第35話 生きろ
三日後の朝、宿を引き払った。
東門へ向かう道は、荷車と人でいつも通りに混んでいる。パン屋の前に列ができ、井戸端で女たちが桶の順番を言い争っていた。三日前に何が起きかけたのかを、この通りの誰も知らない。
避難民街の脇を抜けるとき、槌の音がした。
焼け落ちた区画に、新しい柱が三本立っている。材木を担いでいるのは、避難民の男と、表通りの店の主だった。並んで運んでいる。仲がいいわけではないだろう。互いに口もきいていない。それでも、同じ材木の端と端を持っていた。
その先で、包帯を巻いた若い男とすれ違った。頭に晒を巻いたまま、粉袋を担いでいる。あの夜、エルナが手当てをした男だ。向こうもこちらに気づいて、少しだけ足を止めた。会釈を交わす。それだけだった。
大神殿の鐘が鳴った。朝の祈りの刻を告げる音だ。城の内でも外でも、人が手を止めて、白い尖塔の方を向く。今日も守られていると信じて、それぞれの一日を始めていく。
誰も知らないままでいい、と思った。英雄になりたかったわけではない。あの部屋で刃を抜いたのは、そうしなければ灯が消えるからで、それ以上の理由はなかった。知られずに済むなら、その方がいい。
東門の手前で、人影が待っていた。
頬のこけた神官だ。神殿の衣ではなく、地味な外套を羽織っている。供も連れていない。
「お発ちになると聞きました」
彼は、布に包んだものを差し出した。開くと、素焼きの小さな皿が出てきた。縁が煤で黒ずんでいる。
「あの夜、あなた方が点け直したもののうちの一つです。……本来なら、神殿のものを持ち出すなど許されません」
「いいのか」
「数え間違いということにしました」
真顔でそう言うので、思わず口の端が動く。素焼きの皿を、両手で受け取った。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
神官が、声を落とした。
「あの部屋で、御神体から溢れたもの。あれは、いったい何なのでしょう。我々は、あれを外の災いだと教わってきました。ですが、封じられているものが外から来たというのは……よく考えると、おかしな話です」
答えられなかった。こちらも、その答えを持っていない。
「私にも、分かりません」
正直にそう言うと、神官は目を伏せた。
「そうですか。……いえ。訊いてはならないことを訊きました」
彼は深く一礼して、来た道を戻っていった。答えを持たない者同士が、同じ問いを抱えたまま別れた。
街道に出ると、風が変わった。石畳が土に変わり、両側に麦畑が広がる。四人は、とうに先を歩いていた。
「遅い! 置いてくよ!」
カイラが振り返って手を振っている。その後ろで、ダグが荷を背負い直していた。
「若いのに足が遅いってのは、どういうことだ」
「あんたが荷を持ちすぎなんだよ」
「これはな、宿の女将にもらった土産だ。断れねえだろうが」
ダグが荷から瓶を取り出して掲げた。栓を抜くと、甘い匂いがした。果実の酒だ。
「じゃあ、飲もうよ。せっかくだし」
カイラが手を伸ばす。ダグは瓶をカイラに渡し、自分は革袋の水を飲んだ。
「あんた、飲まないの?」
「ああ」
「街でもずっと水じゃない。もったいない」
「もったいなくねえよ。水は旨い」
ジルが、横から瓶を覗き込んだ。
「傭兵が酒を断るってのは、珍しいな。何か曰くでもあるのか」
「曰くねえ話に、酒を断る理由なんぞあるかよ」
「答えになってないぞ」
「なってるさ」
ダグは、けろりとした顔で歩き出した。ジルが呆れたように肩をすくめ、カイラが瓶を抱えて笑っている。エルナが、酒の匂いに顔をしかめていた。
訊かなかった。あの男が話す気になったら、そのとき聞けばいい。それまでは、こちらから開ける必要はなかった。
昼前、丘の上で足を止めた。振り返ると、セントリアの白い城壁が、麦畑の向こうに小さく見える。その真ん中に、尖塔が一本立っていた。あの下に、閉じた円と、燃え続けている灯明がある。
そして、その遥か彼方。西の地平が、うっすらと灰色に沈んでいた。守り切ったのは、あの街の、あの一度だけだ。世界は今も沈み続けている。この丘から見えるだけでも、あれだけの広さが、もう戻らない。
それでも、と思う。左手を日にかざした。指の輪郭は、ほとんど戻っている。よく見れば、爪の先だけが、まだ薄い。
島守の家では、こう教わった。咎人の血は、身を捧げて贖え。
だから、ずっとそうしようとしてきた。故郷でも、アルカでも、消えるまで使えばいいと思っていた。自分一人が背負って、自分一人が終われば、それで釣り合うのだと。
だが、今回は消えなかった。灯を継いだのは四人で、前に立ったのはこちらだ。どちらが欠けても、あの円は閉じなかった。
一人で背負わなかったから、守り切れた。
爺さんが最期に言った言葉が、耳の奥で鳴った。あの時は、呪いのように聞こえた。生きろ、と言われても、生きて何をすればいいのか分からなかった。
今は、少しだけ分かる。贖うために消えるのではなく、贖うために生きる。次も守れるように。それだけのことに、一年かかった。
風が、麦を鳴らして通り過ぎていく。胸の底で、あの声がまだ聞こえていた。数えきれない、古い嘆き。何を悲しんでいるのかは、今も分からない。
削り取られた白い余白も、そのままだ。誰が、何を、なぜ封じたのか。ジルの帳面は、まだ穴だらけでいる。
そして、あの言葉が残っている。
お前は、こちら側だ。
なぜ、あの男が声のことを知っていたのか。誰にも話していないことを、なぜ言い当てられたのか。それだけは、いくら考えても分からない。分からないまま、棘のように刺さっている。
いつか、向き合う日が来る。だが、それは今日ではない。
「ヴェイン!」
丘の下から、カイラが呼んだ。
「何してんの、置いてくよ!」
「もう二回目だぞ、それ」ダグの声が続く。「腹が減ってんなら、そう言え。飯にするぞ」
「まだ昼前だ」ジルが呆れている。
「昼前だから飯なんだろうが」
エルナが笑っている声が、風に乗って届いた。
素焼きの皿を荷の奥へしまい、丘を駆け下りた。四人分の足音の中に、自分の足音が混ざる。
道は、まだ先へ続いている。
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