第33話 回帰教団
軋みが、足の裏から這い上がってきた。大楔の表面に走っていた亀裂が、いっせいに広がる。噴き出した黒が、部屋の天井まで届いた。
カルヴァスの動きが止まる。男は自分の得物から目を離し、巨石を見上げた。その顔を、微かな計算の色が走る。
「……これは、まずいな」
独り言のような声だった。こちらへ向いていた鞭が、ふいに引かれる。男は身を翻し、湧き出す黒の根元へ向かった。楔を割ろうとしていた者が、今度は割れかけたそれを見上げて舌打ちしている。
「壊すんじゃなかったのか」
問うと、カルヴァスは振り返らずに答えた。
「ここで一気に溢れられては、私が困る。この街ごと沈めば、ここにあるものが失われる。……そんな乱暴な話ではないのだ、これは」
言っている意味が分からない。だが、考えている暇はなかった。溢れた黒が、灯明の列へ届こうとしている。あれに触れられれば、皿ごと無に還る。そうなれば、点け直すこともできない。
地を蹴った。黒と灯明の間に体を入れ、刃を薙ぐ。断つ。次が来る。断つ。石段を蹴って高い位置の一本を落とし、着地と同時にもう一本を薙いだ。腕が痺れ、視界の端が滲む。左手はもう、手首の先まで透けていた。それでも、灯明の列にだけは触れさせない。あれが消えれば、ここまでが無駄になる。
「ジル! あと何本だ!」
「三つ! 内側の三つで、円が閉じる!」
段の上で、ダグが皿を並べ、エルナが火を移している。二人の手が、驚くほど速くなっていた。ジルが位置を叫び、ダグが置き、エルナが灯す。三人で一つの手のように動いている。
だが、その最後の三つへ、黒が伸びた。届く、と思った瞬間、風を切る音が二つ続けて鳴る。
カイラの矢が、黒の伸びる先へ突き立った。矢そのものは食われて消える。だが、黒はその間、矢を絡め取るために動きを止めた。それで足りた。滑り込んで、刃を振り抜く。断たれた黒が、灯明皿の手前で崩れた。
「点いた!」
エルナの声とともに、最後の一つに火が移った。円が、閉じる。
部屋の空気が変わった。溢れていた黒が、内側へ引かれていく。天井まで届いていた渦がみるみる細り、亀裂へ吸い戻されていった。大楔の表面が、少しずつ元の黒い肌へ戻っていく。やがて、軋みが止んだ。
膝が折れそうになる。刃を杖のように床へ突き、堪えた。荒い息が、自分のものとは思えないほど遠く聞こえる。
カルヴァスが、こちらを見ていた。伸ばしていた黒を袖へ収め、乱れた襟を直している。ただの学者の姿に戻るのに、三呼吸もかからなかった。
「……ここまでか」
その声に、悔しさも怒りもない。日の暮れを確かめる程度の調子だった。
「四年かけた仕込みだったが、致し方ない。今日の作業は、破算だ。……また積み直せばいい」
「逃がすと思うのか」
刃を構え直す。だが、足が思うように動かない。使いすぎた。それは、向こうにも見えているだろう。
「追える体ではないだろう」
カルヴァスは、静かに言った。
「それに、私を斬ったところで、何も変わらん。私は書いただけだ。この国の学問に置かれた知識は、もう消えない。誰かがまた読む。……ここまで来たものは、遅かれ早かれ、同じ場所へ着く」
男が、階段の方へ一歩下がる。その背へ、言葉を投げた。
「お前たちは、何なんだ」
カルヴァスの足が止まった。振り返った顔に、こちらの問いへ答える気配がある。
「名を知りたいか」
「ああ」
「回帰教団」
その名が、静まった部屋に落ちた。段の上で、ジルが息を呑む。
「回帰、だと」ジルの声が掠れている。「何に、還るつもりだ」
カルヴァスは、ジルの方を見もしない。こちらだけに向かって答えた。
「盗まれたものを、返す。それだけだと言ったはずだ。……我々は、災いを撒いているのではない。返し忘れられたものを、あるべき場所へ戻しているだけだ」
意味は、やはり分からない。だが、その言葉には、これまでのどの台詞よりも確かなものが乗っていた。この男は、自分の口にしていることを、本気で信じている。
「そのために、街に火をつけたのか。何万も巻き込んで」
「順序の話だ」
男は、こともなげに答えた。
「返すには、順序が要る。今日は、その一手を潰されただけのことだ」
階段を二段上がり、そこで振り返る。
「ヴェイン」
名を呼ばれたのは、これが初めてだ。この男は、こちらの名を知っていて、今日まで一度も使わなかった。
「その中のものを、お前は災いだと思っているだろう。人を守るために使いながら、いつか自分を食い殺すものだと。……違うぞ」
「それは、返されるのを待っている。お前が誰よりも近くで、その声を聞いているはずだ。悲しんでいる、と感じたことはないか」
息が止まった。沈みの際で聞いた、あの嘆き。誰にも話していない。カイラにも、ダグにも、エルナにも。ジルにさえ、力のことは打ち明けても、声のことは黙っていた。
なぜ、この男が知っている。
「いずれ、分かる」
カルヴァスは、背を向けた。
「お前は、こちら側だ」
白い長衣が、階段の暗がりへ消えていく。追おうとして一歩踏み出したところで、膝が落ちた。床についた自分の指が、明かりの中で輪郭だけになって震えている。
誰も追わなかった。追える者が、この部屋に一人もいなかった。
大楔は静まり返っている。灯明の列が、閉じた円のまま燃えていた。石の肌には、まだ亀裂の跡が残っている。だが、そこから漏れるものはもうない。
守り切ったのだ。故郷でも、アルカでも、届かなかったことに、今日は手が届いた。それなのに、胸に残ったのは勝った実感ではなかった。
敵に、名がついた。回帰教団。だが、その名が何を意味するのかも、あの男が何を返そうとしているのかも、何ひとつ分かっていない。分かったのは、一つだけだ。
あの男は、こちらの中にあるものについて、こちらより多くを知っている。それが、今日いちばんの敗けだった。
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