第28話 接触
残された時間は、あと二日。
その日も、朝から都を歩き回っていた。カルヴァスの動きを掴む手がかりが、どこかに落ちていないか。王権派の屋敷の周辺、学院の界隈、神殿の門前。だが、どこにも、それらしいものはない。相手は、この国の中枢に守られている。近づけば近づくほど、こちらの素性が危うくなるだけだった。
昼を過ぎ、大通りの市場は、人でごった返していた。
野菜と、香辛料と、家畜の匂い。売り子の声。値切る主婦の笑い声。滅びなど、どこか遠い国の話だとでもいうような、平穏な喧騒。この人たちは、二日後に何が起きようとしているのかを、何も知らない。
その人波の中を、押されるように歩いていた、その時だった。
内側の“無”が、ひやりと、疼いた。
あの、覚えのある感覚。楔を壊して回る、あの連中の気配。それが、遠くではない。すぐ、近くに。
足を止め、周囲を見回した。買い物客。荷を担いだ人足。子どもを叱る母親。どこにでもいる都の人々で、誰も、こちらを見てはいない。なのに、気配は確かにある。しかも、真横に。
「探しているのだろう。私を」
声は、すぐ隣から聞こえた。
振り向く。いつのまにか、一人の男が並んで立っていた。背の高い、痩せた男だ。仕立てのいい、だが地味な色の長衣。歳は四十ほどか。整えられた髪に、彫りの深い理知的な顔立ち。すれ違えば、学者か役人だと思うだろう。そういう、目立たない男だった。
だが、その目だけが違った。こちらを見ているのに、何も見ていない。人が人を見る時の、あの温度がまるでない。荒野で対峙した、あの顔のない実行者たちと、同じ質の目。
息が、詰まった。賢者、カルヴァス。
「そう、身構えるな」
男は、穏やかに言った。声も、姿と同じく、どこまでも平坦だ。
「この人混みで、お前は、その手のものを抜けない。私も、同じだ。互いに、動けない場所を選んだ。……効率的だろう?」
その通りだった。ここで刃を抜けば、俺は“災いを宿す者”として、この国全体から追われる身になる。仲間ごと。それが分かっていて、この男は、ここに立っている。
「……何の用だ」
絞り出すと、カルヴァスは、わずかに首を傾げた。
「用があるのは、お前の方だろう。ずいぶん、探し回っていたようだからな。書庫の記録を洗い、私の来歴を嗅ぎ回り、扇動の金の流れを辿った。あの学者崩れの女は、なかなか優秀だ」
背筋が強張った。こちらの動きは、すべて筒抜けだ。ジルのことも。カイラが金の流れを追ったことも。
「……いつから、知っていた」
「この国に入った時からだ」
男は、事もなげに答えた。
「いや、正確には、その前からだな。西の荒野で、我々の作業を邪魔した者がいる、と報告があった。人の身で、“あちら”を宿す者。……興味深い、と言っただろう」
あの時の言葉。顔のない実行者が消える間際に残した、その一言。それが、この男のもとに届いていた。
「私は、お前がこの都に入る前から、待っていた。そして、来た。予測通りに」
「……予測、だと」
「お前は、必ずここへ来る。壊された楔をたどれば、次に大きな楔があるのは、ここだからだ。滅びを追う者は、必ず、滅びの向かう先へ来る」
カルヴァスは、市場の喧騒を、ゆっくりと見渡した。値切る声。子どもの笑い声。荷車の軋み。
「この国は、大きい。人も多い。だから、面倒な手順が要った。楔は、人の祈りで保たれている。ならば、祈りをやめさせればいい。剣も、牙も、要らない。人が、自分の手で、それを外す。……そういう作業だ」
作業。その言葉に、腹の底が煮えた。この男にとって、この街の何十万もの命は、片付けるべき手順の一部でしかない。避難民街の火も、憎しみ合う人々も、すべて、そのために作られたのだ。
「……お前は、何が目的だ」
問いに、カルヴァスは、初めて、わずかに口の端を動かした。笑ったのかもしれない。だが、目は、まるで変わらなかった。
「返しに行くだけだ。盗んだものは、返さなければならない。子どもでも知っている道理だろう」
意味が、分からなかった。だが、その言葉の奥に、この男が、ただの破壊者ではない何かを抱えているのが、確かに感じ取れた。
「……ふざけるな」
声が、震えた。
「お前たちが楔を壊すたびに、町が消える。人が消える。俺の故郷も、アルカも。返す? 何を返すって言うんだ」
カルヴァスは、しばらく、黙って俺を見ていた。
それから、静かに言った。
「お前は、その力で、何人を救った」
「……何?」
「救うたびに、その身は薄れているはずだ。指先から。腕から。……そして、それでも救うのをやめられない。違うか」
答えられなかった。この男は、俺のことを、俺自身よりも知っているような口ぶりで話す。
「なぜだと思う。なぜ、お前の中のものが、お前を蝕みながら、なお人を救う力になる。……その答えを知った時、お前は、今と同じ場所には立っていられない」
カルヴァスは、そこで言葉を切ると、俺に背を向けた。
行かせるものか。反射的に手が動きかけた。だが、動けない。周囲には人が溢れている。ここで力を使えば、この平穏がすべて壊れる。拳を握りしめ、その背を睨むしかなかった。
男は、二歩ほど歩いて、足を止めた。振り返らずに、静かに告げる。
「我々は、敵ではない。いずれ、分かる。……お前は——こちら側だ」
人波が、その姿を飲み込んだ。追おうとした時には、もう、どこにもいない。あの気配すら、ぷつりと途切れている。まるで、初めから誰もいなかったように。
立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
敵は、こちらの手の内を、すべて知っていた。名も、仲間も、動きも。それでいて、始末しようともしない。泳がせている。まるで、いずれこちらへ転がり込んでくる駒でも眺めるように。
その余裕が、何より恐ろしかった。
喧騒は、何も変わらず続いている。誰一人、今ここで何が起きたのかを知らない。二日後、この街の足元が外されようとしていることも。宿へ向かって、走り出した。
伝えなければならない。あの男が、すでに、こちらを見ていることを。
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