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第30話 盤面

 夜が明けきる前に、宿を出た。通りはまだ青く、店の戸はどこも閉まっている。四人分の足音だけが、石畳に響いていた。

 通用口は、大神殿の東側にある。荷役が使う狭い門で、明るくなれば祭具を運び出す人足が列を作るはずだった。その列に紛れる。それが、昨夜のうちに決めた道筋だ。

 だが、東の通りへ入ったところで、足が止まった。人が、逆に流れてくる。まだ薄暗い時間だというのに、通りは荷を抱えた人間で埋まっていた。西へ向かう者と、東へ逃げる者がぶつかり、怒鳴り合っている。子どもの泣く声。どこかで、板が割れる音。

「西の方だ」人波を掻き分けてきたダグが、低く言った。「避難民街が、燃えてる」

 振り返ると、屋根の向こうに黒い煙が立っていた。一筋ではない。三本、四本。街のあちこちから同時に上がっている。あの夜、三軒の小屋を焼いた火とは規模が違う。風上と風下の区別なく、街の骨に沿って燃え広がっていた。

 カイラが、走ってきた男を捕まえて話を聞き、戻ってきた。

「昨日までとは様子が違うよ。表通りの連中が、まとまって押し寄せてるって。避難民の側も、今度は黙ってない。棒を持って出てきてるって話」

 こちらが火をつけ、あちらが応じる。もう、片方が一方的に追い立てる形ではない。両側から燃えている。

 都の兵が、西へ走っていく。何十人も。神殿の方角からも、隊列が引き返してくるのが見えた。槍を担いだ男たちが、こちらの脇を駆け抜けていく。そこで、繋がった。

「……守りが、抜ける」

「あ?」

「神殿の周りに集めていた兵だ。暴動が広がれば、あそこへ回すしかない。三日前にダグが聞いてきた配置は、今日のために厚くしたものだった。それが、今、西へ動いていく」

 ジルが、鋭く息を吸った。「待て。じゃあ、あの布告も——」

「同じ絵だ」喉の奥から、そう答えていた。

 言いながら、頭の中で線が繋がっていく。王権派に楔を調べさせる。神殿の抵抗は、政治で押し切らせる。街には憎しみを撒いて火をつける。兵はそちらへ走る。誰も、御神体の間を見ていない朝が、こうしてできあがる。

 国を割ったのも、火を放ったのも、すべて一つの盤面だ。剣も牙も使わず、この国の人間が、自分の手で守りを外していく。あの男が言っていた通りだった。人は、囁くだけで、自ら守りを解く。

「胸糞悪ぃ話だな」ダグが唾を吐いた。「街に火ぃつけて、兵を釣って、その隙に本命へ手を伸ばす。……こいつは、戦じゃねえ。段取りだ」

 黒い煙が、太くなっていく。風に乗って、焦げた匂いがここまで届いた。どちらも、放っておけない。

 あの煙の下に、エルナが手当てをしてきた人たちがいる。アルカから逃げてきた民も、井戸端で笑っていた女も、あそこにいる。だが、神殿へ向かわなければ楔が外される。楔が壊れれば、この街ごと、何もかも無くなる。

 どちらかを選ばなければならない。全部は救えないと、アルカでいやというほど思い知った。あの時は、選べずに突っ込んで、腕が肘まで薄れた。ダグに引き剥がされなければ、そこで消えていた。

 だが、今は一人ではない。

「二手に分かれる」思ったより、落ち着いた声が出た。「ダグとエルナは、避難民街へ。人を逃がして、火を抑えてくれ。兵が戻るまで保たせればいい」

「おいおい」ダグが眉を上げた。「あんたを、一人で行かせろって?」

「一人じゃない。カイラとジルが要る」昨夜の地図を思い浮かべながら続けた。「あそこは、俺の力が要る場所だ。だが、俺は道を知らない。ジルは封印の理を知ってる。カイラは、あの通用口の人の動きを見てきた。三人でなきゃ、あの間には辿り着けない」

 言ってから、ダグの目を見た。

「あんたたちでなきゃ、あの街の人は守れない。俺が行っても、斬るしかできない。火は斬れない」

 ダグは、しばらくこちらを見ていた。それから、ふっと肩の力を抜き、大剣を担ぎ直した。

「……言うようになったじゃねえか、坊主。昔のあんたなら、全部一人で背負い込んで、勝手に消えかけてたぜ」

「学んだ」

「そうかい」ダグは、それ以上は訊かなかった。

 ダグは、口の端を上げた。「なら、任せろ。火の中で人を引っ張り出すのは慣れてる。……そっちこそ、無茶をするな。全部片付いたら、飯だ」

 エルナが、薬包の袋を抱え直した。

「気をつけて」

 それだけを言って、西を向く。もう走り出す構えだった。煙の上がる方角から、目を離さずにいる。

「ヴェイン」

 振り向きかけたその背が、一度だけこちらを見た。

「……あなたも、痛かったら、痛いと言ってください。後でいいですから」

 返事をする前に、二人は人波の中へ消えていった。痛かったら、痛いと言え。そんなことを言われたのは、初めてだった。黙って抱え込む癖を、あの人はとうに見ている。

 二人の背が、煙の方角へ遠ざかっていく。ダグの大きな影が、人波を割って道を作り、その後ろをエルナが小走りについていった。

 残ったのは、三人だ。カイラが弓の弦を弾き、ジルが襟元を掻き合わせる。

「行くよ」カイラが弓を握り直した。「あたし、道は覚えてる。荷役の列がどこで折れるかも」

「あたしは、あの中で何が起きてるかを読む係だ」ジルが外套の襟を立てた。「……坊主。一つ言っとくぞ。あの中で刃を抜けば、あんたは終わりだ。この国じゃ、災いを宿す者は生きていけん。それでも行くのか」

「行く」

 迷う理由がない。

「隠したまま守れるなら、隠す。無理なら、抜く」

 ジルは、しばらくこちらを見て、それから短く笑った。

「上等だ。……握り潰されるのは、真実だけで十分さ」

 東の通りを走った。背後で街が燃え、前方に白い尖塔がそびえている。煙の匂いと、朝の香の匂いが、通りの途中で入れ替わった。人足の列が、通用口へ向かって動き始めている。木箱を担いだ男たちが、眠そうな顔で門をくぐっていった。今日が何の日になるのかを、あの中の誰も知らない。

 その門の向こうで、何百年も解かれなかったものが、今、人の手で解かれようとしている。誰も悪だと思わずに。国のためだと信じたまま。


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