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第29話 握り潰された真実

 卓に地図を広げ、神殿の見取りを描き込んだ。

 拝観で通った回廊。御神体の間へ続く大扉。柱に彫られていた祈る人の列。覚えている限りを線にしていく。ジルが横から書き足し、ダグが兵の配置を書き入れた。

「学士たちは、朝のうちに入る」

 紙の上を指でなぞりながら、ダグが言った。

「祭具を運び出して、祀りの座を解く。そのために、荷役も入る。人の出入りが増える日だ。……紛れ込むなら、この時しかねえな」

「表からは無理よ」

 カイラが首を振った。

「あたし、昨日から神殿の周りを回ってたんだけど、門の数だけ人が立ってる。巡礼はしばらく止めるって、掲示も出てた」

 二日前に目をつけられた身では、正面から入る道はもうない。紙の隅に、裏の通用口を描き足した。荷役が使う口だ。荷に紛れるか、運ぶ側の顔をして入るか。どちらにしても、朝までに詰めなければならない。

 夜が更けても、誰も眠らなかった。エルナが茶を淹れ、カイラが矢を数え、ダグが刃を研ぐ。決めるべきことは、まだいくつも残っている。

 やがて、ジルが立ち上がった。部屋の隅に積まれた書物の山を、上から順に崩していく。埃が舞い、カイラが顔をしかめた。三段目あたりから、彼女は一冊を抜き出した。

「見せておきたいものがある」卓に置かれたのは、表紙のない、糸で綴じただけの帳面だった。開くと、細かい字がびっしりと並んでいる。楔の仕組みについて、これまで集めた断片を書き写したものだという。

「見ての通りだ。肝心なところは、どれも欠けてる。誰かが、きれいに削り取った後さ」

 頁をめくる手が、途中で止まった。何行も削られて白いままの箇所を、指先が撫でている。

「……あたしが、これを追い始めたのもな。元は、一冊の禁書だった」

 問わずに、続きを待った。

「学院の書庫の、いちばん奥だ。誰も読まない古文書の山に紛れてた。虚は外から来たんじゃない、底に封じられたものだ、と書いてあった。あんたに見せた、あれと同じ言い分さ」

 その声から、いつもの皮肉が抜けていた。

「あたしは、興奮した。正史が間違ってる。この国が信じてるものは嘘だ。それを証明できれば、学者としての名が上がる。……浅はかだったよ」

 乾いた笑いを漏らして、ジルは頁を閉じた。

「師に見せた。その日のうちに、書庫からその禁書は消えた。次の朝、あたしの席もなくなってた。書いた論文は、目録から名前ごと削られた。誰も、あたしを罰しなかったよ。ただ、あたしのやったことが、初めから無かったことになった。それだけさ」

 削られた巻物の余白が浮かんだ。文字のあった場所が、白く口を開けていた。書物から消し、目録から名を削り、人の記憶からも薄れるのを待つ。この女の数年も、同じように白く抜かれている。

「怖くなかったのか」

「怖かったさ」ジルは、あっさりと答えた。

「だが、それ以上に、腹が立った。真実ってのはな、握り潰されるために存在するのさ。……誰かがそんなに必死で消したがるものは、よほど、消されたくない何かだ。あたしは、それが何なのかを、死ぬまでに一度でいいから、この目で見たい」

 目の奥に、干からびない怒りがあった。何年も、この狭い部屋で燃やし続けてきたのだろう。

 しばらく、黙っていた。この女には話すべきだと思った。明日、共に大楔の間へ向かう。互いの背を預ける。その前に、隠したままでいるのは違う気がした。

「あんたの追ってるものの、答えにはならないかもしれない。だが、見せておきたいものがある」

 掌を開いた。意識を内側へ落とし、胸の奥で澱んでいるものを、指先へ手繰り寄せる。掌の上に、黒い刃が凝った。渦を巻く闇。光を吸い、輪郭だけが震えている。

 ジルが息を呑んだ。

「……それは」

「虚だ。俺の中にある」

 カイラもダグも、口を挟まなかった。二人は、とうに知っている。エルナが、静かに目を伏せた。

「島守の家に生まれた。故郷の島に小さな核があって、それを継いだ。この刃は、沈みを斬れる。魔物を断てる。断った傷は、二度と塞がらない」

 刃を掌の中で握り消した。指先に、まだ痺れが残っている。

「だが、使うほど、体が薄れていく。指先から、腕から。使い切れば、消える」

 部屋が静まり返った。エルナの手の中で、薬包が乾いた音を立てた。

「あんたが読んだ禁書の、底に封じられたもの。それが何なのかは、こっちにも分からない。だが、この中のものは、たぶん、その欠片だ。人の身で、滅びの力を宿してる。……この国なら、火炙りだろうな」

 ジルは、凝りついたように、その掌を見ていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。恐れは、なかった。

「なるほどな」立ち上がり、こちらの前まで来ると、その手をまじまじと覗き込む。

「災いを宿す者、か。神殿が聞けば、そう呼ぶだろうさ。人が石を投げる相手だ」

 彼女は、視線をこちらの目へ移した。

「だが、あたしには、そうは見えん。あんたは、その力で人を斬ってきたか? いいや、守ってきた。消える体で、他人のために。……あんたは災いじゃない。あたしがずっと探してた、あの禁書の言い分が嘘じゃなかったっていう、生きた証拠だ」

 その言葉を、これまで誰にも言われたことがない。

 この血は罪だと教えられてきた。身を捧げて贖え、と。畏れられ、忌まれ、それが当たり前だと思っていた。だが、この学者くずれは同じものを見て、真実の証だと言う。

 喉の奥が、詰まる。

「明日、あんたと一緒に、あの楔の間へ行く」

 ジルは掌から手を離すと、いつもの皮肉げな笑みに戻った。

「あたしの探してた真実の、その続きが、あそこにあるかもしれん。握り潰される前に、この目で見てやる。……それだけさ」

 カイラが、矢筒の紐を締め直した。ダグが、研ぎ終えた刃を鞘に納める。エルナが、薬包を数え終えて顔を上げた。

 誰も、行くとも行かないとも言わなかった。もう、決まっていた。

 窓の外が、白み始めている。屋根の向こうに、大神殿の尖塔の影が浮かび上がってきた。

 夜が明ける。調査の日が、来た。


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