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第34話 守り切った朝

 空が白む頃、ようやく神殿を出た。外の階段に腰を下ろすと、立ち上がる気力がしばらく戻らない。左手は、手首から先の輪郭がまだ薄かった。指を握ると、握った感触が半分ほどしか返ってこない。

「見せてください」

 声に振り向くと、エルナが階段を下りてきていた。手には、湯を張った桶を提げている。

 隣に膝をつき、その手を取った。傷はない。血も出ていない。それでも彼女は、何かを確かめるように、しばらく掌を包んでいた。

「……戻ってきますか、これは」

「時間が経てば」

「そうですか」

 短い返事だった。そこに落胆も安堵もない。エルナは湯に浸した布を絞り、こちらの掌を拭き始めた。

 それ以上、彼女は何も言わない。ただ、手を離さなかった。街の方から、煙が薄く流れてくる。焦げた匂いに混じって、水の匂いがした。誰かが消し止めた後の匂いだ。

 ダグが階段を上ってきて、隣にどかりと腰を下ろす。

「西の方、見てきた。焼けたのは十二軒だ。避難民街の外れは無事。……死人は、出てねえ」

 長く息を吐いた。

「兵が戻ったのが早かった。あと半刻遅けりゃ、どうなってたか分からん。……あんたが神殿でやったことが、そのまま兵を戻した。分かってるか」

 分かっていなかった。街の混乱を作ったのは、神殿を空けさせるためだ。ならば、神殿での企てが潰れれば、混乱を続ける意味も消える。金で雇われた扇動屋は、その日のうちに姿を消したという。

「両方が繋がってたってことは、片方が終われば、もう片方も終わるってことさ」

 ダグが、水の入った革袋を差し出す。

「よくやった、って言っとくぜ。今日くらいはな」

 受け取って飲んだ。ぬるい水が、喉に引っかかる。この男が差し出すのは、いつも水だ。理由を訊いたことは、まだない。

 昼過ぎには、神殿の中も外も人でごった返した。

 王権派の学士たちは、御神体の間で起きたことを説明できずにいた。祭具を外した途端に何かが噴き出した、と証言した者が何人もいる。神官たちは、それ見たことか、と声を上げた。調査の中止を求める嘆願が、その日のうちに王宮へ運ばれたという。

 だが、王権派も引かなかった。噴き出したのは事実だが、それを止めたのは自分たちの学士ではない、素性の知れない余所者だ、と。あの黒い刃は何だったのか。あれこそ災いではないのか。そういう声が、すぐに立ち上がった。

「ま、そうなるわな」

 宿でその話を聞いて、ダグが顎を撫でた。

「助けた相手に化け物呼ばわりされるってのは、傭兵じゃよくある話だ」

「気にしてないと言えば、嘘になる」

 正直に答えた。あの部屋には二十人以上がいた。荷役も、学士も、神官も、全員が見ている。掌の上に凝る黒い刃を。この街で、あれを隠し通す道はもうない。

「けどな、坊主」

 ダグが、革袋の水を一口飲んだ。

「見てた奴の中には、あんたが何をしてたか、ちゃんと見てた奴もいる。灯明の前に体を入れて、片っ端から斬ってたのをな。全員が全員、目が節穴じゃねえよ」

 その通りだった。あの部屋で灯明を並べ直したのは、こちらの仲間だ。見ていた者は、それも見ている。

 夕方、神殿の使いが宿へ来た。頬のこけた、あの神官だ。門の外で待っていた彼は、こちらを見ると深く頭を下げる。

「御礼を申し上げに参りました。……表立っては、申し上げられませんが」

 顔を上げた目が、赤い。徹夜で祭具を戻していたのだろう。

「あの部屋にいた神官の何人かは、あなたが何をなさったかを見ております。祀りの座を戻したのが誰の手であったかも。……神殿としては、あなた方を賊として扱わざるを得ません。ですが、それを急ぐ者は、今のところおりません」

 つまり、追われはしないが、歓迎もされない。この街に、居場所はもうないということだ。

「賢明な判断です」

 ジルが、後ろから口を挟んだ。

「あんたら神殿は、これから王権派とやり合わなきゃならん。よそ者を追い回す暇はないだろうよ」

 神官は、苦笑して否定しなかった。彼が帰った後、ジルは長いこと黙って、宿の窓から街を眺めている。それから、ふいに口を開いた。

「あたしは、あんたらについていく」

 振り返らずに、そう言う。

「あの部屋で、あたしは自分の目で見たんだ。祀りの座が閉じれば、あれは楔でいられる。開けば、溢れる。……あたしが禁書から拾った断片は、間違っていなかった。正史の方が嘘なんだ。それが、証明された」

 彼女の指が、窓枠を叩く。爪の先まで、インクの染みが残っていた。

「だが、肝心なところは、まだ白いままだ。誰が、何を、なぜ封じたのか。そこだけが、どの記録からも削られてる。……あの男は、それを知ってる。知ってて、返しに来たと言った」

「追うのか」

「追いたいさ」ジルが、こちらを向いた。

「だが、今日じゃない。あたしはまだ、あの男の言ったことの半分も分かっちゃいない。分からんまま追いかけて、また握り潰されるのはごめんだ。……読むものを読んで、確かめるものを確かめる。それからだ」

 いつもの皮肉げな顔に戻って、肩をすくめる。

「それに、あんたらといれば、その続きが読めそうだからな。……それだけさ」

 カイラが笑ってジルの背を叩き、ダグが席を一つ空けた。エルナが、茶をもう一杯淹れてくる。五人になった。

 その夜、宿の窓から街を見た。

 灯りが、いつも通りに点いている。焼けた区画の周りにも、もう明かりが戻っていた。何万という人間が、今夜も御神体に守られていると信じて眠る。その足元で、昨日何が起きかけたのかを、誰も知らないままに。

 守り切った。故郷では間に合わず、アルカでは逃がしきれなかった人がいた。今日は違う。誰も死ななかった。この街は、明日も昨日と同じ形で目を覚ます。それが、どれほど得難いことなのかを、この一年で知った。

 左手を明かりにかざす。輪郭が、少しだけ戻っていた。

 棘のように残っている言葉が、一つある。

 お前は、こちら側だ。

 あの男が何を見て、そう言ったのか。この中のものが何なのか。答えは、まだどこにもない。だが、今夜だけは脇へ置いておこうと思った。

 階下から、ダグの笑い声が上がった。カイラが何か言い返し、エルナが困ったように取りなしている。ジルの皮肉な声が、それに重なる。

 窓を閉めて、階段を下りた。


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