第26話 神殿へ
「あの楔を、この目で見る」
朝、そう切り出すと、ジルが写本から顔を上げた。
「正気か。神殿は今、王権派の一件でぴりぴりしてる。余所者なんぞ、門前払いだ」
「調査の日に何が起きるかを知りたければ、何が調べられるのかを先に知るしかない。あんたの読んだ論考には、封印の仕組みが書いてあったんだろう。なら、実物と突き合わせる」
ジルは、しばらく黙ってこちらを見ていた。それから、舌打ちを一つ。
「……昔の伝手が、一人いる。学院の同期で、今は神官だ。巡礼者としてなら、御神体の間の手前までは入れる」
カイラが巡礼装束を四人分かき集め、ダグが荷から得物を抜いて宿に残した。武器を持ったままでは、門で止められる。
昼過ぎ、大神殿の門をくぐった。
白い石の回廊は、見上げるほど天井が高い。色硝子を通した光が、床に幾筋も落ちている。香が焚かれ、どこか奥から祈りの声が低く響いていた。行き交う神官の足取りは静かで、規律正しい。この建物のすべてが、あの御神体への信仰でできている。
その回廊を進むほど、内側の“無”が疼き始めた。都に入った日に感じた、あの途方もない何か。それが、今は壁一枚の向こうにある。継承した核と、神殿の奥の大楔。同じ根を持つ二つが、引かれ合おうとしていた。
香の煙が濃い。白檀に、名も知らない甘い樹脂が混じっている。奥へ進むほど、その匂いは強くなった。何百年も、絶やさずに焚き続けてきた匂いだ。壁も、柱も、この煙を吸って白く曇っている。
抑えろ。奥歯を噛み、胸の内で暴れるものを意志で押さえつける。額に汗が滲んだ。ここで力が漏れれば、すべてが終わる。これまで、刃を出さないことにこれほど神経を使ったことはない。戦うより、隠す方が苦しい。
「……大丈夫?」
隣を歩くカイラが、小声で囁いた。
「問題ない」
答えた声が、わずかに掠れた。
やがて、御神体の間へ続く大扉の前に出た。ジルの伝手だという神官が、そこで待っている。長身で、頬のこけた男だった。
「ここから先は、選ばれた者のみです。巡礼の方は、この扉の前で祈りを捧げるのが習わし」
他の巡礼者に倣い、扉の前に膝をついた。この扉の、すぐ向こう。手を伸ばせば届く距離に、あれがある。核が、狂おしく疼いた。扉の向こうの片割れへ、呼びかけるように。
視線を上げ、扉の脇の柱を見た。石に彫り込まれているのは、人の列だ。花を捧げる者。跪く者。灯りを掲げる者。祀ることそのものが、あの封印を保ってきた。ジルの論考が言っていたのは、これか。人が信じ、祈りを絶やさないかぎり、楔は楔でいられる。
ならば、祈りをやめさせれば。
その考えが形になりかけた瞬間、内側の何かが、ぐらりと傾いだ。抑えきれない。胸の奥で、何かが激しく脈打つ。鼓動ではない。もっと大きなものが、こちらと扉の向こうとの間で、通い合おうとしている。全身の産毛が逆立った。
次の瞬間、御神体の間の奥で、澄んだ空気がぴりりと震えた。祈っていた神官の一人が、顔を上げる。
「……今、御神体が」
ざわめきが広がった。
「鳴った? 何百年も黙っていたものが」
「何が起きている。外部の者がいるのか」
張り詰めたものが、一斉にこちらへ向いた。
まずい。核の共鳴が、あれを揺らした。この身の内に同じものが宿っていると、あの巨大な封印が神殿中に告げている。血の気が引いた。ここで正体を知られれば、信仰の総本山の真ん中で袋の鼠だ。
カイラの手が、ないはずの弓を探して動いた。ダグが、じりと半歩、こちらの前へ出る。エルナだけが、膝をついたまま動かない。
逃げれば、疑いを認めることになる。四人で走って、この回廊を抜けられるはずもない。
膝をついたまま、深く頭を垂れた。祈る形に。周りの巡礼者と、同じ形に。
そして、震える声を作った。
「……申し訳ありません。旅の途中で、村を、沈みに」
言葉を途切れさせる。半分は演技だが、半分は違った。
「家族が、あれに呑まれました。せめて、この方に祈らせていただきたくて。取り乱しました」
こちらへ向いていた視線が、緩んだ。年配の神官が一人、痛ましげに目を伏せる。
滅びに家を失った者は、この都に何万といる。神殿へ来る巡礼の多くが、そうだ。ありふれた話だからこそ、疑われにくい。嘘は、本当のことの中に混ぜるほど通る。父も、母も、あの島で消えた。それだけは、演技ではなかった。
「巡礼の方々。少し外の風に当たられては」
ジルの伝手の神官が、穏やかに前へ出た。他の神官たちの視線を、その体で遮る。
「遠方から来られた敬虔な方々です。長旅の疲れで気が昂ぶっておられる。私が送りましょう」
「ああ、すまねえな」ダグが即座に話を合わせた。「こいつ、ゆうべから何も食ってねえんだ。外で休ませるよ」
肩をがっしりと抱えられ、半ば引きずられるように回廊を戻った。カイラとエルナが続く。背中に、いくつもの視線を感じた。だが、誰も追ってはこなかった。
門の外へ出て、ようやく息をつく。疼きが、少しずつ引いていった。手のひらが、汗で濡れている。
「……危ねえ、ところだったぜ」
ダグが額の汗を拭った。
神官は、門の外まで見送ると、声を潜めた。
「驚きました。あなたの中のものが、御神体にあれほど応えるとは。……ただの巡礼でないことは承知の上でしたが、私が思っていたより、ずっと厄介な事情がおありのようだ」
探るような目だった。だが、そこに敵意はない。
「一つ、お伝えします。あの調査は、こちらの反対を押し切って行われます。王権派には、専門家の後ろ盾がある。神核の理を、我々よりも詳しく説く学士が」
「……その男の名は」
「カルヴァス殿。ご存じでしたか」
やはり、そこへ繋がる。
「くれぐれも、お気をつけを。神殿は、もうあなた方に目をつけました。次はないと思っていただきたい」
そう言い置いて、神官は白い回廊の奥へ戻っていった。
遠ざかる大神殿を振り返る。
あの中に、この国を支える楔がある。それを狙う男の手も、すぐそこまで伸びている。だが、こちらはもう近づけない。近づけば、露見する。
柱に彫られた、祈る人の列が浮かんだ。花を捧げる者。跪く者。灯りを掲げる者。人が祀ることで、あれは保たれてきた。何百年も、絶やさずに。
もし、あの男が同じことに気づいているのなら。壊す必要すら、ないのかもしれない。祈りをやめさせれば済む。国を割り、街に火をつけ、聖域に王の手を突っ込ませる。あの回りくどい手順のすべてが、そこへ向かっているのだとしたら。
背筋を、嫌なものが這い上がった。
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