第32話 灯を継ぐ
落ち窪んだ底に降り立った。目の前で、大楔の表面が膨らんでいる。渦の流れが外へ向かい、石の肌を押し破ろうとしていた。その縁から、黒い糸のようなものが染み出している。
刃を振り抜いた。染み出した黒が、その一点で断たれる。断たれた縁は二度と塞がらない。糸は行き場を失って、ほどけるように消えた。
だが、隣からまた噴く。斬る。別の場所から湧く。斬る。石の肌を目で追いながら、次に破れる場所へ体を運ぶ。三箇所目までは追えた。四箇所目が開いた時、腕が一つでは足りなくなった。
「ジル! これは、どうすれば止まる!」
「灯明だ!」ジルが階段を駆け下りてくる。手には、学士が置いていった帳面を掴んでいた。頁をめくりながら、床の刻印と見比べている。
「あいつの論考にあった! 祀りの座が閉じていれば、あれは楔でいられる! 外側の列はもう空だが、内側はまだ残ってる! あれを消させるな! 消えた分を、点け直せ! 順番と位置が合っていれば、火は誰の手のものでも構わん!」
振り返った。底を囲むように、石の台が幾重にも並んでいる。外側の列は空だ。だが内側の三列には、まだ灯明皿が残っていた。半分ほどは、さっき学士たちが吹き消したままになっている。
その台の間を、白い長衣が歩いていた。カルヴァスだ。逃げ惑う学士たちの流れに逆らって、内側の列へ向かっている。慌てる様子はない。ただ、消えていない灯明の一つに手を伸ばしていた。
地を蹴った。だが、間に合う距離ではない。あの男が一つ消せば、こちらは斬る手が足りなくなる。
矢が鳴った。カルヴァスの手前の石台に突き立ち、火花が散る。男の指が止まった。段の上で、カイラが二の矢をつがえている。
「触らないで!」
カルヴァスは、突き立った矢を一瞥した。それから、無駄のない動きで身を沈め、次の台へ移る。カイラの矢が追う。だが、当たらない。避けているのではなく、矢の来る線に体を置かない歩き方をしていた。戦い慣れた者の動きではない。もっと乾いた、計算だけで組み立てられた足運びだ。
その間に、こちらは底へ戻った。噴き出す黒が、さっきより太い。斬る。斬る。腕の先が痺れ始めていた。使えば体が薄れる。指先の感覚が遠のき、握っている感触だけが残る。
「消された分を点け直せ! 誰か!」
ジルが怒鳴った。だが、部屋に残っている者は、みな扉へ殺到している。災いだ、と誰かが叫んだ。あの黒いのを見ろ、と。
誰も来なかった。逃げる背中ばかりが扉へ吸い込まれていく。
その時、扉の方から太い声が響いた。
「おい、そこの兄ちゃん! 火だ! 火はどこにある!」
ダグだ。煤だらけの顔で、大剣を背負ったまま、逃げてくる人足を掻き分けて入ってくる。その後ろに、エルナの姿もあった。
「街の方は!」
「兵が戻ってきた。火は消し止まる」ダグが階段を三段飛ばしで駆け下りる。「小屋は十軒ばかり焼けたが、人は引っ張り出した。……こっちの方が、面倒くさそうな面してやがるからな!」
エルナは、扉の脇で立ち止まった。倒れて動けずにいる学士に駆け寄り、抱え起こしている。それから、床に落ちていた燭台を拾い上げた。
「これで、いいんですか」
「そうだ! そこの燃えてる皿から、火を移せ!」
ジルが叫び返す。
エルナが、燃え残っている灯明皿から火を取り、消えた皿へ移した。一つ。また一つ。ダグが空の皿を並べ直し、ジルが帳面を見ながら配置を指示する。
「そこじゃない! 二つ内側だ! 順番が違うと意味がない!」
「うるせえな、学者は! 場所くらい早く言え!」
ダグが怒鳴り返しながら、皿を移し替えていく。
灯りが、一つずつ戻り始めた。その度に、膨らみがわずかに引く。噴き出す勢いが落ちる。斬る手が、追いつくようになってきた。効いている。
カルヴァスの動きが変わった。灯明へ伸ばしていた手を引き、内側の列から離れる。そして、こちらへ、まっすぐ降りてきた。
刃を構えた。間合いに入る寸前、男の手が動く。長衣の袖から、黒いものが伸びた。
虚だ。この身の内にあるものと、同じ質のもの。それが、鞭のようにしなって襲ってくる。
刃で受けた。
噛み合った瞬間、腕が痺れた。斬れている。だが、断った先から、また同じものが生えてくる。こちらの刃は、断った傷を塞がせない。それなのに、この男の虚は、切れた端から新しく伸びていた。
量が、違う。こちらは掌に一振りを凝らすのが精一杯だというのに、この男は袖の内から際限なく引き出してくる。
「なぜ、そちらに立つ」
カルヴァスの声は、打ち合いながらも平坦だった。
「その中のものが、お前を蝕んでいるのは分かるだろう。使うほど、お前は減る。それでも、この国のために振るうのか。……この国は、お前を災いと呼ぶぞ」
二撃目が来る。受ける。三撃目。受けきれずに、肩を掠められた。長衣の下から伸びるそれは、太さも速さも、こちらの刃を上回っている。
「呼べばいい」
押し返しながら、そう返していた。
「この国が俺を何と呼ぼうと、あそこで火を移してる奴らは、俺の仲間だ。それだけで足りる」
カルヴァスの動きが、わずかに緩んだ。値踏みするような目が、こちらを見る。
「……足りる、か」
その言葉を、確かめるように繰り返した。
「面白い。だが、それは今日までの話だ」
じり、と後退した。背中に、大楔の冷たい肌が触れる。これ以上は下がれない。
その時、風を切る音がした。カルヴァスの側頭を矢が掠め、髪を数本散らす。男の足が、初めて止まった。その隙に、体を入れ替える。
「ヴェイン! 下がって!」
カイラの声が飛ぶ。だが、下がる場所はもうない。背後にあるのは、この街の何十万を支えているものだ。
段の上で、また一つ灯りが戻った。ダグが皿を置き、エルナが火を移し、ジルが次の位置を叫んでいる。四人分の手が、千年の代わりを務めていた。
大楔が、腹の底に響く音で、低く軋んだ。
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