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第1話 島守の朝 

 その日、俺はすべてを失った。そして、滅びを断つ力を、この手にした。

 ——救うことが、滅ぼすことだと、まだ知らないまま。

 その朝は、いつもと、なにも変わらなかった。潮の匂いで、目が覚めた。

 毎朝そうだ。建てつけの悪い窓から忍び込む風が、海の匂いを連れてくる。塩と、濡れた岩と、夜のうちに乾いた藻と。それを胸いっぱいに吸い込むと、今日も島は無事だと、体のどこかが静かに頷く。

 俺は寝床から身を起こし、まだ薄暗い土間へ降りた。祠の世話は、近頃ではすっかり俺の役目になっている。

 集落の外れ、岬の突端に、その小さな社はあった。苔むした石段を登り、軋む木の扉を押し開ける。中はいつもひんやりとして、古い木と、焚き残した香の気配が満ちていた。

 奥に、それは在る。

 神核。

 大人が両手で抱えるほどの、淡く光る石だ。石、と言っていいのかは俺にも分からない。なぞれば、ほんのりと温い。脈を打つように、光が緩やかに明滅する。この島を沈みから守っているのは、これだという。理由は誰も知らない。島守の家の者が代々、この核と心を通わせ、島を守ってきた。今その役を担うのは爺さんで、俺はまだ、跡を継ぐべく祠を任されているにすぎない。

 俺は布で核を拭い、新しい香を焚いた。細い煙が立ち上り、低い天井の下で薄く広がっていく。

「……今日も、よろしく頼む」

 返事はない。当たり前だ。それでも俺は、毎朝こうして声をかけることにしている。

 社を出て、石段の上に立つと、朝靄に沈む島が一望できた。家々の煙突から、細い煙が、ぽつ、ぽつと立ち上り始めている。浜では、漁師たちが舟を出す支度に忙しい。どこかで、子どもの笑い声が、風に乗って切れ切れに届いた。

 ノル島。小さな、けれど、確かに生きている島だ。俺にとっては、これが世界の、すべてだった。

 石段を下りると、その下に、爺さんが立っていた。腰の曲がった、小さな老人だ。みなしごの俺を拾い、育て、島守の務めを仕込んだ人。血は繋がっていないが、俺にとっては祖父も同然だった。

「精が出るな」

「爺さんこそ。まだ寝てていいのに」

「年寄りは朝が早いんだ。それに……お前ひとりに島を負わせるのは、まだ早い」

 皺だらけの手が、俺の肩を軽く叩く。石段を下りながら、爺さんはいつもの言葉を口にした。

「いいか、ヴェイン。お前の血は軽くない。咎人の血だ。だからこそ、人のために使え。自分のことは、その後でいい」

 何度聞かされたか分からない言葉だ。意味は、正直よく分からない。咎人の血と言われても、俺はまだ半人前の跡継ぎなのだから。それでも、その教えは骨のように染み込んでいた。誰かが転べば、考えるより先に手が伸びる。自分の腹が減っていることに気づくのは、いつも一番あとだ。

「分かってるよ」

 そう返すと、爺さんは少しだけ笑った。どこか寂しそうな笑い方だったが、その時の俺は、気にも留めなかった。

 爺さんと二人きりの、小さな暮らしだった。朝は俺が祠を見て、爺さんが粥を炊く。夜は囲炉裏端で、爺さんの古い昔話を聞きながら、眠りに落ちる。血の繋がりはなくても、爺さんは、俺のただ一人の身寄りだった。

 集落は、いつもの顔ぶれで賑わっていた。網を繕う漁師、井戸端で笑う女たち、その足元を走り回る子どもら。皆が俺に声をかけ、俺も一人ひとりに返していく。誰それの腰が痛むらしい、どこそこの屋根が傷んでいる。そんな話を聞いて回るのも、島守の務めのうちだった。

 井戸端で、顔なじみの婆さんが俺を手招きした。

「ヴェイン、悪いね。そこの高い棚、取っとくれ」

 言われるまま、棚の上に置かれた干物の籠を下ろしてやる。礼の代わりにと、婆さんは蒸かしたての芋を一つ、俺の手に握らせた。まだ、ほかほかと温かい。

 ちっぽけな島だ。けれど、ここでは皆が、互いの暮らしに、当たり前のように手を貸し合う。誰かが困れば、誰かが、すぐに気づく。そういう場所だった。

「ねえ、爺ちゃん! あのお話して! 沈んだ国の!」

 子どもの一人が、爺さんの裾を引いた。爺さんは「またか」と苦笑し、井戸端の縁に腰を下ろす。しわがれた声が、ゆっくりと語り出した。

「昔々、海の向こうに、それは栄えた国があった。だがある時、その国は“開けてはならぬ蓋”を開けてしまう。封じられていた“虚”が、あふれ出した。触れたものすべてを“無”に還し、“無かったこと”にしながら。国は呑まれ、海は持ち上がり、世界は少しずつ、沈み始めた——とさ」

 子どもたちは、こわい、とはしゃぎながら目を輝かせている。俺も幼い頃は、そうだった。今ではただの作り話だと思っている。世界が沈んでいるのは本当だ。だが、それを呑まれた国の祟りだなどと、子どもだましにもほどがある。

 そう、思っていた。

 話が終わると、子どもらは、わっと俺の方へ駆けてきた。

「ヴェイン、今日は何して遊ぶ?」

 小さな手が、何本も、俺の腕や裾を引っ張る。まだ祠の務めが残っている、と言いかけて、やめた。こいつらの相手をするのも、決して、嫌いじゃなかった。

 昼が近づいた頃、沖から戻った漁師が、浮かない顔で言った。

「西の島が、消えたらしい」

「消えた?」

「沈みに呑まれたとさ。ひと月で、まるごと」

 集落の空気が、わずかに沈む。だがそれもすぐ、いつもの喧噪へ紛れていった。西の島は遠い。ここではない、どこか遠くの話だ。誰もが、そう高をくくっていた。俺も、同じだった。

 ただ、その日の海は、少しおかしかった。凪いでいるのに、波打ち際の音がやけに遠い。空の色も、どこか褪せて見える。気のせいだと、自分に言い聞かせた。

 異変が訪れたのは、夕暮れ時だった。

 最初に気づいたのは、匂いだ。

 潮の香りが、消えていた。

 あれほど島を満たしていた、塩と藻の匂い。それがふつりと途切れている。まるで、世界から匂いだけを、誰かが拭い取ってしまったように。

 俺は岬を振り返った。そして、見た。

 海の向こう。水平線の一点が、欠けている。

 空でも、海でもない。ただ、そこに“何もない”。色も、光も、音も。世界に穴が開いたように、そこだけが抜け落ちて——その縁が、ゆっくりと、こちらへ広がってきていた。

 触れたものすべてを、“無かったこと”にする。

 爺さんの、おとぎ話。

 作り話だと、思っていたのに。

「——皆っ! 逃げろ!!」

 叫んだ時にはもう、その“無”は、島の岸に、触れていた。

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