には、さっき抱えた婆さんが、泣いていた子どもらが、乗っている。まだ、岸からそう遠くない。ここで俺が膝をつけば、あの“無”は、瞬く間に、舟へ届くだろう。

 体は、もう動いていた。そういうふうにしか、できていない体だ。

 流れ込んだ冷たいものを、俺は掴んだ。頭の奥の声ごと、束ねるように、握りしめる。すると手の中で、それは形を成した。渦巻く闇を圧し固めたような、一振りの、黒い刃。

 俺はそれを、迫る“無”へ叩きつけた。

 手応えは、なかった。ただ、刃が触れた“無”の縁が、断ち切られたように動きを止める。そこだけが、二度と広がってこない。斬った痕が、塞がらないのだ。

 その一点を起点に、俺は刃を振るい続けた。迫る縁を断ち、また断ち、村人たちと“無”のあいだに、消えない切れ目を刻んでいく。

 その間にも、背後では島が消えていった。俺の家が。祠が。爺さんと登った石段が。子らの駆けた浜が。今朝、皆が笑い合っていた井戸端が。生まれてから知っていたものが、端から、世界に拭われていく。

 守れたのは、人だけだった。

 舟の上から、村人たちがこちらを見ていた。皆、無事だ。皆、生きている。

 それなのに、勝った気は、少しもしなかった。

 刃が、ふっと消えた。握る力が、抜けたのだ。

 振り返ると、爺さんが倒れていた。

 もう、体の半分が無い。それでも、まだ、わずかに目が動く。俺はその傍らに膝をつき、残った手を握った。冷たくなりかけた、小さな手を。

「爺さん、しっかりしろ。今、誰か呼ぶ……っ」

 誰も、いない。皆、沖の上だ。

 分かっていた。分かっていて、それでも俺は、何か言わずにはいられなかった。

 爺さんの唇が、動いた。

「ヴェイン」

「うん。ここにいる。ここにいるよ」

「……すまない。お前には、重いものを、遺してしまった」

「いいんだ、そんなこと。喋るな」

 爺さんは、首を、ほんの少しだけ振った。まだ、言い足りないことがあるように。

 そして、最後の息で、その人は言った。

 ずっと俺に、咎人の血は身を捧げて贖え、と説いてきた、その人が。

「……生きろ」

 握っていた手から、力が、抜けた。


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